雪下研究棟の最終観測
鉄骨の通路に一歩踏み込んだ瞬間、季節が切り替わった。
冷たい、じゃない。
痛い、だ。
肺へ入る空気が刺さる。
金属床の感触が靴裏越しに白く冷え、吐いた息が即座に凍ったみたいに視界の前で砕ける。
「うわ、寒っ……!」
後ろからユウトの悲鳴が飛んだ。
さっきまで湖畔の夜だったのに、ここだけ完全に別の世界だ。
通路の両側は白く曇っている。
壁面に走る配管は霜をまとい、天井灯は半分死んだように明滅していた。
通路の先には、厚い防寒扉。
その向こうから、規則正しい警報音が聞こえる。
ピー、ピー、という電子音。
だが、どこかで聞いた覚えがある。
「……ああ、これか」
「知ってるのか?」
「たぶん《ホワイトアウト・オブザーバー》だ」
「また嫌な名前だな」
「極地研究棟を探索して、観測記録を回収して、最後に何かを見届けるゲーム」
「説明だけ聞くとまともそうだな」
「説明だけならな」
《ホワイトアウト・オブザーバー》。
南極研究棟を舞台にしたVRサバイバルホラー。
吹雪、低体温、監視カメラ、観測対象。
要素だけ並べればかなり良かった。
だが実際は、視線判定とカメラ切替と温度管理が全部壊れていた。
見ていない時だけ動く敵。
なのにカメラを切り替えるたび、敵の位置がワープする。
暖房室にいても凍え、外にいても特定の棚の中だけ異常に暖かい。
レビューは荒れた。
俺はその荒れ方が好きで、結局最後まで検証していた。
視界中央に、赤いウィンドウが開く。
――――
Residual Access Confirmed
旧式資産への部分接続を開始します
残響イベントを検知しました
《雪下研究棟の最終観測》
概要:
凍結した観測ログを回収し、中央観測室で最後の観測を完了せよ
達成条件:
散逸した観測ログを4件回収する
中央観測室の観測記録を完了する
追加条件:
欠損資産《観測主任の偏光ゴーグル》を取得せよ
同伴者の体温を0にするな
――――
同時に、視界端へ青いゲージが一本現れた。
体温。
「うわ、出た」
「嫌なやつか?」
「かなり」
「どれくらい?」
「原作だと、暖房室のベッドの下が屋外判定で、吹雪の外にある物置の裏が暖房室判定だった」
「全然分からん」
「つまり、まともに考えると死ぬ」
ノアが俺のすぐ横へ寄る。
白いローブの裾だけが、凍りついた床の上で静かに揺れた。
「前に、だれかいる」
「分かるのか?」
「うん。ここ、冷たいのに、一か所だけまだ温かい」
その言葉で、俺も気づいた。
防寒扉の横。
霜で真っ白なはずの手すりに、指の跡が残っている。
しかも、その周囲だけ結露が溶けきっていない。
数分以内だ。
誰かが、ほんの少し前にここを通っている。
「……近いな」
ユウトが黙る。
通路の空気が、さっきより少し重くなった気がした。
扉を開ける。
向こうは研究棟の搬入区画だった。
壁は白い断熱材と金属板でできていて、ところどころ破れている。
裂け目から吹雪が入り込み、床に雪を積もらせていた。
足元には台車、酸素ボンベ、横倒しのロッカー。
そして、通路の奥へ続く靴跡。
新しい。
細かい雪がまだ完全には埋めていない。
「追うか」
「追う」
「即答だな」
「ここまで来て引き返す理由がない」
ユウトは呆れたように笑い、それでも前を見る。
こいつは文句を言うが、こういう時に足を止めない。
最初の分岐は、左がロッカールーム、右が非常電源室だった。
《分岐案内》が薄く左を光らせる。
追加条件の資産はそっちだろう。
ロッカールームの扉は凍りついていた。
開閉パネルは死んでいる。
普通なら遠回りだ。
だが、この扉には覚えがある。
「これ、外見だけ閉まってるな」
「何が違う」
「霜の演出とロック判定が別」
俺はパネル横の緊急解錠レバーを半分だけ引いた。
