第11話 王都の綻び
目を覚ましたのは、殿下の腕に強く抱き寄せられたからだった。
「……殿下?」
「静かに」
耳元で、殿下が低くささやく。
その声は、聞いたことがないほど張りつめていた。
殿下の視線の先を追う。茨に覆われた扉の向こうに、誰かの気配があった。
心臓が、どくんと跳ねた。
(誰……? 宰相閣下の手の者? それとも……)
扉の向こうから、しわがれた声が聞こえた。
「……お嬢さん。そこに、おられるのか」
その声に、私は息を吐いた。
「トマスさん……!」
「フィリア、知っている者か」
「はい。塔の番兵の方です。食事を運んでくださっている」
殿下の腕の力が、ほんの少しだけゆるんだ。
けれど、離してはくれなかった。
「三階の部屋を覗いても、ここ何日もお嬢さんの姿が見えん。パンは減っておるのに、寝台は冷たいままだ。まさかと思って……」
扉の向こうで、トマスさんが息を呑む気配がした。
「この茨……扉の茨が、ほどけておる……?」
私は殿下を見上げた。
殿下は少しの間、扉を見つめていた。それから、ゆっくりと頷いた。
「入れてやってくれ」
扉を開けると、トマスさんは燭台を手にしたまま、その場に立ち尽くした。
皺の刻まれた目が、部屋の奥の殿下をとらえる。
腕と胸元から茨が消え、椅子に背を預けた殿下の姿を。
「……で、殿下」
燭台が、かたかたと震えた。
「アシェル殿下……お、お身体が……」
「久しいな、トマス」
殿下が、静かに名前を呼んだ。
その瞬間、トマスさんは膝から崩れ落ちた。
燭台を床に置き、両手で顔を覆う。皺だらけの指の隙間から、嗚咽が漏れた。
「わしの……わしの名前を、覚えておいでで……」
「忘れるものか。十年間、毎朝欠かさず塔の扉の前で祈っていたのは、お前だろう」
トマスさんは、子供のように声を上げて泣いた。
私は殿下の手を握ったまま、そっと目を伏せた。
(この方を、ずっと気にかけていた人が、いたんだ)
誰にも顧みられなかったと、殿下は思っていたかもしれない。
けれど、ここにひとり、ちゃんといたのだ。
「お嬢さんが、これを……」
ようやく落ち着いたトマスさんに、私はこれまでのことを話した。
茨が私の手にだけ道を開けること。触れたところから呪いがほどけること。離れると、また戻ってしまうこと。
トマスさんは、何度も目を見開きながら聞いていた。
「では、お嬢さんは……本物の、聖女様で」
「……私には、まだよく分かりません」
「分からんことがあるか」
トマスさんは、きっぱりと首を振った。
「十年、誰ひとり近づけなかった茨を、ほどいておられるのだ。それを聖女と呼ばんで、何と呼ぶ」
それから、トマスさんの顔が、ふいに曇った。
「……それに、実は、王都のほうで、妙な噂が流れておりましてな」
「噂?」
殿下が、静かに問い返す。
「森の外の村へ買い出しに行くと、行商人どもが口々に言うのです。王都の泉が、ここひと月ほどで急に濁り始めたと」
息が、止まった。
「それだけではありません。北の街道沿いに、魔物が出たという話も聞きました。何十年も、結界の内側では見なかったものが」
「結界に、綻びが出ているのか」
「はい。それと……」
トマスさんは、言いにくそうに口ごもった。
「聖女様の……妹君のお力が、ここのところ弱っておられるとか。癒やしの祈祷で、病人が治らなかったという話を、何度か耳にしました」
私は、無意識に胸元を押さえていた。
(私が、祈らなくなったから)
聖印は、祈りを捧げ続けなければ力を失う。分かっていたことだった。
分かっていて、私にはどうすることもできなかった。
「……王都の人たちは、大丈夫なのでしょうか」
思わず漏れた言葉に、トマスさんが目を丸くした。
「お嬢さんを追い出した王都の心配を、なさるので?」
「だって……困っている人が、たくさんいるのでしょう? 泉の水を飲む人も、街道を通る人も」
トマスさんは、しばらく黙って私を見ていた。
それから、殿下のほうを向いて、小さく笑った。
「殿下。このお方は……」
「ああ」
殿下は、私の手を握る指に力を込めた。
「だから、本物なんだ」
トマスさんは、それから毎日、こっそり最上階まで食事を運んでくれるようになった。
固い黒パンだけではなく、森で採れた木の実や、番小屋で煮た野菜のスープまで。
「宰相閣下の命令は、三日に一度、パンと水だけ。だが、わしが自分の分を分けて何が悪い」
そう言って、トマスさんは悪戯っぽく笑った。
温かいスープを殿下の口元へ運ぶと、殿下はひと口飲んで、目を閉じた。
「……十年ぶりの味だ」
その声が、少しだけ震えていた。
私も、スープを口に運んだ。塩気の薄い、素朴な味。それなのに、今まで食べたどんなご馳走よりも、温かく感じた。
その夜、王都の方角へ祈りながら、私は思った。
(どうか、結界が少しでも保ちますように)
遠すぎて、届かないかもしれない。
それでも、祈ることだけは、やめたくなかった。
祈りを終えて目を開けると、殿下が私を見ていた。
「フィリア」
「はい」
「王都のことは、いずれ必ず何とかする。だから、今は自分を責めるな」
「……はい」
殿下の手が、私の頬に触れる。
その指先は、出会ったころより、ずっと温かくなっていた。
翌朝、トマスさんが、青ざめた顔で階段を駆け上がってきた。
「お嬢さん、大変だ……王都から、使いの者が来る」




