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第5章 大学講師の可能性と限界

【教室の異変、そして「看板」の重み】


 そんな穏やかな時間もまた、新たな現実によって塗り替えられていく。

 社会人ゼミの成功を受け、予備校から新たな打診があった。

 大阪府内にある私立大学の正課講座。

 警察官や消防官を目指す学生たちを対象とした学内講義だ。


 教壇に立った進の前にいたのは、かつての予備校の受講生たちとは毛色の違う若者たちだった。

 やる気に満ちた瞳もあれば、一方で「勉強は大嫌いだが、親に言われて公務員を目指している」という投げやりな空気も混在している。


 ある日の講義中、進は教室の後方に異様な光景を見た。

 最後列の学生が、あろうことか授業中にカップラーメンを啜っていたのだ。

 立ち上る湯気と、教室に漂うジャンクな香りに、進は一瞬言葉を失った。

 目が合うと、学生は気まずそうに容器を抱え、逃げるように教室を去っていった。


 後日、大学の公務員コース担当教授と、予備校の営業担当者を交えた話し合いの席。

 教授は深く溜息をつき、進と営業担当者に頭を下げた。

「申し訳ない。今後、不適切な態度があればすぐ私に伝えてください」

 教授の表情には、焦燥の色が混じっていた。

 この大学は高い退学率と休学率に悩まされていた。

 強く叱りすぎれば学生が辞め、進や予備校の立場を悪くしてしまう。

 そして、それは教授自身の学内での立場にも影を落とすことを、進は敏感に察した。


 予備校の営業担当者が、「厳しく指導しなければ合格実績は伸びません」と進言した。

 すると、教授は重い口を開いた。

「……仰る通りです。ですが、大学としては『こうした専門講座を開講している』という事実自体が、広報上の大きな売りなのです。極論を言えば、合格者数よりも、講座を組んでいる体制そのものが重要なのですよ」


 その言葉に進は、教育の現場が抱える別の種類の「歪み」を見た。

 実績よりも看板を優先する大学側の本音。

 それでも進は、目の前の学生一人ひとりを「実績のための駒」でも「看板のための背景」でもなく、一人の人間として見つめ続けた。


 結果は、周囲の予想を大きく裏切るものだった。

 そのクラスの学生たちは、試験当日まで進の「超訳」に食らいつき、これまでの実績を大幅に塗り替える内定者数を叩き出したのだ。

 大学側は一転して手のひらを返し、コースの増設を依頼。進の担当コマ数も飛躍的に増えていくこととなった。


 看板が欲しかった大学、実績が欲しかった予備校。

 だが、その狭間で本当に「橋」を渡りきったのは、ラーメンを啜りながら迷走していた、あの不器用な若者たちだった。


 【教育の矜持と「看板」の代償】


 大学側が喜悦に沸き、進の担当コマ数が増設される一方で、その「光」の影では、教育現場の根幹を揺るがす深刻な亀裂が生じていた。


 進と共に別の科目を担当していた、ある一人の非常勤講師がいた。

 彼は実務家出身で、法と規則の厳格な運用を信条とする、妥協を許さない男だった。


 その講師のクラスに、一人の学生がいた。

 彼は早くから、就職の内定を得ていた。

 最初は公務員コースに在籍して公務員を目指していたが、途中で進路変更した。

 彼は、講義への出席は疎かで、課されたレポートも未提出、試験の出来も目も当てられない惨状だった。

 講師が再三警告を発したものの、学生は「内定しているから、最後は大学がなんとかしてくれる」という甘えを隠そうともしなかった。


 学期末、講師が下した評価は「不可」。

 当然の帰結として、その学生には単位が与えられなかった。


 【事務室の密談】


 事態を把握した大学側は、騒然となった。

 その学生が進んでいた企業は、大学にとって重要なパイプを持つ大手であり、一人の留年が今後の推薦枠や広報に泥を塗ることを恐れたのだ。


 公務員コースの担当教授と事務局長は、その講師を別室に呼び出した。

「先生、そこをなんとか、追加の課題か何かで『可』にしていただくわけにはいきませんか。彼はもう内定を勝ち取っている、大学の『看板』を背負って社会に出る功労者なのです」


 教授の言葉は懇願に近いものだったが、講師の返答は氷のように冷ややかだった。

「教育機関が、努力を放棄した者に温情で単位を与える。それは、真面目に机に向かっている他の学生たちへの裏切りであり、ひいては大学の学位の価値を自ら貶める行為です。規則に基づき、評価は変更しません」


「ですが、これで彼が留年すれば、内定は取り消しになります。一人の若者の人生を壊すおつもりですか!」


 事務局長の声が荒らげられたが、講師は動じなかった。

「人生を壊しているのは、ルールを守らなくても許されると教えようとしている、あなた方の方だ」


 【契約終了と、孤独な法廷闘争】


 結局、その学生は一単位が足りずに留年が決まり、内定は立ち消えとなった。

 大学側が下した報復は、迅速かつ無慈悲だった。

 年度末、その講師に対し、「教育方針の不一致」という名目で、来年度の契約を更新しない旨の通告がなされたのである。


 事実上のクビであった。

 納得のいかない講師は、大学を相手取り、雇用契約の継続と地位確認を求める裁判を提訴した。


「大学は、教育の場ではなく、ただの『卒業証書販売所』に成り下がったのか」


 法廷の場で、講師は孤独な闘いを始めた。

 大学側は「講師の指導が硬直的であり、学生の学習意欲を減退させた」と主張し、自身の正当性を盾に「看板」を守ろうと躍起になった。


 進はこの騒動を、複雑な思いで見つめていた。

 かつて自分が塾の「正論」で減給処分を受けた時の痛み。

 そして今、目の前で起きている「正義」を貫こうとした者の追放。

 大学という巨大な組織が、広報や実績という「看板」を維持するために、個人の教育的良心をいとも容易く切り捨てていく。


 ただ、進は、大学を批判しようとも思わなかった。

 どちらが正義という話ではない。

 看板を磨くのは大学の仕事なのだ。

 だが、その看板が示す中身が腐っていないことを保証するのは、泥臭い現場で学生と向き合う講師の「譲れない一線」でもある。


 難しい問題だった。

 答えの見つからない問いに向き合っていく。

 進はそれが社会人の仕事なのだと、改めて気づかされるのだった。

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