途中で止める。
そこで一度手を離し、すぐに扉を押す。
ぎ、と嫌な音。
扉は動かない。
だが視界端で、小さく内部フラグが切り替わる。
「よし」
「何がよしなんだよ。開いてねえぞ」
「中身だけ開いた」
「もっと分からん」
このゲーム、凍結演出中の扉だけ二重構造になっていた。
見た目の霜扉が閉じたままでも、ロックフラグだけ外せる。
サ終まで直らなかった有名バグだ。
俺は扉の隙間に腕を差し込む。
冷たさが刺さる。
だが指先には届く。
ロッカー列の一番奥。
観測主任用の収納棚。
その中から、硬いケースを引きずり出す。
ケースを開く。
中に入っていたのは、分厚い偏光レンズのゴーグルだった。
――――
欠損資産《観測主任の偏光ゴーグル》を取得しました
――――
「おお」
「見た目ちょっと格好いいな」
「趣味は悪くない」
ゴーグルを装着する。
世界の色が変わった。
白い雪はただの白じゃない。
温度のある場所が淡く橙に、冷え切った場所が深い青に見える。
さらに、それとは別に、残響の濃い場所が緑で縁取られた。
そして何より、靴跡がはっきりした。
さっきまでただの足跡だったものが、今は鮮明な熱の線になっている。
先客の残熱。
進んだ順番まで分かる。
「これ、だいぶ便利だな」
「何が見える?」
「足跡と、安全地帯と、たぶんログの位置」
「最後のが一番大事じゃねえか」
その通りだ。
ゴーグル越しに見ると、研究棟の奥に四つ、緑の灯りが浮かんでいる。
観測ログの散在位置だろう。
ただし、そのうち一つだけ妙だった。
ログのあるはずの部屋の前で、先客の足跡が一度止まり、それから別方向へ跳ねている。
まるで、途中で何かを見て進路を変えたみたいに。
気になるが、今は順番通りに行く。
一つ目のログは、搬入区画の先にある医療室だった。
だが、その間には崩れた外壁があり、吹雪が通路そのものを切り裂いている。
体温ゲージが見る間に減っていく。
「これ、そのまま行くの無理だろ」
「無理だな。正攻法は」
俺は横倒しになったロッカーを見る。
その扉が一枚、根元から外れて床に転がっていた。
そして《偏光ゴーグル》越しに見ると、その内側だけが淡い橙色に光っている。
「……残ってる」
「何が」
「暖房室判定」
「その鉄板に?」
「正確には、ロッカーの中身に付いてた“屋内暖房”の当たり判定が、そのまま扉に張り付いてる」
「言ってる意味は分からんけど、使えるんだな」
「使える。たぶん最高にアホな絵面で」
ユウトが察した顔になった。
「俺、嫌な予感しかしないんだけど」
「盾役だろ」
「そうだけどよ」
結局、横倒しロッカーの扉を、ユウトが大盾みたいに抱えて運ぶことになった。
鉄の扉一枚。
見た目はただのガラクタ。
だがその内側に張り付いた暖房室判定のおかげで、扉の半径一メートルだけ体温減少が止まる。
俺とノアはその横に張り付き、三人で吹雪の通路を進んだ。
「絵面が最悪だ……」
「でも暖かいだろ」
「悔しいけど少しだけな!」
「これを“歩く部屋”って呼んでた」
「誰が」
「当時のプレイヤー」
「終わってんな、そのゲーム」
その通りだ。
医療室に辿り着く。
端末は半分凍結し、画面が細かく明滅していた。
俺が触れると、ログが再生される。
――――
観測ログ 01 / 04
零層は保管庫ではない。
終了セクタを凍結保存し、必要時のみ実行待機させる緩衝層である。
接続路の再結線は慎重に行うこと。
七本すべての同時接続を禁止する。
――――
「……最初から重いな」
ユウトが眉をひそめる。
俺も同感だった。
保管庫じゃない。
これは第四話のログとも一致する。
しかも、“七本すべての同時接続を禁止”ときた。
偶然とは思えない。
二つ目のログは、電源室の奥。
