第7話 十年の茨(アシェル視点)
十年。
この塔に封じられてから、それだけの時が流れたらしい。
らしい、というのは、私にはもう正確な月日が分からないからだ。細い窓から差し込む光が、明るくなり、暗くなり、また明るくなる。それを数えるのは、三年目の冬にやめた。
数えたところで、何も変わらなかったからだ。
茨は、私の身体を縛り、声を奪い、肌の下で絶えず脈打っていた。眠ろうとすれば棘が食い込み、目を覚ませば黒い紋様が少しずつ広がっていく。
この呪いを引き受けたことを、後悔したことはない。
あのまま放っておけば、王都は災厄に呑まれていた。民も、病床の兄上も、まだ幼かった甥のクラウスも。
ただ、ひとつだけ誤算があった。
呪いを封じたあと、誰ひとり、解呪の道を探そうとしなかったことだ。
宰相ベルナールは、私をこの塔に移すと決めたとき、穏やかな顔でこう言った。
「殿下の尊い犠牲は、決して忘れられることはないでしょう」
忘れられることはない、と。
その言葉どおり、私は忘れられなかった。ただ、思い出されることもなかった。
十年間、この扉を開けた者は、誰ひとりいなかったのだから。
それでも、正気を失わずにいられたのには、理由がある。
封じられて二年目の冬だったと思う。
ある夜、ふいに、胸の奥が温かくなった。
茨の痛みが、ほんのわずかに和らいだ。凍えきった身体の芯に、小さな灯火がともったような感覚だった。
それは、ほんの短い間で消えてしまった。
けれど翌晩も、その次の晩も、同じ時刻になると、温かいものは必ず訪れた。
遠いどこかから、誰かが祈っている。
なぜかは分からないが、そう感じた。
王都の聖印と、この塔の封印は、どこかでつながっているのかもしれない。誰かが聖印に注いだ祈りの、ほんのひとしずくが、ここまで流れ着いているのかもしれない。
確かめる術はなかった。
けれど、私はその温もりを待つようになった。
夜ごとに訪れる、名も顔も知らない誰かの祈り。それが、この十年間で私に許された、たったひとつの救いだった。
だから、あの夜。
突然その温もりが途切れたとき、私は茨に縛られたまま、ひどく取り乱した。
一晩。二晩。三晩。
温かいものは、二度と訪れなかった。
祈っていた誰かに、何かがあったのだろうか。病に倒れたのか、それとも、もう祈ることをやめてしまったのか。
胸の奥にぽっかりと穴が空いたようで、私は初めて、声にならない声を上げた。
喉を締めつける茨のせいで、それはただのかすれた息にしかならなかったけれど。
そして、何日目かの夜。
塔のどこか、下のほうから、あの温もりが届いた。
遠い王都からではない。
すぐ近く、この塔の中からだった。
扉の茨がざわめいたのは、その翌晩のことだ。
十年間、誰も開けられなかった扉が、軋みながら開いていく。
燭台の灯りの中に立っていたのは、ひとりの若い女性だった。
亜麻色の髪を簡素にまとめ、灰がかった青の質素なドレスを着ている。顔は青ざめ、燭台を持つ手は震えていた。
それなのに、その瞳は、まっすぐに私を見ていた。
「わ、私は、フィリアと申します。三階の部屋に……その、幽閉されることになりまして」
……幽閉。
こんな娘が、なぜ。
問いたかった。けれど、声は出なかった。
彼女が一歩近づくたびに、床の茨が身をよじって退いていく。十年間、私の身体を一瞬たりとも離さなかった茨が、まるで怯えるように。
そして、彼女が私の額に触れたとき。
分かった。
この温もりだ、と。
二年目の冬から、毎晩欠かさず届いていた祈り。凍えた私の胸を、ずっと灯し続けてくれていたもの。
その持ち主が、今、目の前にいる。
ハンカチ越しに伝わる小さな手は、遠くから届いていた祈りよりも、ずっとずっと温かかった。
それから毎晩、フィリアは来てくれた。
額を拭い、唇を湿らせ、水を飲ませてくれる。たったそれだけのことを、ひどく丁寧に、まるで壊れものを扱うように。
五日目の夜、彼女の指が私の手に触れた。
茨が崩れ、十年ぶりに指が動いた。
そのとき私が最初にしたことは、自分の手を確かめることではなかった。
彼女の指を、つかまえることだった。
逃がしたくなかった。
この温もりが、また途切れてしまうのが怖かった。
「……大丈夫です。ここに、いますから」
彼女はそう言って、私の手を両手で包み込んだ。
その声を聞いたとき、十年間凍りついていた胸の奥で、何かが音を立てて崩れ落ちた気がした。
夜明け前、彼女が手を離した途端、茨はまた私の手に這い戻ってきた。
慣れたことだった。期待などするものではないと、十年かけて学んできた。
けれどフィリアは、迷わずもう一度私の手を握った。
そして、そのまま朝まで、そばを離れなかった。
(……君は、知らないのだろうな)
細い窓から差し込む朝日の中で、私の手を握ったまま、彼女はうとうとと船を漕いでいた。
その横顔を見つめながら、私は思った。
この十年間、君の祈りだけが、私を生かしていたことを。
そして今、私がどれほど、この手を離したくないと思っているかを。
声が戻ったら、最初に何を伝えようか。
礼か。名前か。それとも——。
握られた指先に、ほんの少しだけ、力を込めた。
眠ったままの彼女が、無意識に、その手を握り返してくれた。




