第10話 彼女の祈りの温度(アシェル視点)
腕の中で泣き疲れたフィリアは、そのまま眠ってしまった。
私の胸に頬を預け、子供のように身体を丸めている。目元はまだ赤く、睫毛には涙の粒が残っていた。
起こさないように、そっと髪を撫でる。
亜麻色の髪は、思っていたよりずっと柔らかかった。
(……軽いな)
胸にかかる重みが、あまりにも軽い。
三日に一度、固いパンと水だけ。それを彼女は、いつも半分以上、私に食べさせようとする。
「殿下のほうが、体力を取り戻さなければいけませんから」
そう言って笑う顔を見るたびに、胸の奥が軋んだ。
彼女の話を聞いている間、私はずっと、自分を抑えていた。
八歳から十年間、たったひとりで祈り続けてきた娘。
その祈りを奪った妹。
それを信じた両親。
六年も婚約していながら、彼女の何ひとつ見ようとしなかった甥。
そして、彼女をこの塔へ送り込んだ宰相。
彼女は、誰のことも悪く言わなかった。自分が至らなかったのだと、自分が笑えなかったからだと、静かに繰り返すだけだった。
それが、何よりも腹立たしかった。
彼女に、ではない。
彼女にそう思い込ませた、すべての者たちに。
(クラウス……お前は、何を見ていた)
封じられる前、膝の上に乗せて絵本を読んでやった甥の顔を思い出そうとする。
けれど、もう浮かんでこなかった。
代わりに浮かぶのは、私の手を握り、迷いなく「ここにいますから」と言った、フィリアの顔だけだった。
もうひとつ、気にかかっていることがある。
フィリアが王都の聖印へ祈りを捧げなくなって、ひと月以上が経つ。
聖印は、聖女の祈りによって力を保つ。
十年前、私が災厄の呪いをこの身に封じたあと、王都の結界はかろうじて保たれていた。それが少しずつ持ち直していったのは、おそらくフィリアの祈りのおかげだ。
その祈りが、途絶えた。
フィリアは毎晩、王都の方角へ祈っている。けれど、聖印に直接触れて注ぐ祈りとは、比べものにならないだろう。
聖女を名乗る妹に、本当に力がないのなら——。
(いずれ、綻びが出る)
それも、そう遠くないうちに。
宰相ベルナールが、それに気づいていないはずがない。
あの男は、十年前もそうだった。穏やかな顔で、誰よりも先に損得を計算する。私をこの塔に封じると決めたときも、解呪の道を探るより、私を王都から遠ざけることを選んだ。
病床の兄上に代わり、政を握るために。
ならば、なぜ今、本物の聖女であるフィリアを、私と同じこの塔へ送ったのか。
偶然なのか。
それとも、何かを知っているのか。
(……いや。知っていたなら、こんな迂闊な真似はしない)
フィリアが触れれば、私の呪いは解ける。宰相にとって、それは最も避けたい事態のはずだ。
あの男は、知らないのだ。
この塔の最上階に、誰も近づけないと思い込んでいる。
それならそれでいい。
今はまだ、気づかれるわけにはいかない。
腕の中で、フィリアが小さく身じろいだ。
「……ん」
寝言のような、かすかな声。冷えた石の床で眠っているせいか、細い肩が小さく震えている。
私は自分の肩にかかっていた古い外套を、片手でどうにか引き寄せた。
十年前、この塔に連れてこられたときに着ていたものだ。すっかり色あせて、ところどころ擦り切れている。
それを、彼女の背中にかけた。
「……殿下」
起きたのかと思った。
けれど、フィリアは目を閉じたまま、外套の端を握りしめて、また深い寝息を立て始めた。
「殿下の、匂いがする……」
寝言だった。
それが分かっていても、私はしばらく息をするのを忘れていた。
(……フィリア)
心の在り方が、祈りの強さを左右する。
今朝、自分でそう言った。
彼女が笑えば、茨はよくほどける。彼女が私の名前を呼べば、黒い紋様が薄れていく。彼女が私に心を開くほど、呪いは解けていく。
それを口にしたとき、私はひとつだけ、言わなかったことがある。
呪いが解けていくのは、彼女の心だけの話ではない。
私が彼女を想うほどに、茨は弱まっていくのだ。
十年間、私の身体を蝕み続けた絶望を、彼女への想いが少しずつ塗り替えていく。そうとしか思えなかった。
ならば、この呪いが完全に解けるころには。
(私はきっと、君なしでは生きられなくなっている)
それが少し、恐ろしかった。
それ以上に、待ち遠しかった。
夜明け前のことだった。
階段の下から、かすかな物音が聞こえた。
規則正しく、石段を踏みしめる足音。少しずつ、こちらへ近づいてくる。
私は目を開けた。
腕の中のフィリアは、まだ眠っている。
十年間、この部屋に近づく者はいなかった。番兵の老人でさえ、最上階には決して上ってこなかった。
なのに、足音は止まらない。
一段。また一段。
扉の前で、ぴたりと止まった。
私は、まだ動かない下半身を呪いながら、フィリアの身体を、自分の腕の内側へと深く抱き寄せた。
誰であろうと。
この娘には、指一本触れさせない。