ここは比較的早く取れた。
壊れた発電機の横、保守端末に残っていた記録だ。
――――
観測ログ 02 / 04
接続路が六以下の間、零層は保存モードを維持する。
七本目が結線した場合、管理権限の照合が開始される。
運営権限不在時、最も近い観測主体へ暫定権限が委譲される可能性あり。
――――
「最も近い観測主体」
ユウトが読み上げる。
「それって、プレイヤーか?」
「可能性はある」
「最悪じゃねえか」
「かなり」
説明を整理するまでもない。
七本揃うと、何かが“管理権限”を探し始める。
そして正規の運営が不在なら、一番近くにいる観測者へ渡す可能性がある。
だから、先客は七つ目を揃えるなと言っていたのかもしれない。
だが、それで話は終わらない。
“何に”権限が渡るのかが、まだ分からない。
三つ目のログを取りに行く途中で、問題が起きた。
中央階段へ入った瞬間、照明が全部落ちたのだ。
暗い。
だが真っ暗ではない。
吹雪の反射と非常灯の残光で、白い闇だけがある。
その中を、何かが横切った。
人影。
いや、もっと細い。
首が長く、肩からケーブルみたいなものが垂れている。
歩く、というより滑る動きだ。
ノアが小さく言う。
「見られてる」
次の瞬間、視界中央に新しい警告が走る。
――――
ERROR ENEMY
《ホワイトアウト・ウォッチャー》
Lv:???
分類:観測異常体/削除処理混成
――――
「出たか」
原作のメイン異常体だ。
研究棟内を徘徊し、視界から外れた瞬間に位置を変える。
見ていれば止まる。
見失えば近づく。
コンセプト自体は悪くなかった。
問題は、視線判定がゴミだったことだ。
「ユウト、目を切るな」
「どこ見ればいい!?」
「正面じゃない、足元寄りの胸」
「分かるか!」
《ホワイトアウト・ウォッチャー》が、階段踊り場の闇から滲み出る。
白衣の残骸。
凍りついた人型。
胸と肩と首に、大小無数のカメラレンズ。
顔のあるべき場所には、雪混じりのノイズしかない。
ぞっとする見た目だが、怖がる暇はない。
「あいつ、見られてる数で止まる」
「何人で足りる!?」
「原作は三視点」
「今二人しかいねえぞ!」
「一つはカメラ使う!」
俺は階段脇の監視モニター群へ走る。
生きているのは二台だけ。
だがそのうち一台は、配線が千切れて映像が死んでいる。
普通なら二視点止まり。
だからこの残響も、そのままでは突破できない。
でも《ホワイトアウト・オブザーバー》には、ひどく有名なバグがあった。
カメラ切替中に回線を落とすと、“最後に映っていた一枚絵”がライブ映像として扱われ続ける。
止まった映像なのに、観測判定だけ生きるのだ。
「ユウト、あいつを階段の白線まで引きつけろ!」
「殺しに来るやつだろそれ!?」
「そこじゃないとカメラの角度が足りない!」
文句を言いながらも、ユウトは前に出た。
大盾を構え、あえて床を踏み鳴らす。
《ホワイトアウト・ウォッチャー》のレンズが、一斉にそっちを向く。
体温ゲージがごっそり削れた。
近いだけで冷気を撒くタイプか。最悪だ。
だが、位置は完璧だった。
「止まれ!」
俺は生きている方の監視カメラを手動で切り替え、異常体を画面中央へ捉える。
その瞬間、ノアが言った。
「今」
死んだ方のモニター裏へ短剣を差し込む。
配線を半分だけ外す。
完全に切らない。
接続が揺れるギリギリで止める。
画面が一度、白く飛ぶ。
次に《ホワイトアウト・ウォッチャー》の静止画が映った。
それで終わるはずなのに、監視UIの右上には“LIVE”の文字が残っている。
「通った!」
「どういう理屈だよ!」
「理屈じゃない、バグだ!」
これで一視点。
二つ目は、ゴーグル越しの俺の直視。
残る一つ。
《ホワイトアウト・ウォッチャー》が動いた。
