第6話 指先がほどけるとき
それから毎晩、私は最上階へ通うようになった。
トマスさんには、何も言っていない。言えば、きっと止められるだろうから。
夜、窓辺で祈りを終えると、燭台を手に螺旋階段を上る。扉の茨は、もう私が近づくだけで道を開けてくれるようになっていた。
殿下は、いつも同じ場所で、同じように縛られていた。
けれど、私が扉を開けると、青い瞳はいつも、すでにこちらを向いていた。
まるで、待っていてくださったみたいに。
(……そんなはず、ないわよね)
自分に言い聞かせながら、私は殿下のそばに膝をつく。
額の汗を拭い、乾いた唇を湿らせた布で潤す。持ってきた水を少しずつ口元へ運ぶと、殿下はゆっくりと、それを飲み下した。
それだけのことしか、できなかった。
それでも、四日目の夜には、殿下の頬にほんの少しだけ血の色が戻っていた。
五日目の夜のことだった。
いつものように額を拭っていた私の手が、うっかり滑った。
ハンカチが床に落ちる。慌てて拾おうと身をかがめたとき、私の指先が、肘掛けの上に置かれた殿下の手に触れた。
ほんの一瞬。
素肌と素肌が、触れ合った。
「あ……申し訳ありません!」
慌てて手を引こうとした。
けれど、できなかった。
殿下の手の上で、何かが起きていたからだ。
指先に絡みついていた黒い茨が、ぱらぱらと、灰のように崩れ落ちていく。
私が触れた場所を中心に、まるで氷が溶けるように、黒い紋様が薄れていった。
人差し指。中指。
青白い、骨ばった指が、茨の下から姿を現す。
そして——
その指が、ぴくりと動いた。
息を呑んだ。
殿下の瞳が、自分の手を見下ろしていた。信じられないものを見るように、何度も、何度も。
人差し指が、ゆっくりと曲がる。
伸びる。
また、曲がる。
十年間、一度も動かすことのできなかった指が、確かめるように、震えながら動いていた。
(……私が、触れたから?)
自分の手を見る。
指先には、淡い金色の光がまとわりついていた。礼拝堂で、聖印に触れたときと同じ光。
そのとき、殿下の指が、私の指先をとらえた。
かすかな力だった。
握る、というよりも、触れる、に近い。それでも、確かに意志を持って、殿下の指は私の指に絡んでいた。
青い瞳が、私を見上げる。
声は出せない。表情も、まだうまく動かせないのだろう。
それでも、その瞳が何を伝えようとしているのか、私には分かった気がした。
(……離さないで、と)
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。
「……大丈夫です。ここに、いますから」
私はそっと、殿下の手を両手で包み込んだ。
触れたところから、また少し、茨がほどけていった。
その夜、私は長いこと、殿下の手を握っていた。
手の甲の茨がほどけ、手首の黒い紋様が薄れ、やがて手のひら全体が、本来の白さを取り戻した。
殿下は、ときおり指を動かしては、私の手のひらを確かめるように撫でた。
そのたびに、くすぐったいような、泣きたいような気持ちになった。
「殿下。ひとつ、お聞きしてもよろしいですか」
青い瞳が、私を見る。
「もし、はい、なら、指で一回。いいえ、なら二回、私の手を叩いていただけますか」
少しの間があって。
とん、と一回。
殿下の人差し指が、私の手のひらを叩いた。
「……ありがとうございます」
思わず、笑みがこぼれた。
誰かと言葉を交わすのは、ずいぶん久しぶりのような気がした。
「この茨は……災厄の呪い、なのですよね」
とん。
「殿下は、十年間ずっと、おひとりで」
とん。
少しだけ、間が長かった。
「誰も……この茨に、触れることはできなかったのですか」
とん。
迷いのない、一回だった。
私は、ほどけた殿下の手を見下ろした。
誰にも触れられなかった茨が、私の手にだけは道を開ける。私の光に触れると、灰のように崩れていく。
聖印に注いできた祈り。
聖水晶を輝かせた祈り。
そして今、殿下の呪いをほどいている、この光。
(……リディアは、聖女なんかじゃない)
分かっていたことだった。けれど、今初めて、はっきりと思った。
(本物は……私、なの?)
大それた考えだと、ずっと押し込めてきた言葉。
それを口にする勇気は、まだなかった。
夜明けが近づき、私は名残惜しく立ち上がった。
「また、明日の夜に参ります」
殿下の指から、そっと手を離す。
その瞬間だった。
ほどけたはずの手の甲に、ふっと、黒い影がにじんだ。
細い茨の芽が、肌の下から這い出すように、指の付け根へと伸びていく。
殿下の指が、こわばった。
「……っ」
私は慌てて、もう一度殿下の手を握った。
黒い芽は、私の光に触れた途端、すうっと消えていった。
殿下の瞳が、静かに私を見上げる。
そこには、諦めにも似た色が浮かんでいた。
まるで、分かっていた、とでも言うように。
(離れたら……呪いが、戻ってしまう)
私は、殿下の手を握りしめたまま、その場から動けなくなった。
細い窓の向こうで、空が白み始めていた。




