第4章 愛犬への眼差し、妻への眼差し
【深夜のスーパー、二人のパズル】
仕事帰り、進は深夜のスーパーに立ち寄った。
蛍光灯の光が静かに反射する店内で、進の手は迷いなく「見切り品」の棚へと伸びる。
買い物は、進にとって高度なパズルのようなものだった。
美智子には、抗えない「特性」としての好き嫌いが多い。
納豆、ワサビ、マヨネーズ。もずくやキュウリ、梅干しに昆布。
さらに歯が弱いため、固いものも避けなければならない。
「これなら、柔らかく煮れば食べられるかな……」
慎重に吟味しながら、籠には半額のシールが貼られたひき肉や豆腐、そして美智子の楽しみである栄養ゼリーをいくつか入れた。
生協の宅配で届いた安い基本食材と、これら見切り品を組み合わせるのが進の腕の見せ所だった。
【台所の調和】
帰宅後、進はすぐに台所に立った。
まな板を叩くリズミカルな音とともに、安くて栄養があり、何より美智子の口に合う「美味い食事」が形作られていく。
その傍らで、進は風呂の準備をし、洗濯機を回し、時折、散らかった部屋の片付けを並行してこなしていく。
「進君、あのね、今日こんなことがあったのよ」
美智子が台所の入り口に立ち、今日あった楽しかったことを語り始める。
進は、炒め物をしながら、あるいは洗濯物を干しながら、「へえ、それは良かったね」と笑顔で返す。
進からも、仕事での出来事やニュースの話題を振ってみるが、美智子はふいっと視線を逸らしたり、返答がなかったりする。
彼女にとって、興味のない話題は脳を素通りしていく。
かつての進なら、そんな彼女の態度に寂しさを覚えたかもしれない。
しかし、今は違う。
(いいんだ。彼女が今、笑って話せている。それだけで、ここは聖域なんだ)
二人だけの、不器用で、時代遅れの、けれど確かな幸せ。
台所から漂う温かな湯気の中に、進がずっと探し求めていた「正解」が、確かに存在していた。
【ペット動画と静かなまなざし】
夕食を終え、美智子が満足げに寝室へ引き上げた後、進は一人、リビングのソファでスマートフォンを開いた。
画面の中で再生されたのは、ある愛犬家が投稿しているゴールデンレトリバーの動画だった。
飼い主が話しかけても、犬は自分の気になる匂いを追いかけてどこかへ行ってしまう。
けれど、ふとした瞬間に戻ってきては、無防備な顔で飼い主の膝に頭を預ける。
その、言葉を超えた純粋なやり取りを眺めながら、進の口元に自然と笑みがこぼれた。
(……うちと、凄く似ているな)
進は、ふと寝室の方へ視線をやった。
自分の興味があるときだけ熱心に語り、興味が逸れればふいっとどこかへ行ってしまう美智子。
世間一般の「対等な対話」という枠組みに当てはめれば、それは不成立なのかもしれない。
けれど、言葉のキャッチボールが成立することだけが、愛の証明ではない。
「期待」という重荷を下ろし、彼女の特性を丸ごと受け入れてみれば、その自由奔放で無垢な姿は、ただそこにいるだけで愛おしい、一匹の愛犬の存在に近いように思えた。
彼女は彼女のままでいい。
進は、スマートフォンの電源を切り、暗くなった画面に映る自分の穏やかな顔を見つめた。
朝食準備も、朝の掃除もゴミ出しも、神棚の管理も、皆、進がやっている。
進が仕事に行き、美智子はどこかに出かける。
仕事ではない。
公園や図書館、将棋教室で過ごす。
美智子は、仕事ができない。
怠け者なのではない。
どうしても続かないのだ。
そういうところも含めて、美智子は進にとって、愛すべき対象だった。
ただ、進がもし倒れたら、美智子は路頭に迷ってしまう。
だから、何としても、支援を受けないといけない。
そう考えた進は、粘り強く美智子をメンタルクリニックに連れていくのだった。
進と美智子は、二人暮らしだ。
進が最初収入が不安定だったこと、美智子が子宮筋腫を患ったことで、子どもはいないままだ。
でも進は、そんな人生も良いと思っていた。
進には実の子は居ないが、数え切れないほどの教え子がいた。
それはそれで、充実した人生だと思った。
もちろん、いろんなことを言われることもある。
でも、人生は、誰かに理解されるためのものではない。
目の前の「命」を慈しみ、共感することで人生は充実するのだ。
進は、静かに部屋の明かりを消した。
そして、深い安らぎの中で眠りについたのだった。