まだ足りない。
「ユウト、盾上げろ! ライトの下!」
天井の非常灯はまだ死んでいない。
その白い光が、ユウトの大盾へ落ちる。
磨かれた金属面が、ほんのわずかに周囲を映した。
原作では、反射面へ映った異常体が“カメラ視点”として誤認識されることがあった。
プレイヤーのヘルメット、窓ガラス、手術器具のトレー。
使える反射なら何でもよかった。
今、必要なのはそれだけだ。
「もっと上! 角度そのまま!」
「きつい!」
「耐えろ!」
「言うと思った!」
大盾の角度が決まる。
そこへ非常灯の白が走り、《ホワイトアウト・ウォッチャー》の輪郭が金属面へぼやけて映る。
三視点目。
異常体が、ぴたりと止まった。
白衣の裾が風もないのに揺れたまま固まり、無数のレンズだけがじっとこちらを見る。
ぞわりとした嫌悪感が背を這う。
だが、今しかない。
「ノア、観測室のログ位置!」
「上、ガラスの向こう!」
中央階段を駆け上がる。
観測室は円形で、正面の分厚いガラス越しに吹雪の外が見える。
いや、見えるようで見えない。
外の白の中に、時々、研究棟ではない構造物の影が混じる。
塔、駅、砂に埋もれた門。
零番線で見た七つの路線が、一瞬だけ重なっているのだ。
中央コンソールへ手を置く。
端末が開く。
――――
観測ログ 03 / 04
観測対象Oは、観測されるほど位置が安定する。
見失った場合、接続路を横断する可能性がある。
最終観測に必要な視点数は三。
――――
「やっぱりな」
続けて、最後のログが自動で浮かび上がった。
だがこれはNPCの記録じゃない。
文字が新しい。
フォントは現行UI寄りで、入力の癖が生きている。
送信失敗キャッシュだ。
――――
観測ログ 04 / 04
If you're reading this, you found the same wrong route.
零層は保管庫じゃない。
待機層だ。
七つ目で保存は終わる。
起きる側が、プレイヤー枠を取りに来る。
俺は六で止めるつもりだった。
でも、もう止めきれない。
お前が見えるなら、たぶんお前も観測されてる。
――――
「……っ」
英語混じり。
慌てて打ったのか、途中から文体が崩れている。
でも意味は十分だった。
六で止めるつもりだった。
つまり、こいつは俺と同じように残響片を集めてきた。
そして今も前にいる。
その時だった。
背後で、ユウトが苦鳴を漏らした。
「ナギ! 長くは持たねえ!」
振り向く。
まずい。
静止画のカメラがノイズを起こしている。
フリーズ判定が切れかけていた。
《ホワイトアウト・ウォッチャー》のレンズが、一つ、また一つと動き始める。
観測記録コンソールの中央に、最終処理が表示される。
――――
最終観測を開始します
観測対象を3視点で8秒固定してください
――――
「八秒か。短いようで長いな」
「感想じゃねえ!」
「分かってる!」
俺はコンソール横の操作盤を叩く。
監視カメラを固定。
死んだモニターの凍結映像を維持。
だが三視点目の反射だけは、人力だ。
「ユウト、そのまま動くな!」
「無茶言うな! 腕が死ぬ!」
「死ぬな。あと八秒だ」
「雑!」
ノアが俺の横へ立ち、コンソールへ両手を添える。
淡い青い粒子が端末全体を包んだ。
「少しだけ、止める」
「できるのか」
「たぶん。ここ、凍ってるから」
新しいスキルではない。
でもノアは残響そのものに近い存在だ。
こういう“止まった記録”に触れる時だけ、妙な強さを見せる。
カウントが始まる。
八。
《ホワイトアウト・ウォッチャー》の足元で霜が盛り上がる。
七。
ユウトの盾が震える。
六。
死んだモニターの画面端にノイズ線。
五。
異常体の右肩が、ぴくりと動く。
四。
