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第5章 名古屋の残響と、寝息の共鳴

【夢の迷宮】


その夜、進は深く、底知れぬほど深い眠りに落ちた。

夢の中の進は、まだあの「派遣」という名の戦場にいた。

受話器からは絶え間なく罵声が鳴り響き、平成生まれの社員からの冷酷な叱責が、冷たいつぶてのように降り注ぐ。

(……まだ、終わらないのか)

重い足取りで事務所を出た進が、とぼとぼと夜道を歩いていた、その時だ。


突然、視界がパッと弾けるように明るくなった。

冷たいコンクリートの景色は消え、そこには何十年も前の、懐かしい名古屋の街並みが広がっていた。

轟音とともに、名鉄パノラマカーの真っ赤な車体が目の前を走り抜けていく。

もう、なくなったはずの小売店「チューリップのお店」が目の前にある。

ふと横のショーウィンドウを見ると、進は絶句した。

映っていたのは、白髪の混じった現在の自分ではなく、小学校入学前の、あの頃の小さな自分だった。


「今日は暑いね、進」


隣には、あの時と同じ、若々しい千夜子が立っていた。


【夢の渚にて】


「ママ……。亡くなったはずじゃ……」


進の戸惑いを気にする風もなく、千夜子は愛おしげな手つきで進の頭を撫でた。

夢の中の空気は微睡まどろむように温かく、母の掌の感触は、冬の陽だまりのように驚くほど生々しい。

母・千夜子は若い。

まだ、20代だろう。

こんなに綺麗な人だっただろうか。

千夜子は眩しいほど美しく、笑顔が素敵だった。


「進は、大きくなったら、何になりたい?」


不意の問いかけに、進は言葉に詰まった。

なんて言えば良いんだろう。

講師って言うべきだろうか。

進は、戸惑っていた。

千夜子は、遠い水平線を見つめるような瞳で代わりに答えた。


「教える仕事が良いかな」

「……」

「進はね、凸凹でこぼこだから、気を付けないといけないね」


凸凹。昼間のクリニックで医師が発した冷徹な診断が、母の口から出ると不思議と柔らかな響きを帯びた。

「どういうこと?」


「人にはね、向いていることと向かないことがあるの。これからは、それを選べる時代になるわ。……パパやママは、選べなかったけれど」


千夜子の声には、時代という抗えない奔流ほんりゅうに身を任せるしかなかった者たちの、深い沈殿物のような哀しみが宿っていた。


「選べなかったの?」

「そう。選べなかった。道は一つしかなかったの。でもね、進は選べるの。ママやパパと違うのよ」

 進は戸惑った。

 収入を得るために手当たり次第仕事を引き受けてきた。

 それは良くないと分かっているつもりだった。

 「自分の手で選ばなきゃダメよ。約束してくれる?」


【「なかくら」の記憶と、静かなる復讐】


千夜子は膝を抱えた進をそっと引き寄せると、一族の血脈に流れる物語を、静かに語り聞かせた。


「進のおばあちゃんね。実家は『なかくら』っていう大きな元庄屋だったの。庄屋って知ってる?大金持ちのおうち。八十以上もの部屋があって、すごいおうちに住んでいたわ。けれど、おばあちゃんのお父さま……曾祖父さまね。その人がひどくお金を使っちゃって、家はすっかり貧乏になったの」


千夜子の瞳には、一度も見ることのなかったはずの、栄華と没落の情景が映っていた。


「良い家に育って、お嬢様って呼ばれていたおばあちゃんが、あのおじいさんに嫁いだのは、本当に……本当に悲しいことだった。(まさにい、と言いかけて)政夫おじさんは、それをずっと恨んでいるわ。おばあちゃんのことも、おばあちゃんをそんな人にしてしまった『なかくら』という家のこともね」


進は黙って聴いていた。

信州の叔父・政夫が、なぜあの日、母の遺した本を塵芥ごみのように蔑んだのか。

その拒絶の理由が、凍てついた地層から掘り出されるように見えてきた。


「おばあちゃんはね、下品なことを何よりも嫌いだったわ。だから、政夫おじさんが『畜生』と吐き捨てて悔しがっていると、酷く叱ったの。『相手は人なのだから、獣のように呼んではいけません』って。……だから、今の政夫おじさんはね、家でわざと下らないテレビを見ては大声で笑うのよ。おかしいでしょう。それは、もういないおばあちゃんに対する、おじさんなりの精一杯の仕返しなのね」


進の脳裏に、あの日の居間の光景が蘇る。

派手な色彩と騒音を撒き散らすテレビ画面に釘付けになり、俗悪な笑いに身を委ねていた叔父・政夫の姿。

あれは愉悦ではなく、かつて自分を縛った「気高さ」への、孤独な反逆だったのだ。


「政夫おじさんの怒りも、分かってあげてほしい。みんな、自分なりの『正しさ』を持っているの。必死に生きているの。進……みんな、精一杯生きていることだけは、忘れないでね」


【二人の進】


千夜子は再び、真っ直ぐに進の瞳を覗き込んだ。

その眼差しは、宿命を告げる予言者のように鋭く、同時に包み込むような慈愛に満ちていた。


「進は選べるのよ。おばあちゃんとも、パパやママとも違う。政夫おじさんだって、結局はほとんど選べなかった。けれど、進は選べる」


千夜子の声が、潮の満ち引きのように進の心に深く染み渡る。


「ママには見えるの、大人になった進が。でもね、全然違う進が二人いる。……すごく生き生きとして輝いている進と、合っていない場所で、肩を落として落ち込んでいる進。いい、進。自分を殺すような場所に、居続けちゃダメよ!」


その叫びが響いた瞬間、波が引くように夢の景色が遠のいていった。

母が最後に遺したこの啓示は、これから進が歩む「法」という名の迷宮で、彼を導く唯一無二の北極星になろうとしていた。


【暗闇の寝息】


その叫びが鼓膜を震わせた瞬間、進は跳ねるように目を覚ました。

真夜中の静寂。窓からはかすかな月光が差し込んでいる。


「……あ、あ」


まだ夢の余韻で心臓が激しく波打っている。

その静寂の中で、進はある音に気づいた。

すーっ、すーっ……。

規則正しい、穏やかな寝息。

すぐ傍らには美智子が眠っている。

だが、その寝息は美智子のものよりもずっと小さく、どこか幼い響きを持っていた。


実は、こういうことは結婚前から何度もあった。

進はいつも「古いアパートの隙間風か、自分の気のせいだ」と言い聞かせてきた。

だが、今夜のそれはあまりに鮮明だった。


「……進君、起きてるの?」


不意に、美智子が目を覚ました。

進は震える声で、彼女に問いかけた。

「美智子さん……寝息が聞こえないか。僕たちの他に、誰かいるような……」


美智子は闇の中でじっと耳を澄ました。

やがて、彼女は静かに、しかし確信を持って頷いた。 「うん……聞こえるよ。進君。ずっと前から、時々聞こえていたよ」


二人の「凸凹」を肯定してくれた、見守るようなその寝息に包まれながら、進はもう一度目を閉じた。

合っていない場所からは、もう立ち去っていい。

自分の物語の主人公として生きるための覚悟が、静かな闇の中で、ゆっくりと進の胸に満ちていった。

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