#07境界ノ揺レ
目を閉じると、昨夜の気配がまだ肌の内側に残っている気がした。
結界の内側で、斎と並び立った光景。
無言のまま霊災に立ち向かったあの時間――確かに“独り”ではなかった。
それが今、心のどこかをざらりと撫でていく。
翌朝。
須皇 凪は重たい身体を引きずるようにして、学苑の門をくぐった。
夜の出動が影響したのだろう。全身がだるく、胸の奥には澱のようなものがこびりついていた。吐き気まではないが、神経のどこかが静かに痺れているような感覚。霊災の名残、あるいは――。
「よ、凪。どうしたよ、顔色、悪ぃな」
声をかけてきたのは、柚月だった。
分家の陰陽師であり、凪とは従兄弟にあたる。
凪はわずかに眉を寄せながらも、仮面のような笑みを作る。
「ちょっと寝不足で……心配してくれてありがとう」
「遠縁とはいえ、同い年の従兄弟だしな。ま、本家の凪と分家の俺じゃ立場は違うけど」
そう言いつつも、柚月は周囲に気を配るように周りをちらりと見渡し、凪の横にしゃがむようにして声をひそめた。
「なあ、昨日の霊災……関わってた?」
――やはり来たか。
凪は一瞬だけ逡巡してから、小さく首を横に振った。
「……いや、体調悪かったから。家で休んでた」
「そうか。俺のとこには召集かかったから出たけどさ……ほんとに大丈夫か?」
柚月の視線は真剣だった。
それに応じて、凪もわずかに表情を緩める。
「……ありがとう。でも、少し休めば平気だから」
「いやいや、マジで顔色悪いって。お前、体弱いんだからさ、無理すんなよ」
確かに、凪は身体が丈夫な方ではなかった。
小柄で華奢な体格。白い肌に繊細な顔立ち。まるで硝子細工のような印象から、密かに“深窓の皇子”なんてあだ名をつけられていることを、本人だけが知らない。
柚月はふと目線を遠くへ向けた。
体育館裏の植え込みの方角――空良が倒れたあの場所。
「もしかしてさ、霊障じゃないのか、凪の体調が悪いの。……なんか、学苑の“中”がまだ揺れてる気がしてさ。空良が倒れたのも、偶然じゃない気がするんだよな」
凪は沈黙したまま、視線を落とした。
気のせいではない。
昨日の“風”の痕跡――霊災の残滓は、確かにこの学苑の内部にも残っている。
空良が狙われたのは、あの異常の一環。始まりにすぎない。
「……たぶん、同じことを感じてる」
「だよな」
柚月は腕を組み、廊下の天井を見上げた。
「空気がさ、違うんだよ。妙に静かで、音が吸い込まれてるみたいっていうか……」
「結界が乱れてるかもしれない。綾女さんに報告しておこうか」
「おう、そうしてくれ」
そう言った柚月は、ふと凪をまっすぐに見返した。
「それにしても、お前、ほんと顔色ヤバいぞ。無理しすぎんなよ。倒れたら元も子もないんだからな」
「うん……ありがとう、柚月」
凪は仮面の笑顔を張り付けたまま、素直に礼を告げた。
その直後、チャイムが鳴り、昇降口のざわめきが教室へと押し寄せてくる。
会話は自然と終わり、柚月は「じゃ、またな」と軽く手を振って離れていった。
凪はその背中を見送り、静かに目を閉じる。
昨夜の霊災。
斎の行動。そして、あの共鳴の一瞬。
彼は言った。「“器”を守るのが役目です」と。
その言葉の通り、彼は凪の盾として動いた。
それは役目であり、命令であり、ただの義務――。
(それだけだって、わかってるのに……)
それでも、あの一瞬、守られたと感じてしまった自分がいた。
それが悔しいのか、嬉しいのか、自分でもわからない。
誰にも知られたくないその感情が、心の奥底で冷たく膨らんでいた。
廊下の窓から吹き込む風が、凪の髪をそっと揺らした。
音もなく、気配もなく。
それでも、何かが確かに――まだ、この場所にいる。
(……確かめてみるか)
凪はゆっくりと拳を握った。




