第8話 最初の言葉
それからの私は、ほとんど一日中を最上階で過ごすようになった。
夜だけ通っていては、私が離れている間に、茨がまた殿下の身体を蝕んでしまう。だから三階の部屋から毛布を運び上げ、殿下の椅子のすぐそばに寝床を作った。
「……殿下、本当によろしいのですか? その、私がずっとここにいても」
とん、と一回。
迷いのない返事だった。
「でも、ご迷惑では」
とん、とん。
二回。いいえ、だ。
それから少し間があって、もう一度。
とん。
(……もう一度、はい?)
首を傾げる私の手のひらを、殿下の指がそっと撫でた。
まるで、念を押すように。
頬が、少しだけ熱くなった。
殿下のそばで過ごす日々は、静かだった。
朝は、細い窓から差し込む光の中で、殿下の手を握りながら目を覚ます。昼は、少しずつほどけていく茨の様子を確かめ、殿下の肌に浮かぶ黒い紋様を、濡らした布で拭う。
夜は、王都の方角へ向けて祈りを捧げる。
殿下の手を、片手で握ったまま。
不思議なことに、殿下に触れながら祈ると、指先からこぼれる光はいつもよりずっと強くなった。そして、その光が触れたところから、茨は面白いようにほどけていった。
右手。手首。肘。
左手。腕。肩。
十日も経つころには、殿下の両腕はすっかり茨から解放されていた。
「動かせますか?」
殿下はゆっくりと右腕を持ち上げた。
十年間動かせなかった腕は、ひどく痩せて、細かく震えている。それでも、確かに殿下自身の意志で動いていた。
持ち上げた右手が、ためらうように宙をさまよって。
それから、私の頬に触れた。
「……っ」
息が止まった。
骨ばった指先が、そっと私の頬をなぞる。冷たいけれど、優しい手だった。
青い瞳が、何かを確かめるように、じっと私を見つめていた。
(どうして……そんな目で、見るの)
まるで、ずっと探していたものを、やっと見つけたみたいな目。
私はどうしていいか分からなくて、ただ、頬に添えられた殿下の手に、自分の手を重ねた。
困ったのは、三日に一度の食事だった。
トマスさんが塔の入口に置いてくれるパンと水を取りに行くには、どうしても殿下のそばを離れなければならない。
最初のときは、階段を駆け下りて、駆け上がって、それでも戻ったときには殿下の手首に黒い茨が這い戻りかけていた。
殿下は、何でもないような顔をしていた。
けれど額には汗が浮かび、指先は小刻みに震えていた。
「申し訳ありません……! すぐに」
慌てて手を握ると、茨はすうっと消えていく。殿下は小さく息を吐き、それから、私の手のひらを指で叩いた。
とん、とん。
いいえ。謝らなくていい、ということだろう。
「でも、苦しかったでしょう?」
殿下は少しの間、黙って私を見ていた。
それから、私の手を、自分の胸元へと引き寄せた。
痩せた胸の奥で、心臓が鳴っているのが分かった。とく、とく、と。思っていたよりも、ずっと速い音で。
(……殿下も、怖かったんだ)
私がいなくなることが。
また、ひとりになることが。
その夜、私は殿下の手を握ったまま、いつもより長く祈った。
殿下の喉元に絡みつく茨に触れたのは、二週間が過ぎたころだった。
首の茨は、他のどこよりも太く、硬かった。声を奪うための茨なのだと、殿下が指で教えてくれた。
「……触れても、よろしいですか」
とん。
私はそっと、殿下の首筋に指を当てた。
思っていたよりも、ずっと近い。殿下の息遣いが、すぐ耳元で聞こえる。青い瞳が、静かに私を見下ろしていた。
心臓が、うるさいくらいに鳴っていた。
(落ち着いて。これは、殿下のためなんだから)
目を閉じて、祈る。
指先から、金色の光があふれ出した。
ぱきり、と乾いた音がした。
硬い茨にひびが入り、ひとつ、またひとつと崩れ落ちていく。黒い紋様が、首筋から引いていく。
最後の一本が、灰になって消えた。
私は、そっと目を開けた。
殿下は、喉に手を当てていた。
唇が、わずかに開く。けれど、すぐには声にならなかった。十年間使われなかった喉は、言葉の出し方を忘れてしまっているのだろう。
何度か、浅い息が漏れて。
それから。
「……フィ、リア」
かすれた、低い声だった。
ひどく掠れていて、震えていて、それでも確かに、私の名前を呼んでいた。
「……っ、殿下」
視界が、にじんだ。
名前を呼ばれただけなのに、どうしてこんなに胸が苦しいのだろう。
殿下の手が、私の手を握りしめた。
痩せた指に、精一杯の力がこもっている。
「ずっと……言いたかった」
一言ずつ、確かめるように。
青い瞳が、まっすぐに私をとらえる。
「どうか……」
かすれた声が、静かな部屋に落ちた。
「どうか、離れないで……ほしい」




