第4章 明日に架ける橋―再起の社会人ゼミナール
【斜陽の教室と、新たな航路】
かつて、溢れんばかりの学生で熱気に満ちていた公務員試験予備校。
しかし、容赦ない少子化の波と、皮肉にも好景気がもたらした民間企業への人材流出。
そして深刻な人手不足。
それは、教壇からの景色を変えてしまった。
空席の目立つ教室。
時代の移ろいが、冷酷に映し出された光景だった。
「伊崎先生、社会人向けに舵を切りたいと考えています。経験者採用、そして氷河期世代……。もう一度人生をやり直したいと願う大人たちのためのゼミを、あなたが率いてくれませんか」
予備校からの提案。
それは、かつて自らも「敗者」の烙印を押されながら、法の盾を求めて足掻いた進にとって、断る理由のない宿命のような誘いだった。
【挫折を誇りに変える場所】
集まったのは、若者たちのような「未来への期待」に満ちた顔ぶれではなかった。
そこにいたのは、組織の荒波に揉まれて疲弊した者、不運な時代に翻弄され続けた者――。
背負ってきた重荷の分だけ、その瞳には深い沈黙が宿っていた。
40代の会社員の主婦。
彼女は家事と育児、そして激務の合間を縫ってゼミに通い詰めた。
国税庁の経験者採用試験。
法律の専門試験はなく、問われるのは教養科目と、自らの歩みを言葉にする論作文、そして人間性を見る面接のみ。
「私には、何も武器がないんです」
そう俯く彼女に、進は言い切った。
「あなたが家庭と仕事を両立させ、今日まで戦ってきたその『日常』こそが、何にも代えがたい武器です」
彼女は、自らの人生を論理的に語る術を学び、見事に国税庁への切符を掴み取った。
そして、50代の男性受講生。
彼はかつて、国家公務員と政令指定都市の両方に合格した。
しかし、政令指定都市を選んだのが失敗だった。
職場への不適合から退職。
親の介護もあり、10年以上のブランクを抱えていた。どこの予備校も「合格の見込みなし」と門前払い。
しかし、彼を、進は受け入れた。
「10年の空白は、あなたが自分自身を見つめ直すために必要な時間だった。それを、国家のために活かす道は必ずあります」
かつて合格した場所へ、四半世紀の時を経て「氷河期採用」として返り咲いたその時、男性は進の手を握り、言葉にならぬ涙を流した。
さらに、50代の女性受講生。
新卒で入った会社がブラック企業で、短期離職。以後、派遣と契約社員の不安定な波間に漂ってきた彼女。
「私はずっと、社会の隅っこにいました」
彼女は、神戸市への合格を決めた。
倍率は50倍。
不安定な非正規雇用の日々を耐え抜いた彼女の粘り強さは、市民の痛みに寄り添うための「優しさ」という名の資格へと昇華されたのだ。
【帰り道の旋律】
夜の講義を終え、進は家路に就く電車に揺られていた。
窓に映るのは、講師としての誇りを取り戻し、かつての自分と同じように「再起」を願う人々を送り出した男の顔だ。
進はスマートフォンを取り出し、イヤホンを耳に挿した。
流れてきたのは、サイモン&ガーファンクルの不朽の名作『Bridge Over Troubled Water(明日に架ける橋)』
荒れ狂う時代の激流の中で、行き場を失い、溺れかけていた受講生たち。
進が教えたのは、単なる試験のテクニックではない。
彼らが向こう岸へと渡るための「橋」の架け方だった。
かつて進自身も、千夜子を失い、親友に背を向けられ、タイ米を噛み締めていた。
あの時、誰も橋を架けてくれなかったからこそ、今の自分がある。
だが、実は多くの人に知らず知らずのうちに助けられ、命をつないできたのも事実だ。
(僕も、多くの人に世話になってきた。それを忘れてはいけない)
電車が淀川を渡り、街の灯が流れていく。
「明日に架ける橋」の荘厳なピアノの旋律を聴きながら、進は静かに目を閉じた。
教え子たちが掴んだ「新しい人生」が、どうか穏やかなものであるように。
そして、自分もまた、彼らのための橋であり続けられるように。
進の頬を、一筋の温かいものが伝わった。
それは、長い旅路を歩んできた自分への、そして共に闘った同志たちへの、祝福のしずくだった。
だが、そんな穏やかな時間もまた、静かに終わろうとしていた。




