第23話 王弟妃の誓い
婚礼の日取りは、ひと月後に決まった。
王弟殿下と聖女の婚礼。それも、十年の封印から戻った王弟と、その呪いを解いた聖女の。
王都中が、その話題で持ちきりになった。
「フィリア様、もう少しだけ、じっとしていてくださいませ」
「は、はい……」
王宮の衣装部屋で、私は朝から何時間も立ち続けていた。
仕立て屋たちが私の周りを忙しく行き交い、布を当て、針を打ち、寸法を測っていく。その真ん中で、ヘルガ夫人が厳しい目つきで指示を飛ばしていた。
「裾はもう少し長く。袖口のレースは、もっと繊細なものに替えてちょうだい」
「ヘルガ夫人、私、そんなに豪華なものでなくても……」
「いいえ」
ヘルガ夫人は、きっぱりと首を振った。
「フィリア様は、これまで何ひとつ、ご自分のために望まなかった。せめてこの日くらいは、誰よりも美しくあっていただかなければ」
その声が、少しだけ震えていた。
私は、それ以上何も言えなくなった。
婚礼の準備が進むにつれて、ひとつだけ、胸の奥に引っかかっていることがあった。
花嫁の手を引いて祭壇まで歩くのは、本来なら父親の役目だ。
けれど、私にはもう、その役目を頼める人がいない。
アルセン家の籍から外された私は、今は「聖女フィリア」という名前しか持っていなかった。
「……私には、家族がいませんから」
ある夜、ぽつりとそう漏らすと、アシェル様は少しの間、黙って私を見ていた。
それから、私の手を握ったまま、穏やかに言った。
「それなら、家族を作ればいい」
「え?」
「これから、私と。それから……君を大切に思っている人たちと」
その言葉の意味が分かったのは、婚礼の三日前のことだった。
「フィリア様。わしで、よろしいのでしょうか」
王宮の応接間に通されたトマスさんは、着慣れない礼服に身を包み、落ち着かない様子で何度も襟を引っ張っていた。
「アシェル殿下から、婚礼の日にフィリア様の手を引く役を、と……わしのような、ただの番兵が」
「トマスさん……」
視界が、にじんだ。
塔の中で、ずっと私を気にかけてくれた人。こっそりスープを運んでくれた人。水色のドレスを用意して、塔の前でいつまでも手を振っていてくれた人。
「ただの番兵なんかじゃありません」
私は、トマスさんの皺だらけの手を両手で包んだ。
「トマスさんがいてくださらなかったら、私も、アシェル様も、きっとここにはいませんでした。……お願いします。私の手を、引いてください」
トマスさんは、くしゃりと顔を崩して、何度も頷いた。
そして、その日の夕方。
ヘルガ夫人が、小さな箱を持って私の部屋を訪れた。
「婚礼の日に、花嫁は何か古いものを身につけるという慣わしがございます」
箱の中には、銀の髪飾りが入っていた。
息が、止まった。
小さな花をかたどった、古い銀細工。
祖母から贈られて、リディアに奪われた、あの髪飾りだった。
「アルセン家の財産を整理する際に、出てまいりました。リディア様のお部屋の、宝石箱の奥に」
ヘルガ夫人が、そっと髪飾りを私の手のひらに載せた。
「本来の持ち主のもとへ、お返しいたします」
ひんやりとした銀の感触。
幼いころ、毎朝この髪飾りをつけて、鏡の前でくるりと回ったことを思い出した。
奪われたものは、二度と戻ってこないと思っていた。
「……ありがとうございます、ヘルガ夫人」
髪飾りを胸に抱きしめて、私は泣いた。
ヘルガ夫人は、何も言わずに、そっと私の背中を撫でてくれた。
まるで、本当の母親のように。
婚礼の朝は、雲ひとつない晴天だった。
大神殿の扉の前で、トマスさんが、ぎこちなく私に腕を差し出した。
「……参りましょうか、フィリア様」
「はい」
純白の花嫁衣装。長く引いた裾には、繊細な銀糸の刺繍。亜麻色の髪には、祖母の銀の髪飾り。
扉が、ゆっくりと開かれた。
大神殿の中は、人で埋めつくされていた。
最前列には、陛下。その隣に、すっかり顔色の良くなった王妃様。ヘルガ夫人と、ガレス様の姿も見えた。
その後ろには、神官たち。貴族たち。そして、大神殿に入りきれなかった王都の人々が、開け放たれた扉の外まで、ぎっしりと詰めかけていた。
ふた月前、聖女認定の儀で、私は壁際の隅に立っていた。
誰にも見られず、誰にも気づかれずに。
今、何千もの目が、私を見ていた。
トマスさんの腕につかまって、ゆっくりと祭壇へ向かって歩いていく。
一歩。また一歩。
祭壇の前に、アシェル様が立っていた。
白い礼装に、銀の髪。夜明け前の空のような、深い青の瞳。
十年の封印でこけていた頬は、すっかり血色を取り戻している。けれど、私を見つめるその眼差しは、塔の上で初めて目が合ったときと、少しも変わらなかった。
ずっと探していたものを、やっと見つけたみたいな目。
祭壇の前で、トマスさんが足を止めた。
私の手を、アシェル様の手へと、そっと渡す。
「……殿下。フィリア様を、どうか」
「ああ。約束する」
アシェル様の手が、私の手を包み込んだ。
塔の上で、何度も握った手。
あのときは冷たくて、骨ばっていて、茨の跡が残っていた。
今は、温かかった。
大神官様の前で、私たちは向かい合った。
「アシェル・レーヴェンハルト。汝は、フィリアを妻とし、生涯を共にすることを誓うか」
「誓う」
アシェル様は、迷いなくそう答えた。
それから、大神官様が次の言葉を口にする前に、静かに続けた。
「十年、私は暗い塔の中にいた。その間、毎晩届く祈りだけが、私を生かしてくれた。その祈りの主に出会えたことを、私は生涯の誇りとする」
大神殿が、しんと静まり返った。
「この手を、二度と離さない。君がどこにいようと、何があろうと。それが、私の誓いだ」
握られた手に、力がこもる。
目の奥が熱くなるのを、必死にこらえた。
「フィリア。汝は、アシェルを夫とし、生涯を共にすることを誓うか」
大神官様の声に、私は顔を上げた。
アシェル様の瞳が、まっすぐに私を見つめていた。
「……誓います」
声が、震えた。
それでも、最後まで言い切りたかった。
「十年、誰にも届かないと思って祈っていました。でも、ちゃんと届いていた。受け取ってくれた人がいた。それが、あなたでよかった」
アシェル様の瞳が、大きく揺れた。
「これからは、あなたのために祈ります。あなたの隣で、ずっと」
大神官様が、穏やかに微笑んだ。
「ここに、二人の誓いは結ばれた」
その瞬間、祭壇の奥の聖印が、ひとりでに淡い金色の光を放った。
光は大神殿いっぱいに広がり、ステンドグラスを透かして、外で待つ人々の上にまで降り注いでいく。
誰かが、歓声を上げた。
それは瞬く間に広がり、大神殿を、王都中を、震わせるほどの祝福の声になった。
光の中で、アシェル様が、そっと私の頬に手を添えた。
ゆっくりと、顔が近づいてくる。
私は、目を閉じた。
唇に触れた温もりは、塔の上で初めて触れた手よりも、ずっとずっと温かかった。




