第9話 触れていないと、戻ってしまう
殿下の声が戻ってから、塔の最上階は少しだけ賑やかになった。
賑やか、といっても、聞こえるのは私と殿下の声だけだ。それでも、十年間うめき声しか響かなかったこの部屋にとっては、きっと大きな変化だった。
「フィリア」
「はい、殿下」
「……呼んでみただけだ」
殿下は、何度もそうして私の名前を呼んだ。
まるで、声が出ることを確かめるように。あるいは、私がそこにいることを確かめるように。
最初は戸惑ったけれど、三日も経つころには、それが少しくすぐったくて、少し嬉しくなっていた。
「殿下は、どうしてそんなに私の名前を呼ぶのですか?」
「十年分、呼べなかった名前を取り戻している」
「十年分……? でも、私たちが出会ったのは、ほんのひと月前で」
殿下は、ふっと目を細めた。
それは、私が初めて見る、殿下の微笑みだった。
「その話は、また今度にしよう」
殿下の身体は、まだ半分ほどが茨に覆われていた。
両腕と首元はすっかり自由になったけれど、胸から下は、いまだ黒い蔓が椅子へと縫いとめている。立ち上がることも、まだできない。
「呪いのことで、分かったことがある」
ある朝、殿下が静かに切り出した。
私は殿下の手を握ったまま、居住まいを正した。
「君が触れたところから、茨はほどける。そして、君が離れると、少しずつ戻ってくる。ここまでは、君も気づいているだろう」
「はい」
「だが、ほどける速さは、いつも同じではない」
殿下は、自分の左腕を見下ろした。
「長く触れているほど、広く触れているほど、茨は早くほどける。それに……」
そこで、殿下はなぜか言葉を切った。
「それに?」
「……君が、笑っているときだ」
「え?」
「君が笑ったり、私の名前を呼んだり……そういうときほど、茨はよくほどける。祈りの強さは、心の在り方に左右されるのかもしれない」
殿下の声は落ち着いていた。
けれど、私の顔は一瞬で熱くなった。
(心の在り方って……つまり)
私が殿下に心を開くほど、呪いが解ける、ということだ。
それを、殿下ご本人の口から言われるなんて。
「わ、分かりました。では、なるべく笑うようにいたします」
「無理に笑う必要はない。それでは意味がないだろう」
「……そ、そうですね」
うつむいた私の手を、殿下の指がそっと握り直した。
「ゆっくりでいい。私は、もう十年待った。今さら、急ぐ理由はない」
その声が、あまりにも優しかったから。
私は思わず、小さく笑ってしまった。
途端に、殿下の胸元の茨が、ぱらりと一本ほどけて落ちた。
二人で顔を見合わせて、今度は殿下が、声を立てて笑った。
「フィリア。君は、なぜこの塔に送られたんだ」
その夜、殿下がそう尋ねたのは、私が祈りを終えたあとだった。
いつか聞かれるだろうと思っていた。
けれど、いざ話そうとすると、喉の奥がつかえた。
「……妹が、聖女に認定されたのです」
私は、ぽつりぽつりと話した。
八歳のころから、礼拝堂の聖印に祈り続けてきたこと。妹のリディアが、その祈りを自分のものだと言ったこと。聖女認定の儀で、私が邪魔をしたと責められたこと。
婚約者だったクラウス殿下が、妹を選んだこと。
家を追い出されたこと。
話している間、殿下は一言も口を挟まなかった。
ただ、私の手を握る指に、少しずつ力がこもっていくのが分かった。
「……クラウスが、君の婚約者だったのか」
話し終えたとき、殿下の声は、ひどく低かった。
「はい。クラウス殿下は、アシェル殿下の甥にあたる方、ですよね」
「ああ。私が封じられたとき、あの子はまだ十歳だった」
殿下は目を伏せた。
青い瞳の奥に、見たことのない色が揺れている。静かで、冷たくて、底の見えない色。
「あの子は……君の何を見ていたんだろうな」
「私が、至らなかったのです。妹のように、愛想よく笑えなくて」
「フィリア」
殿下が、私の言葉を遮った。
「それは違う」
握られた手が、少し痛いほどだった。
「八歳の子供が、誰にも知られずに十年間、毎晩祈り続ける。王都の民のために、見返りも求めずに。それがどれほどのことか、君は分かっていない」
「殿下……」
「君の祈りは、この塔まで届いていた」
息が、止まった。
「封じられて二年目の冬から、毎晩、同じ時刻に。温かい何かが、遠くから届くようになった。茨の痛みが和らいで、凍えた胸の奥が、少しだけ温かくなった」
殿下の手が、私の手を包み込む。
「最初は、誰の祈りかも分からなかった。だが、君が初めてこの部屋に来て、私の額に触れたとき……すぐに分かった。ああ、この温もりだ、と」
「……私の、祈りが」
「十年間、私を生かしていたのは、君だ」
視界が、ぼやけた。
誰にも届かないと思っていた。誰にも気づかれないと思っていた。
それでいいと、自分に言い聞かせてきた。
なのに。
こんなに遠く離れた、暗い塔の中で、たったひとり、私の祈りを受け取ってくれていた人がいた。
「……っ、う……」
声を殺そうとしたのに、涙は止まらなかった。
殿下の腕が、ぎこちなく私の背中に回された。
まだ痩せていて、力の入らない腕。それでも、精一杯に私を引き寄せてくれる腕だった。
「君は、偽物なんかじゃない」
耳元で、殿下が静かに言った。
「君こそが、本物の聖女だ」
殿下の胸に顔を埋めて、私は子供のように泣いた。
その夜、殿下の身体を覆っていた茨は、胸元から腰のあたりまで、一度にほどけて消えていった。




