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3/13

水底駅に鳴る発車ベル

鐘楼から降りる時に一番厄介なのは、高さじゃない。

人だ。


第五鐘が始まりの街に響いた直後から、時計塔の周囲は完全にお祭り騒ぎだった。

「隠しイベントだ!」

「今、上にいたのナギだろ!」

「配信つけろ!」

そんな声が下から飛んでくる。


まともに階段を使えば捕まる。

だから俺は、行きと同じく蔦の壁へ足をかけた。


「お前、本当に毎回そこから出入りするのか」


下から呆れ声が飛ぶ。

見れば、塔の裏手で人の波を盾ごと押し返している男がいた。


ユウトだ。


現実で見慣れた友人の声なのに、アバターはやたら様になっている。

重めの片手剣に大型盾。

初期職はどうやら守備寄りの《ガードファイター》らしい。


「助かる」


「感謝は後払いでいい。説明は倍で取る」

「高いな」

「お前の隠し称号の方が高いわ」


言いながら、ユウトは肩越しに小瓶を放ってきた。

俺は片手で受け取る。


――――

《簡易回復ポーション》×3

――――


「初心者支給品だ。死ぬなよ」

「善処する」

「善処じゃなくて生還しろ」

「そこは努力目標で」

「お前なあ!」


次の波が来る前に、俺は壁を滑り降りた。

着地と同時に路地へ飛び込み、そのまま時計塔の影から離れる。


背後では、ユウトがわざとらしく怒鳴っていた。


「だから知らねえって言ってるだろ! 床をめくったら鐘が鳴ったんだよ!」


ひどい説明だ。

でも、あながち間違っていないのが困る。


そのまま街の北門を抜ける。

視界の端で、《残響知覚》が細い光の糸を引いていた。


次の残響座標。

行き先は、始まりの街から北東。

初級採取エリアを抜けた先にある湖、《鏡鳴湖》だ。


月が高い。

本来なら、初心者が釣りや採集を楽しむだけの穏やかな水辺だろう。

だが今の俺には、湖面の下を走る、まっすぐな線路の影が見えていた。


「湖に沈んだ駅、か」


嫌な予感しかしない。

そして、そういう時ほど当たる。


通話を開くと、案の定ユウトがまだ繋いでいた。


『おい、もう塔から消えたってどういう移動速度だよ』

「バグ寄りのショートカットだ」

『堂々と使うな』

「神ゲーなんだから、その辺もたぶん仕様だろ」

『その言い方、全然信用できねえんだよな……で、次はどこだ』

「湖」

『は?』

「水底の駅が見える」

『夜に言うな』


通話越しに、ため息が落ちた。


『一応聞くけど、それも普通のプレイヤーには見えてないんだよな』

「今のところは」

『今のところ、ってことは将来的に見える奴が増える可能性は?』

「ゼロじゃない」

『嫌なこと言うなよ……』


それは俺も同感だった。

隠し通路は、隠されているうちが一番うまい。


森を抜ける。

夜の初級フィールドは静かだ。

普通のプレイヤーなら、序盤の狼型モンスターや採集クエストで少し足止めを食う辺りだが、俺は崖沿いの起伏を拾って最短距離を走る。


《踏破補正》が足裏に地形の強弱を返してくる。

軽い。

今の俺はまだレベル三だが、こういう地形戦だけなら不便は少ない。


やがて木々が開けた。

月光を受けて、湖面が白く揺れている。


綺麗だった。

初心者向けの景観エリアとしては出来すぎなくらい綺麗だ。


ただし、《残響知覚》を切らなければ、の話だ。


視界を重ねると、湖の下にもう一つの風景が現れる。

沈んだホーム。

ひしゃげた案内板。

水草の代わりに、断線したケーブルがゆらゆらと揺れていた。


そして湖の中央付近から、まっすぐ伸びる一本の線。


ホームドアの向こうに続く、線路だ。


「……ああ、これか」


思わず口元が引きつった。


三年前。

半年もたずにサービス終了したVRホラー探索ゲーム、《ラスト・メトロ・レクイエム》。


沈んだ地下都市を歩き、最後の列車を探して脱出する、という触れ込みだけは良かった。