体温ゲージが危険域へ入る。
三。
非常灯が一つ、爆ぜた。
二。
大盾の反射がぶれる。
「やば――」
その瞬間、俺は咄嗟に《凍った静止画》のモニターを自分の方へ倒した。
映り込む。
俺とノアの姿が、その画面へ重なる。
フリーズバグに、さらに反射誤認識が噛んだ。
死んだはずの映像が、一瞬だけ“追加の視点”として増幅する。
一。
観測記録、完了。
同時に、《ホワイトアウト・ウォッチャー》の全レンズへ罅が走った。
甲高い、ガラスの割れる音。
白衣ごと凍った異常体が、雪とノイズの粒になって崩れ落ちる。
最後まで顔は見えなかった。
静寂が来た。
いや、違う。
静寂じゃない。
研究棟の中で、止まっていた空調が再び動き出した音だ。
ごう、と低く温風が回る。
体温ゲージが危険域から戻り始める。
ユウトがその場に座り込んだ。
「今の、初心者がやることじゃねえだろ……」
「俺もそう思う」
「思うだけかよ」
「思ってるだけマシだろ」
「基準がおかしいんだよ」
コンソールの上に、報酬ウィンドウが開いた。
――――
残響イベント《雪下研究棟の最終観測》クリア
追加条件達成:欠損資産《観測主任の偏光ゴーグル》を取得
追加条件達成:同伴者の体温を維持
報酬を算出中……
――――
続けて、金色の表示。
――――
残響片《最終観測ログ》を獲得
派生スキル《凍結保存》を獲得
《凍結保存》
未統合資産、残響、進行中の削除処理を短時間固定する
対象の劣化、消失、タイマー進行を一時停止できる
メインクエスト更新
《零層保管庫》を調査せよ
回収済み残響:4/7
推奨接続先:砂海城門
――――
「これは……便利だな」
「お前、その感想しかないのか」
「いや、かなり大事だぞ。先客の痕跡が消える前に止められるかもしれない」
「ああ、そっちか」
その時、観測室の一番奥で、ひっそりと別の画面が点いた。
監視再生ログ。
タイムスタンプは、またしてもマイナス表記だ。
――――
REC -00:38:12
――――
映像が始まる。
白い観測室。
今より少し前の同じ場所。
そこへ、一人のプレイヤーが映っていた。
フード付きの外套。
現行装備の高精細モデル。
だが名前表示はない。
顔も、モニターの乱れで輪郭が取れない。
そいつはコンソールの前で立ち止まり、何かを打ち込む。
次に、こちらへ背を向けたまま、振り返らずに左手だけ上げた。
まるで、見られていることを知っているみたいに。
そしてコンソール横の曇ったガラスへ、指で一行だけ書き残した。
『六で止まれ』
映像が途切れる。
数秒、誰も喋らなかった。
ユウトが先に息を吐く。
「……完全に、お前へのメッセージじゃねえか」
「たぶんな」
「どうする」
俺はガラスを見る。
映像は終わっているのに、曇りガラスの文字だけは現実側にも薄く残っていた。
六で止まれ。
警告だ。
善意か悪意かはまだ分からない。
でも、追ってくる誰かを想定した書き方だった。
つまりあいつは、俺みたいな“継ぎ目を見る側”が後ろに来ることを最初から知っていた。
「止まらない」
答えは、考えるまでもなかった。
「だろうな」
ユウトが呆れたように笑う。
「でも、今度はこっちも手が増えた。痕跡が消える前に凍らせる」
「《凍結保存》か」
「ああ。次は逃がさない」
ノアが、観測室の窓の向こうを見る。
吹雪の白の中に、今度ははっきりと一つの影が浮かんでいた。
巨大な城門。
砂に半ば埋もれた、乾いた色の門だ。
雪の研究棟の窓から、砂海の門が見える。
普通のゲームなら絶対にありえない。
でもこの世界の裏側は、もうそういう理屈でできていない。
俺は偏光ゴーグルを額へ押し上げ、曇りガラスの文字をもう一度見た。
止まれと言われて止まるなら、最初から床なんてめくらない。




