第6章 公務員試験予備校講師が出来ること、出来ないこと
【十分間の真剣勝負】
実績を叩き出した進の噂を聞きつけ、今度は別の私立大学から学内講座の打診が舞い込んだ。
しかし、その依頼内容は、進がこれまで経験してきたどの難問よりも奇妙なものだった。
「先生、ガイダンスは『十分』で終わらせてください」
大学の担当者は真顔で言った。
理由は単純明快だった。
「それ以上、彼らの集中力が持たないから」という。
本来、公務員試験の全体像を語るには、どんなに端折っても六十分はかかる。
進はそれを十分という極限まで凝縮するため、血の滲むような工夫を凝らした。
当日、壇上に立った進は、法律や経済といった重厚な専門科目の話を一切封印した。
「SPIやSCOAで受けられる、一発逆転の自治体がある。筆記よりも面接、つまり君たちの人柄が評価される枠があるんだ」
そう、喉を枯らさんばかりに「出口」を示した。
しかし、教室の光景は凄惨だった。
進が命を削って言葉を投げかけている間、多くの学生は机に伏して眠りについていた。
ノートを取る者は皆無。
それどころか、鞄から筆記用具すら出さない者が大半だった。
「ペンを持っていない」という、学びの場ではあり得ない事実に、進は眩暈を覚えた。
「それでも、伊崎先生にお願いできないでしょうか」 担当者の懇願を受け、予備校側でも会議が繰り返された。
「手がかかりすぎる、お断りしよう」と突き放す社員と、「彼らの中にも、まだ火種はあるはずだ」と食い下がる社員。議論は平行線を辿った。
【教育の限界点】
しかし、後日、大学の担当者から漏らされた一言が、予備校側の営業担当者を、そして進をも絶句させた。
「……先生、実は、もっと手前の段階で悩んでいるんです。彼らにどうやって、自主的に『受験申込書』を書かせるか。そして、試験当日にどうやって『試験会場』まで足を運ばせるか……。その方法を教えていただけませんか」
それは、教育や指導という概念を根底から覆す問いだった。
勉強がわからない、解けないという次元ではない。
スタートラインに立つための「靴を履く」ことすら、大学側が代行しなければならない。
合格という「橋」を架ける以前に、橋に向かって歩き出す意志そのものが欠落していた。
営業担当者は、静かに首を振った。
「……それは、私たちが提供できるサービスの範疇を越えています」
その大学での学内講座は、結局、開講されることなく白紙となった。
【潰えた慈悲の計画】
その直後、別の仏教系大学から、公務員試験対策講座の依頼が舞い込んだ。
僧侶を養成する伝統ある学科を擁するその大学は、かつては卒業すればどこかしらの寺院へ住職や副住職としての席が約束されていた。
しかし、檀家離れや寺院経営の悪化という時代の荒波は、その「聖域」をも浸食していた。
「全員を寺に就職させるのは、もう限界です。公務員試験に合格させ、市役所への就職率を上げることで、大学の出口を確保したい」
担当者の悲壮な決意に応え、進もまたスケジュールを調整し、開講の準備を進めた。
法律や政治経済、そして数的処理。仏教の教えとは対極にあるような、極めて世俗的で実利的なカリキュラムが組まれた。
しかし、このプランもまた、無惨な結末を迎えることになる。
いざ募集をかけても、受講生が一人も集まらなかったのだ。
学生たちの言い分は冷ややかだった。
「僕たちは、お坊さんになるために入学したんです。今さら数的処理や英語、政治・経済なんて勉強したくない」
さらに、学生の実家――つまり各地の寺院の現職住職たちからも、大学へ厳しいクレームが相次いだ。
「修行をさせるために預けたのに、なぜ市役所の試験勉強をさせるのか」
「確実に寺へ就職できるという約束はどうなったのか」
聖職への志と、冷酷な雇用情勢。
その歪みを埋めるための「公務員試験」という解は、結局、当事者たちのプライドと困惑の前に、一歩も進むことができなかった。
【渇望の不在】
進は、誰もいない学内講座の教室を後にしながら、かつて自分が定時制高校の寮で過ごした夜を思い出した。
瓶を拾い、そのわずかな小銭を工面しながら、静まり返った自習室で一字一字、世界史や英語、古文の知識を頭に刻み込んでいたあの日々。
自分を突き動かしていたのは、誰かに与えられた「看板」でも、用意された「出口」でもなかった。
「ここではないどこかへ行きたい」
その一心で、進は自らペンを取り、自らの足で歩き出したのだ。
「歩かせることはできても、歩きたいと思わせることはできないのか……」
重い鞄を肩に食い込ませ、進は夕暮れのキャンパスを歩いた。
予備校で救えるのは、せめて「戦う意志」を持つ者だけなのか。
教育者としての深い無力感が、春の冷たい風と共に進の胸に吹き込んだ。
でも、進は前を向いた。
(今できることをしっかりやる。それがすべてだ)
進の目は、もう先を見据えているのだった。