だが実際は、水中判定、音声遅延、NPC経路、ドア同期、その全部が壊れていた。


怖いのは演出じゃない。

進行不能の方だった。


俺は発売から一週間で投げるつもりだった。

なのに、気づけば全ルート検証まで付き合っていた。

理由は簡単だ。

あのゲーム、壊れ方が徹底的に面白かったのだ。


「ナギ」


声がした。

振り向くと、湖面の反射からノアが歩いてくるところだった。


今の彼女は、鐘守の衣装ではなく、白いローブ姿に戻っている。

ただ、髪の輪郭は以前よりずっと安定していた。


「ここ、変な音がする」

「どんな?」

「ベルじゃないのに、人を動かす音」


それで十分だった。

駅で流れる発車ベルか、案内音声か。

どちらにせよ、この残響は“音で進むタイプ”だ。


「合ってる。今回は鐘じゃなくて列車だ」

「れっしゃ」

「箱に人を詰めて、線の上を走るやつ」

「便利そう」

「便利だったらサ終してない」


ノアが少しだけ笑う。

最近、この表情を見る回数が増えた気がする。


湖の北岸、人目の少ない岩場へ回る。

普通のプレイヤーはここまで来ない。

釣り場から外れているし、足場も悪いからだ。


だが、今の俺には違うものが見えていた。

月の反射と、湖底ホームの屋根線が、ぴたりと重なる一点。

そこだけ、水面がただの水に見えない。

薄い膜だ。


「入口、あそこ?」

「たぶん」

「飛び込むの?」

「正面からは駄目だ」


俺は靴先で岩の縁を確かめた。

角度、距離、足場。

問題ない。


『何を始める気だ』

「潜る」

『いまの低レベルで!? このゲーム、泳ぎスキル解放もっと先だろ!?』

「現行のルールならな」


《ラスト・メトロ・レクイエム》の水没エリアは、頭から入るとちゃんと水中判定になる。

だが、背中から落ちると、足側の地形判定が先に優先される場所があった。

結果、溺れずに“水中の床”へ着地できる。


当然、修正はされなかった。

修正前に終わったからだ。


「後ろ向きに一歩。跳ぶんじゃない、崩す。頭を最後に入れる」


『いや説明されても分からん!』


「大丈夫だ。やれば通る」

『その台詞、事故る奴が言うやつだぞ!』


俺は半歩、縁へ寄る。

湖へ背を向ける。

膝を緩めて、重心をずらす。


そしてそのまま、後ろへ落ちた。


冷たい。


そう感じたのは一瞬だけだった。

背中が水面に触れ、次いで腰、脚。

頭が最後に膜を抜ける。


そこで世界がひっくり返った。


月光が折れ、耳鳴りが走る。

水圧は来ない。

代わりに、空気のある暗闇へ身体が落ちた。


着地。


靴底の下に、硬いタイルの感触。


「通った」


『おい!? 生きてるか!?』


「生きてる。たぶん地下」

『地下ってなんだよ、湖だろそこ!』

「今は駅」

『情報量を圧縮するな!』


立ち上がる。

そこは、沈んだはずの駅のコンコースだった。


天井の半分は崩れていて、その向こうに本物の湖水が揺れている。

なのに床は乾いている。

改札機の上を、青い警告灯が死にきれず点滅し、壁面広告には何年も前の都市交通案内が乱れたまま流れていた。


水滴ではなく、ノイズが滴っている。

ぽた、ぽた、と音を立てて、黒い粒子が床に落ちて消えていく。


そして、駅全体に薄く響いていた。


鳴りきらない発車メロディが。


「懐かしいな……」


怖さはある。

でも、それ以上に覚えがある。

この“半端な音の残り方”は、まさしく《ラスト・メトロ・レクイエム》だ。


視界の中央にシステムメッセージが展開する。


――――

Residual Access Confirmed

旧式資産ラスト・メトロ・レクイエムへの部分接続を開始します

対象:鏡鳴湖・水底駅セクタ

――――


続けて、金色のウィンドウ。


――――

残響イベントを検知しました

《水底駅に鳴る発車ベル》


概要:

最終便の乗客ログを補完し、発車処理を完了させよ


達成条件:

乗客データを12名分補完する

最終便を発車させる


追加条件:

