第4話 嘆きの塔へ
神殿の地下牢は、ひどく冷たかった。
石の床に敷かれた薄い藁の上で、私は膝を抱えて座っていた。小さな格子窓から差し込む光だけが、昼と夜の境目を教えてくれる。
もう、三日が経っていた。
その間に面会に来たのは、父だけだった。
「……アルセン家は、お前を籍から外すことにした」
格子越しに、父は淡々とそう告げた。
「お父様、私は本当に何も……」
「事実がどうであろうと関係ない。聖女となったリディアに、これ以上傷をつけるわけにはいかんのだ」
家の体面。
父がいつも何より大切にしてきたもの。
その天秤の上で、私はあっけなく切り捨てられたのだと分かった。
「お母様は……」
「イザベラは、お前の顔など見たくないと言っている」
父はそれだけ言うと、一度も振り返らずに去っていった。
遠ざかっていく足音を聞きながら、私はぼんやりと思った。
(……そう。そうよね)
悲しいはずなのに、涙は出なかった。
心のどこかで、ずっと分かっていたのかもしれない。この家に、私の居場所なんて最初からなかったのだと。
その夜、地下牢の扉が静かに開いた。
ランプの灯りとともに現れたのは、純白のドレスを着たリディアだった。
「お姉様、ご機嫌いかが?」
鈴を転がすような声。昼間と同じ、愛らしい笑顔。
けれど、私以外に誰もいないこの場所で、その笑顔はひどく作り物めいて見えた。
「……リディア。あなた、私が礼拝堂で祈っていたことを、知っていたのね」
「ええ、もちろん」
リディアはあっさりと頷いた。
「一年くらい前かしら。夜中にお姉様が出ていくのを見かけて、後をつけたの。聖印が光るのを見て、すぐに分かったわ。ああ、これは使えるって」
「使える……?」
「だって、聖女よ? 王家に嫁げる、この国でいちばん特別な存在。お姉様なんかにはもったいないじゃない」
リディアは格子に顔を近づけ、空色の瞳を細めた。
「ねえ、お姉様は気づいていなかったでしょうけど……わたくし、ずっとお姉様が大嫌いだったの」
「え……」
「刺繍の先生も、礼法の先生も、ヘルガ夫人も。みんなお姉様ばかり褒めるのよ。『フィリア様は優秀で』『フィリア様を見習いなさい』って」
意味が、分からなかった。
(私が……褒められていた?)
そんなはずはない。先生たちはいつも、出来の悪い私を励ましてくださっていただけで。
「その顔。本当に分かっていなかったのね」
リディアが、くすくすと笑った。
「だから全部、奪ってあげたの。髪飾りも、刺繍も、お友達も、殿下も。最後に残った祈りまで、ぜーんぶ」
「……リディア」
「お姉様は、嘆きの塔に送られることになったわ。宰相閣下のご提案よ」
嘆きの塔。
王都の北、誰も近づかない黒い森の奥に建つ古い塔だ。一度入った者は二度と戻らない、呪われた場所だと聞いている。
「さようなら、お姉様。聖女の祈りは、わたくしが引き継いであげるから」
ランプの灯りが遠ざかり、地下牢は再び闇に沈んだ。
私は冷たい石壁に背を預け、目を閉じた。
(引き継ぐ……?)
