第5話 塔の最上階
螺旋階段は、思っていたよりもずっと長かった。
一段上るごとに、空気が冷たく、重くなっていく。燭台の小さな火が、私の呼吸に合わせて頼りなく揺れた。
壁を這う黒い茨も、上へ行くほど太く、密になっていた。まるで塔そのものが、茨に呑み込まれかけているみたいだ。
(……引き返したほうが、いいのかもしれない)
何度もそう思った。
けれど、そのたびに、あのかすれたうめき声が頭の中によみがえる。
誰にも届かない声。
私も、ずっとそうだった。
礼拝堂でひとり祈り続けても、誰にも気づかれなかった。地下牢で無実を訴えても、誰も聞いてくれなかった。
だから、放っておけなかったのだと思う。
やがて、階段が途切れた。
目の前に、大きな木の扉があった。
いや、扉だったもの、と言うべきかもしれない。扉の表面は黒い茨で幾重にも覆われ、取っ手も鍵穴も見えなくなっていた。
茨の棘は、私の指ほどもある。触れれば、ただでは済まないだろう。
扉の向こうから、また、あの声が聞こえた。
さっきよりも、ずっと近い。
低く、苦しげで、それでいてどこか、声を押し殺しているような息遣い。
(この向こうに……王弟殿下が)
私は燭台を床に置き、深く息を吸った。
震える指先を、茨へと伸ばす。
棘の先が、肌に触れた。
その瞬間だった。
ざわり、と。
茨が、生き物のように身をよじった。
思わず手を引こうとした私の目の前で、黒い茨はゆっくりと後退していく。まるで、熱いものから逃げるように。
指先が触れたところを中心に、茨がほどけ、扉の木肌がわずかにのぞいた。
「……え?」
私は呆然と、自分の手を見下ろした。
傷ひとつ、ついていない。
指先には、礼拝堂で祈ったときと同じ、淡い金色の光がかすかに残っていた。
両手で茨をかき分けるたびに、黒い蔓は道を開けるように退いていった。
やがて現れた取っ手を握り、力を込めて押す。
長い間、誰にも開けられたことのない扉が、重い音を立てて軋んだ。
部屋の中は、薄暗かった。
天井の高い円形の部屋で、壁という壁、床という床を、黒い茨が覆いつくしている。高い位置にある細い窓から、月明かりが一筋だけ差し込んでいた。
その光の先に、人がいた。
部屋の奥、古い玉座のような石の椅子に、ひとりの青年が座っていた。
いや、縫いとめられていた。
黒い茨が、彼の両腕を、肩を、胸を、首元までを、幾重にも絡めとっている。床から伸びた蔓が足首を縛り、椅子の背から伸びた蔓が、まるで鎖のように身体を押さえつけていた。
伸び放題の銀の髪が、肩から胸へ流れ落ちている。
その隙間からのぞく肌には、茨と同じ黒い紋様が、ひびのように浮かんでいた。
(……この方が、王弟殿下)
息をすることも忘れて、私は立ち尽くした。
十年。
トマスさんは、十年前からだと言っていた。
十年間、この方はこの暗い部屋で、ひとりきりで、この茨に縛られ続けていたのだ。
ふいに、銀の髪の隙間で、何かが動いた。
伏せられていた長い睫毛が、ゆっくりと持ち上がる。
現れたのは、夜明け前の空のような、深い青の瞳だった。
その瞳が、まっすぐに私をとらえた。
「……あ、あの」
声が、上ずった。
何を言えばいいのか分からない。名乗るべきなのか、謝るべきなのか、それとも逃げるべきなのか。
青い瞳は、ただじっと私を見つめていた。
驚いているようにも、警戒しているようにも見える。けれど、その奥に揺れているものが何なのか、私には分からなかった。
唇が、かすかに動いた。
けれど、声は出なかった。喉元まで絡みついた茨が、それを許さないのだ。
代わりに、また、あのかすれた息が漏れた。
ずっと聞こえていたのは、これだったのだ。
声を出すこともできず、身じろぎもできず、ただ息をすることしか許されない人の、精一杯の音。
「わ、私は、フィリアと申します。三階の部屋に……その、幽閉されることになりまして」
我ながら、ひどい自己紹介だと思った。
青い瞳が、わずかに見開かれる。
「夜になると、殿下のお声が聞こえて……。苦しそうで、それで、どうしても気になって」
言いながら、私は一歩、また一歩と、部屋の奥へ近づいていた。
足元の茨が、ざわざわと身を引いて道を開ける。
青い瞳が、その様子を追った。そして、もう一度、私の顔へと戻ってくる。
今度ははっきりと、驚きの色が浮かんでいた。
(この茨……殿下にとっても、こんなふうに退くのは初めてなのかもしれない)
椅子の前まで来ると、殿下の顔がよく見えた。
頬はこけ、唇は乾いてひび割れている。それでも、整った輪郭と、すっと通った鼻筋は、かつての姿をうかがわせた。
額に、うっすらと汗が浮かんでいた。
この寒い塔の中で、汗をかくほど苦しいのだ。
「……失礼いたします」
私はハンカチを取り出し、そっと殿下の額に当てた。
布越しに、かすかな体温が伝わってくる。
殿下の瞳が、大きく揺れた。
それから、ゆっくりと。
まるで、信じられないものを確かめるように、その青い瞳が、私の手を見つめた。