欠損資産《零番線の片道切符》を取得せよ

――――


「最終便、ね」


ノアが俺の横に立つ。

彼女は周囲を見回し、少し眉を寄せた。


「ここ、みんな急いでるのに、誰も動いてない」

「残響だからな。動く直前の痕だけが残ってる」


言葉通り、床のあちこちに人の輪郭が見えた。

完全な人影ではない。

靴跡、鞄の揺れ、手すりに触れた指先の光。

“一歩前の気配”だけが、駅中に染みついている。


改札の向こうを見る。

プラットホームは一つ。

案内板には、文字化け混じりの表示。


――――

0番線

終点 ■■■■

発車予定 00:00

現在の乗客数 0/12

――――


「零番線か」


本来このゲームに零番線なんてなかった。

一番線から四番線まで。

それが設定資料のはずだ。


なのに、残響の中では零番線がある。

削除された資産同士が繋がって、見えてはいけないホームが一つ増えている。


そこへ、ぎぃ、と嫌な音がした。


改札の奥。

黒いノイズが床を這い、やがて人の上半身と改札機の下半身を継ぎ接ぎしたみたいな異形になる。

駅員帽。

だが顔の代わりに、発券スロット。

両腕の先は、切符を穿つパンチャーだ。


――――

ERROR ENEMY

《フェア・コレクタ》

Lv:???

