#10密談ハ高層階ニテ
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凪が倒れ、保健室へ運ばれた放課後。
いつも通りの場所、のはずだったその部屋で、静かに運命の歯車が動き出す。
閑話「密談ハ高層階ニテ」――舞台は、須皇の“裏”を知る者たちの夜へ。
夕暮れの校舎に、保健室のカーテンが静かに揺れていた。
薄暗い部屋の片隅で、凪はベッドに横たわっている。うわ言のように息を漏らす彼の額には、じっとりと汗が滲んでいた。
――ピピッ。
体温計が電子音を立てて数値を示す。
「……三十九度七分。冗談じゃないわよ」
白衣姿の女性――綾女は、体温計を外しながら静かに呟いた。表情はいつも通り穏やかなのに、声音には明らかな怒気が滲んでいる。
ベッドの横で黙って立つ斎を、綾女は鋭い眼差しで見上げた。
「くれぐれも“頼んだ”って言ったわよね、篠森先生?」
斎は無言のまま、視線を凪に落とす。瞳にわずかに影がさす。
「……申し訳ありません」
「謝って済むなら、閻魔庁はいらないわよ。まったくもう……止めるのが“あなたの”役目でしょ」
綾女の口調は、怒っているというより呆れているようだった。
部屋の隅、コソコソと声をひそめて様子を伺っていた柚月と空良が顔を見合わせる。
「なあ……蘇芳先生と篠森先生って、なんかワケありっぽくね?」
「ちょ、柚月くん、シーッ!」
二人の視線が綾女に向いたとき、彼女は小さくため息をついた。
「本家に戻せば、また現場に出されるだけよね。……凪は“断る”という言葉を知らないし。仕方ないわ」
そう言って綾女は、斎の顔を見ずに決断を下す。
「今日はこのまま、外に泊まりましょ。金曜日だし、週末を使って休ませるのがいいわね。十和田くん、宮坂さん。あなたたちも来る?」
「……え? あ、はい!」
空良がきょとんとしながらも勢いよくうなずき、柚月も少し驚いた様子で「俺も?」と確認する。
「ええ、せっかくの機会だもの。いい景色、見せてあげるわ」
綾女の口元に、意味深な微笑が浮かんだ。
そして――。
日が落ちた街を、黒塗りの高級外車が静かに走っていた。
運転席に座るのは綾女。助手席には空良、後部座席には斎、凪、柚月が並ぶ。
綾女の運転する車は、外国製の高級SUV。女性にも人気のモデルで、その洗練された外観と静音性は、まるで別世界に包まれているようだった。
「助手席、ふかふかだよ〜。なんか映画みたい」
空良が思わずつぶやく。
「なんかすげぇ車乗ってんな……。これって、もしかして数千万のやつ……?」
柚月も、窓越しに流れる夜景を眺めながら落ち着かない様子で呟いた。
「凪様、大丈夫ですか?」
「う、ん……大丈夫」
言葉とは裏腹に、凪は斎に寄りかかりぐったりとしている。
やがて車は、とある高層ホテルの裏手に停まった。
「ここ……どこだ?」
「このホテル、テレビで見たことあるかも……芸能人がお忍びで泊まるって噂の……」
綾女は何も言わず、車から荷物を取り出し、裏口の自動ドアへと向かう。そこは、正面ロビーを通らない特別な出入口――関係者や要人、芸能人の利用が許された、限られた導線だった。
柚月と空良は顔を見合わせ、不思議そうに首を傾げる。
「この入口って……普通の人、使えなくないか?」
「……まさか、蘇芳先生って、ただの保健の先生じゃない……?」
「ロビーも素敵なんだけどね。そっちは明日、見に行ってね。今日はこっちから」
綾女がスマホを取り出し、どこかへ電話をかけると、カチャと音がした。
煌びやかな正面玄関とは程遠い、まるで通用口の用な金属の扉。
しかし、そのドアを開くとカーペット敷きのエレベーターフロアが現れた。
勝手知ったる様子で綾女がエレベーターのボタンを押す。
大人五人(うち一人は抱きかかえられているが)が、余裕で入れる箱は最上階で止まり、扉が開いた。