リディアは、知らないのだ。
聖印は、祈りを捧げ続けなければ光を失う。私がいなくなったら、あの光は——。
けれど、それを告げる相手は、もうどこにもいなかった。
翌朝、私は窓のない馬車に乗せられた。
がたがたと揺れる車内で、どれほどの時間が過ぎただろう。やがて馬車が止まり、扉が開かれると、ひやりとした空気が流れ込んできた。
目の前に、黒い塔がそびえていた。
天を突くような細長い石の塔。その外壁を、黒い茨がびっしりと覆っている。昼間だというのに、森の木々に遮られて辺りは薄暗く、鳥の声ひとつ聞こえなかった。
「降りろ」
衛兵に腕を引かれ、私はよろめきながら地面に足をつけた。
塔の入口には、年老いた番兵がひとり立っていた。衛兵が書状を渡すと、番兵は私の顔をちらりと見て、気の毒そうに眉を寄せた。
「……こんなお若いお嬢さんが、またどうして」
「余計な口をきくな。宰相閣下のご命令だ」
衛兵は吐き捨てるように言うと、さっさと馬車へ戻っていった。
車輪の音が、森の奥へ遠ざかっていく。
「わしはトマスという。森の番小屋に住んでおる」
番兵は塔の扉の鍵を開けながら、低い声で続けた。
「食事は、三日に一度ここに置く。それ以上は、わしにもどうにもできん。それと……最上階にだけは、近づかんほうがいい」
「最上階に、何があるのですか?」
「……呪われた方が、封じられておられる」
トマスさんはそれ以上何も言わず、私を三階の小部屋へ案内した。
古い寝台と、擦り切れた毛布。小さな窓がひとつ。それが、私に与えられたすべてだった。
背後で扉が閉まり、塔の入口に鍵のかかる音が、遠く響いた。
最初の夜は、寒さで眠れなかった。
毛布を頭までかぶっても、石壁から染み出す冷気が骨にまで届く。私は寝台の上で身を縮め、ただ朝を待った。
真夜中を過ぎたころ、どこかで低い音がした。
(……風?)
塔の上のほうから、細く長く、何かが軋むような音。
それはまるで、誰かが苦しげに息を吐いているようにも聞こえた。
私はそれ以上考えないように、固く目を閉じた。
二日目からは、部屋の掃除をして過ごした。
積もった埃を払い、窓の汚れを拭い、寝台の脚のぐらつきを古布で直す。何かしていないと、心が沈んでしまいそうだったから。
三日目の朝、塔の入口に、固い黒パンと水の入った瓶が置かれていた。
「ちゃんと食べておるか」
扉の小窓越しに、トマスさんが声をかけてくれた。
「はい。ありがとうございます」
「……お嬢さんは、何をして送られてきなすった」
「何も、していません。……と言っても、信じていただけないでしょうけれど」
小窓の向こうで、トマスさんが少し黙った。
「最上階の方も、何もしておられんかった」
「え……?」
「十年前、王都を災厄が襲ったとき、その呪いをお一人で引き受けられたのが、王弟アシェル殿下だ。国を救ったお方が、今は誰にも顧みられず、ここに封じられておる」
トマスさんの声は、静かに沈んでいた。
「お優しい方だった。……わしが言えるのは、それだけだ」
夜になると、私は窓辺に膝をついた。
ここには聖印も、礼拝堂もない。それでも十年間続けてきた習慣は、そう簡単には消えなかった。
窓の外、遠い王都の方角へ向けて、両手を組む。
(どうか、王都の結界が保たれますように。誰も、傷つきませんように)
指先から、淡い光がこぼれた。
行き場のない光は、ふわりと床に落ちて、静かに消えていく。
そのとき、窓枠の隙間から入り込んでいた黒い茨の一本が、光に触れた先だけ、ほんの少し色を失った。
けれど私は、それに気づかなかった。
六日目の夜だった。
いつものように窓辺で祈りを終えたとき、また、あの音が聞こえた。
けれど今夜は、風の音ではないとはっきり分かった。
低く、かすれた、人の声。
言葉にならない、ひどく苦しげなうめき声。
それが、上の階から、途切れ途切れに降ってくる。
(……誰かが、苦しんでいる)
最上階には近づくな、とトマスさんは言った。
呪われた方が封じられている、と。
けれど、その声はあまりにも弱々しくて、あまりにも孤独に聞こえた。
まるで、十年間ずっと、誰にも届かない声を上げ続けてきたような。
私は寝台の脇の燭台を手に取った。
小さな火が、震える手の中で揺れる。
扉を開けると、暗い螺旋階段が、上へ上へと続いていた。