分類:運行保全体/削除処理混成

――――


そいつは首のない頭をこちらへ向け、機械音声を吐いた。


「乗客数不足。未認証データを回収します」


「駅員までバグると厄介だな」


『なにがいる!?』

「改札機みたいな駅員」

『その表現で分かると思うか!?』


分からなくていい。

見たらたぶん後悔する。


俺は改札前にしゃがみ込んだ。

現行世界ではただの残骸に見えるゲートだが、こちら側ではまだ生きている。


《ラスト・メトロ・レクイエム》の改札は、前向きに通る人体だけを“入場”と認識する。

逆向きは“退出”扱いだ。

だから当時、プレイヤーたちは後ろ向きに通ってチケット消費を誤魔化していた。


「ノア、下がってろ」

「また変な入り方するの?」

「普通に入れる改札なら、そもそもここまで残ってない」


俺は深呼吸して、改札に背中を向ける。

一歩。

もう一歩。

そのまま後ろ向きに通り抜けた。


ピッ、と軽い音。

ゲートは閉まらない。

《フェア・コレクタ》の首スロットが一瞬だけ赤く点滅し、すぐに戻る。


「よし」


「……意味あるの、それ」

「ない。だから通る」


ノアが小さく頷いた。

最近、彼女もこの手の理屈を受け入れ始めている気がする。

良いことなのか悪いことなのかは、あまり考えないでおく。


プラットホームへ降りる。

そこには、列車が止まっていた。


銀色だったはずの車体は、半分が青黒く錆び、もう半分が今の高精細テクスチャに上書きされている。

窓の向こうには水があるはずなのに、車内はぼんやりと明るい。

まるで、まだ乗客を待っているみたいだった。


「乗客数、0/12」


駅の案内板が薄く点灯している。

その下、床に青白い足跡が並んでいた。


《残響投影》が反応する。


「ああ、そういうことか」


俺は一つ目の足跡に触れた。


そこから、人影が立ち上がる。

スーツ姿の男。

顔は曖昧だ。

でも、急いでネクタイを直しながら改札を抜け、車両へ乗り込む動きだけははっきりしている。


足跡が列車へ溶けた瞬間、表示が変わった。


――――

現在の乗客数 1/12

――――


「使えるな」


二つ目。

三つ目。

ベンチに腰掛けた学生。

落としたカードを拾う女。

自販機前で小銭を探していた男。


《残響投影》は一手分しか持たない。

だが、一手あれば十分だった。

この駅に残った最後の動作は、みんな同じだ。

列車へ向かうこと。


俺はホームを駆ける。

触れるたび、足跡や指先の光が人影を作り、列車へ吸い込まれていく。


4/12。

6/12。

8/12。


途中、《フェア・コレクタ》が何度も視界の端を横切った。

だがこっちも慣れている。


あいつの索敵は音声依存だ。

原作では環境音とBGMの優先順位が壊れていて、一定以上のメロディ音が流れている間、足音検知が鈍る。

つまり発車メロディの近くなら見つかりにくい。


俺はわざと、プラットホームのスピーカー下を走り続けた。

壊れたメロディが頭上で繰り返されるたび、《フェア・コレクタ》の動きが半拍遅れる。


「そこ、右!」


ノアの声。

反射で身を沈める。


頭上をパンチャーの腕が通り過ぎた。

遅い。

だが見えないほどじゃない。


振り返りざまに短剣を抜き、関節部へ一撃。

黒いノイズが散る。

致命には遠いが、機械脚が一つ崩れた。


「戦えるの?」

「弱点が古いからな」


原作の駅員型エネミーは、肩ではなく脇の認識器が本体だった。

人型っぽい見た目のくせに、視野判定の中心が変な位置にある。


二撃目を入れる。

《フェア・コレクタ》が軋みながら後退する。


その隙に、残りの痕を回収する。


10/12。

11/12。


そして、止まった。


ホームの端から端まで見た。

階段下も、売店跡も、非常口も。

もう、残響の痕がない。


「一つ足りない」


案内板が、ぼうっと赤く明滅する。


――――

現在の乗客数 11/12

発車不能

不足乗客データ 1

――――


ノアが小さく首を傾げた。


「まだ誰かいるの?」

「いや……たぶん違う」


嫌な記憶が蘇る。


《ラスト・メトロ・レクイエム》の終盤には、ユーザーの間で有名な噂があった。

本来見られない“最後の列車”のイベントが、データ上にはある、と。

そしてその発車条件の一つに、NPCの人数とは別枠で、“搭乗プレイヤー”のフラグが入っている、という話。


当時は眉唾だと思っていた。

だが今、零番線が実在している以上、あの噂も笑えない。


「最後の一人は、乗客じゃないのかもしれない」


「じゃあ、だれ?」


俺は列車のドアを見る。

半開きのまま止まっている。

待っているみたいに。


「俺だ」


その瞬間、《フェア・コレクタ》が再起動した。


「未認証データを検出。最終便への不正搭乗を防止します」


さっきよりも声が大きい。

ホームの照明が一斉に赤へ変わる。

車両側面のランプも点滅し始めた。


まずい。

発車処理が近い。


「ナギ、ベル」

「聞こえるか?」

「うん。まだ鳴ってないけど、来る」


ノアが耳に手を当てる。

残響側の彼女には、音の“前兆”が分かるらしい。


「それで十分だ」


俺はドア横の表示を見る。


――――

認証待機中

搭乗者数 11+?