通された広々としたスイートルームの一室。あまりに現実離れした空間に、柚月と空良が思わず息を呑む。
そして、綾女がふいに髪をかき上げ、まとめ直し、眼鏡を外した瞬間。
「うそだろ……」
柚月が小声で呟いた。
「……須皇本家の、執行役……」
その正体に気づいた彼の顔には、驚きと、妙な納得の色が浮かんでいた――。
***
暖かな照明に照らされたラグジュアリーな空間に、凪はベッドに横たわっていた。
薬を飲み熱は少し下がったものの、まだ顔は赤く、息も浅い。
その傍らに座った斎が、丁寧に冷えたタオルを額にのせる。
「少し楽になりましたか?」
凪はうっすらと目を開け、小さくうなずいた。斎の表情はいつもの無表情に見えて、その実どこか罪悪感を滲ませていた。
そんな静けさを破ったのは、リビングの方から聞こえてきた声だった。
「凪くん、ほんとに大丈夫なの?」
扉越しに空良の声が響く。柚月の「おい、静かにしろって」と慌てる声も重なる。
綾女と斎が静かに立ち上がる。
「十和田君と、宮坂さんもそれぞれ同じフロアにお部屋を用意してあるから使ってね」
「では、少し綾女様と話ししてきます。何かあれば、すぐに呼んでください」
凪は弱々しく頷くと、小さな声で「……ありがとう」と呟いた。
リビングのテーブルには、ペットボトルの水とお菓子が並んでいる。明らかに緊張感の抜けた様子だった。
斎の姿が部屋を出ていくと、凪・柚月・空良の三人だけが残された。
凪はベッドに上体を起こし、壁際の椅子に腰かけている柚月と、ソファに脚を抱えて座る空良を静かに見つめた。
「……質問、あるんでしょう?」
凪がぽつりと呟いた。
柚月が腕を組んだまま、ジロリと凪を見る。
「あるに決まってんだろ。なんで今まで隠してたんだよ。“器”って……あんな戦い方、普通の人間にできるかよ」
「……言ってどうなることでもないし。俺の役割だから」
「お前……」
呆れたように言いかけた柚月の隣で、空良が小さく首をかしげる。
「でも、私たちが知らなかっただけで、凪君はずっと一人で戦ってたんでしょ?」
「……うん」
「じゃあ、ありがとうって思うよ。怖いのに、痛いのに、私を助けてくれて」
空良の笑顔は、どこまでもまっすぐだった。
「……ありがとう」
凪が小さく口にしたその言葉は、自分でも驚くほどに温かくて、苦かった。
「それにしてもお前な、熱出してんのに無理して……」
柚月が再び腕を組み、眉をひそめた。
「お前さ、前から妙に我慢強いと思ってたけど、しょっちゅうこんな熱出してたわけ?」
「うん……慣れてるから、大丈夫」
「慣れてるからって、大丈夫じゃねぇからな? 友達ならちゃんと言え、しんどい時はしんどいって」
「……友達」
凪はゆっくりと二人の顔を見つめた。
仮面の向こう側を見られて、それでも変わらず接してくれる存在。
それは、これまでの人生で得られなかった、かけがえのないものだった。
「……ありがとう、柚月、宮坂さん」
「ねぇ、凪くん、空良って呼んでほしいな。柚月くんだけ、ずるい」
「……空良」
その言葉に、空良が満面の笑みで「うんっ」と頷き、柚月はニコリとほほ笑んだ。
扉がノックされ、ホテルスタッフが控えめに声をかけた。
「失礼いたします。お召し替えのお洋服をご用意いたしました」
「着替えまで……すごいな、本家って」
柚月がぼそりと呟き、空良が「すごーい!」と声を上げる。
制服のままでは眠れないと嘆いていた二人のもとには、それぞれサイズぴったりのパジャマと明日の着替えまで届いていた。
どうやら、綾女がすでにどこかに手配を済ませていたようだ。
***
外の夜景が広がるラウンジ風の部屋に、綾女と斎は向かい合って座っていた。
綾女は髪をまとめ直し、白衣ではなく、ダークグレーのシンプルなスーツ姿に着替えている。
執行役――須皇家の“実務責任者”としての顔だ。
対する斎は、普段と変わらぬ無表情を保っていたが、どこか所在なさげに視線を落としていた。
「……黙ってても、許す気はないわよ」
綾女の声は、冷ややかだった。
「凪があれだけ消耗するまで、あなたは何をしていたの?」
「……未然に止めるべきだったのは、承知している」
「“承知”だけで終わらせないで。私は“くれぐれも”って言ったわよね?」
その言葉に、斎のまぶたがわずかに動く。
「あなたが傍にいたのは、“器の守役”としての立場でしょ。なのに、無茶を重ねて挙げ句に倒れさせて――本家に戻していたら、また現場に駆り出されるところだったわ」
「……」
「彼が“断る”ことを知らないって、あなたも知ってるはずよ」
綾女は小さくため息をついた。
「今日、空良さんや柚月くんがいたから、まだ良かった。でも、あの子たちはもう凪の“仮面”を見抜いてしまった。これから、彼は揺れるわ」
「……」
「あなた自身、どうするつもり?」
斎は一瞬だけ視線を逸らし――そして言った。
「……私は、あの子を”壊さない”ために在る」
その言葉に、綾女の表情が僅かに緩む。
「なら、もう少しちゃんと守ってあげて」
綾女は立ち上がり、斎の横をすっと通り過ぎた。
その背に向けて、斎はぼそりと問う。
「……彼に“日常”を、与えていいのだろうか」
綾女は振り返らずに答えた。
「そう思った時点で、あなたはもう“ただの守役”ではないのよ、篠森先生。いえ、冥府の斎さん」
そして、扉を静かに閉じる。
夜の高層階。
残された斎は、薄く息を吐き、窓の向こうに沈む街の灯をじっと見つめていた。
***
翌朝。
薄曇りの空が、ガラス越しにゆっくりと色を変えてゆく。
凪はカーテンの隙間から漏れる柔らかな光に目を細め、ベッドの上で上体を起こした。昨夜より熱は落ち着いている。薬のおかげか、それとも、あの二人との会話が少し効いたのか――
掛け布団をずらし、足を下すと、足元にはふかふかのスリッパ。昨夜届いたものだ。
部屋の窓際へと歩く。
窓の向こうには、眼下に広がる東京の街並み。高層ビルの屋上すら見下ろせる高さだ。
朝の光を受けて、街が静かに目覚めていく様子が、まるで絵画のように美しかった。
(……広いな)
思わず、息を飲んだ。
この視界の広さ。空の高さ。音のない朝。
自分のいる場所――本家の地下にある、閉ざされた小部屋とは、すべてが違っていた。
窓もない。光も差さない。日常に名前をつけることもできない日々。
(……こんな世界があったんだ)
ピンポンと軽い音が、部屋に響く。
ドアを開くと、明るい声が響く。
「凪くーん、おはよー!」
空良だった。ふわふわのバスローブ姿で、髪はゆるく巻かれ、ほのかに花の香りが漂う。
「ねぇ、朝のエステ最高だったよ! こんなに肌がツルツルになるなんて、知らなかった〜」
続いて、柚月がスッと入ってくる。
「……こっちは朝風呂とサウナ、ついでに整体まで。ここに住みてぇ!てか、空良、せめて服は着て来いよ……」
「えー、だってせっかくお肌ツルツルになったから凪くんに見せたかったんだもん」
凪は、ふ、と笑った。
「うわ、凪くんが笑った」
「なんだ、普通に笑えるんじゃん。そっちのがいいよ、凪」
「ほんわか凪くんも可愛いけど、私は今の凪くんが好きだよ!」
「空良、彼氏の前で、それはひどくないか」
「え、二人って付き合ってたの?」
「は?お前、知らなかったの?」
こうして始まった静かな朝――
それは、初めて「日常」と呼べる時間だった。
お読みいただきありがとうございます!
須皇家の“表”と“裏”、綾女の二つの顔、そして斎と凪の距離。
日常からほんの少し踏み出したこの夜が、ふたりの関係を静かに変えていきます。
次回はいよいよ第二章、冥府の兆しが現世を揺らします――。