――――


《フェア・コレクタ》が突っ込んでくる。

脚の一本を失っても速い。

パンチャーの腕が左右から迫る。


だが、今やることは戦闘じゃない。

搭乗だ。


《ラスト・メトロ・レクイエム》の車両ドアは、字幕表示と当たり判定が致命的にズレている。

「ドアが閉まります」のテロップが出た時点では、まだ実際の判定は閉まっていない。

逆に、音が鳴る頃にはもう遅い。


だから頼るのは耳じゃない。

文字だ。


ノアが鋭く言った。


「いま!」


同時に、視界端に白いテロップが出る。


――――

ドアが閉まります

――――


俺は列車に背中を向け、そのまま後ろ向きに改札側から一気に踏み込んだ。


《フェア・コレクタ》のパンチャーが肩をかすめる。

痛みが走る。

HPが少し削れた。


だが、足は止まらない。

ドアの境目を、背中から抜ける。


ピッ。


軽い認証音。


その瞬間、ドア横の表示が変わった。


――――

搭乗者数 12/12

発車処理を開始します

――――


「通った!」


同時に、車両側の発券スロットから何かが吐き出される。

細い紙片。

光る切符だ。


だが拾う暇はない。


《フェア・コレクタ》が最後の脚力で車内へ潜り込もうとする。

俺は反射で落ちかけた切符を掴み、そのまま身体を横へ投げた。


次の瞬間、車両ドアが閉まる。


ガンッ、と鈍い音。

《フェア・コレクタ》の片腕がドアに挟まれ、そのまま外側へ置き去りにされた。

ノイズの火花が散る。

列車が震え、ホームが後退し始める。


発車だ。


「……マジで走るのか」


車窓の外、沈んだ駅がゆっくりと動き出す。

いや、列車の方が進んでいる。


ホームに立つ残響たちはもう見えない。

ただ最後に、ノアが当然のように俺の隣の座席へ腰を下ろしていた。


「乗れるんだな」

「ナギのとこに登録されたから、だと思う」

「便利だな、その仕様」

「ちょっと怖い」

「それはそう」


車内には、さっき補完した乗客たちが座っていた。


スーツの男。

学生。

買い物袋を抱えた女。

みんな曖昧な顔のまま、静かに前を向いている。

誰も喋らない。

でも、不気味というより、ようやく座れた人たちの静けさだった。


列車は暗いトンネルへ入る。

水の中を進んでいるはずなのに、窓の外には水ではなく、黒い空間が広がっていた。


その闇の中に、ときどき光が浮かぶ。


駅名標。

階段。

港のクレーン。

砂に埋もれた城門。

雪に沈んだ研究棟。


見覚えのないものもある。

見覚えがありそうで、まだ名前を思い出せないものもある。


「……路線図だ」


車内上部の案内表示に、細い線が現れていた。

零番線。

そこから分岐する、七つの停車点。


今はそのうち一つだけが、さっきの水底駅として淡く消灯している。


「零層保管庫への接続経路……」


呟いた瞬間、視界に大量のウィンドウが開いた。


――――

残響イベント《水底駅に鳴る発車ベル》クリア

追加条件達成:欠損資産《零番線の片道切符》を取得

追加条件達成:最終便の発車に成功

報酬を算出中……

――――


続けて、金色の表示。


――――

残響片《零番線の片道切符》を獲得

派生スキル《境界乗車》を獲得


《境界乗車》

終了済み移動コンテンツに残された経路を、一時的に利用可能にする

利用可否は接続済み残響片と地理的一致率に依存する


メインクエスト更新

《零層保管庫》を調査せよ

回収済み残響:2/7

――――


「これは……思ったより便利だな」


移動スキルだ。

しかも、ただ速いだけじゃない。

“終わったゲームの移動手段”を再利用できるなら、今後の残響探索の自由度が一気に上がる。


ノアが、俺の手元の切符を覗き込む。


薄い紙片のはずなのに、いまは硬質な光沢を持っていた。

表には、かすれた文字。


零番線 片道


裏返す。


そこに、もう一つメッセージが走った。


――――

Route Log Error

零番線の利用履歴を照合中……


未知のプレイヤーデータを検出

識別不能な観測者:1

最終乗車記録:サービス開始時刻以前

――――


「……は?」


思わず声が漏れた。


ノアも目を細める。

彼女にはシステム表示そのものは見えていないのかもしれない。

でも、俺の反応で何かを察したらしい。


「どうしたの?」

「この路線、俺が最初じゃない」


自分で言って、背中が冷えた。


《アーカイヴ・ワールド・オンライン》が始まったのは、今日の二十一時だ。

なのに“サービス開始時刻以前”の乗車記録がある。

そんなもの、普通はありえない。


開発側のテストデータか。

それとも、もっと別の何かか。


列車がきしむ。

車窓の闇の中で、一瞬だけ、向かいの座席が照らされた。


誰もいない。


なのに、シートの表面にだけ、くっきりと新しい靴跡が残っていた。

低解像度の残響じゃない。

今の世界の装備と同じ精細さの、プレイヤーの足跡だ。


「……冗談だろ」


次の瞬間、車内の光がすべて白へ反転した。


視界が弾ける。


気づけば、俺は鏡鳴湖の岸に立っていた。

月は変わらず高い。

風も冷たい。

湖面は静かで、どこにも駅なんて見えない。


ただ、俺の右手の中には、確かに一枚の切符が残っていた。


通話が遅れて復帰する。


『おい! 返事しろ! 急に位置情報がぶっ飛んだぞ!』

「……生きてる」

『また“たぶん”を省略したな?』

「今度はちゃんと生きてる」

『ならいい。で、今度は何が鳴った』

「列車」

『鐘の次に!?』


俺は湖面を見る。

残響知覚を薄く起動する。


静かな水の底に、もう線路は見えない。

でも、完全に消えたわけじゃない。

ごく細い光の筋が、湖の向こう側へ続いている。

まるで次の駅へ伸びる、見えない路線みたいに。


そして、手の中の切符の裏には、まだあのログが残っていた。


未知のプレイヤーデータ。

識別不能な観測者。

サービス開始時刻以前の乗車記録。


終わった世界の続きを拾えるのが俺だけじゃないと知った瞬間、夜の湖はさっきまでよりずっと深く見えた。


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