第24話 これからも、あなたの隣で
最終話になります。
婚礼から、半年が過ぎた。
王都の南に建つ、白い石造りの屋敷。それが、王弟夫妻となった私たちの住まいだった。
庭には季節の花が咲き、小さな礼拝堂がひとつある。アシェル様が、私のためにと、屋敷を構える前に真っ先に建ててくれたものだ。
毎晩、私はそこで祈っている。
王都の聖印へ。この国の人々へ。
そして、隣にいる人へ。
「奥様、おはようございます」
朝の食堂に入ると、トマスさんが穏やかに頭を下げた。
婚礼のあと、トマスさんはこの屋敷の家令になった。塔の番兵だったころと同じように、朝早くから庭を見回り、使用人たちに目を配り、夜は戸締りを確かめて回っている。
「おはようございます、トマスさん。今朝のスープも、いい香りですね」
「ええ。奥様のお好きな、森の木の実を入れましてな」
食卓につくと、向かいの席からではなく、すぐ隣から手が伸びてきた。
「おはよう、フィリア」
アシェル様が、当然のように私の手を取る。
食事の間も、この手は離れない。片手でスープを飲むのにも、すっかり慣れてしまった。
「……アシェル様。そろそろ、手を離してくださっても」
「念のためだ」
「呪いは、もう半年も前に解けました」
「念のためだ」
まったく同じ調子で繰り返されて、私は思わず笑ってしまった。
給仕をしていた侍女たちが、くすくすと笑みをこぼす。トマスさんは、慣れた様子で知らん顔をしていた。
この屋敷では、毎朝のことなのだ。
その日の午後、ヘルガ夫人が訪ねてきた。
王宮での務めを退いてからも、ヘルガ夫人はこうして月に何度か、私の様子を見に来てくださる。
庭のあずまやでお茶を飲みながら、ヘルガ夫人は、王都のことをあれこれと話してくれた。
泉の水は、すっかり澄んだこと。北の街道を、また商人たちが行き交うようになったこと。陛下のご病状は回復し、今では毎日のように政務に励まれていること。
それから、少しだけ声を落として。
「北の修道院から、便りがございました」
私は、カップを持つ手を止めた。
「リディア様は、毎朝夜明け前から礼拝堂の床を磨き、日に三度、祈りを捧げておられるそうです。……一度も、光は灯らないと」
「……そうですか」
「アルセン家は、領地の半分を失って、今は細々と暮らしておられるとか。奥様は社交界から遠ざかり、屋敷に閉じこもっておられると聞きました」
ヘルガ夫人は、それ以上は何も言わなかった。
「クラウス殿下は、辺境の砦で、ガレス殿のもとで鍛えられておられます。最初は泣き言ばかりだったそうですが、近ごろは、魔物に襲われた村の復興に、自ら汗を流しておられるとか」
「それは……よかったです」
心から、そう思った。
いつか、本当の意味で、民のための王になってくださればいい。
「それから、嘆きの塔のことですが」
ヘルガ夫人は、ちらりと庭の向こうへ視線を向けた。
「ベルナールは、今もあの塔の最上階に。訪れる者は誰もおりません。ただ、食事を運ぶ新しい番兵の話では……毎晩、窓の外を見つめて、何かをつぶやいているそうです」
十年。
アシェル様が、ひとりきりで過ごした場所。
今は、アシェル様をそこへ閉じ込めた人が、同じ窓から、同じ夜空を見上げている。
私は、そっと目を伏せた。
(……どうか、いつか、自分のしたことに気づけますように)
それが、私にできる、ただひとつの祈りだった。
夕暮れどき、私は屋敷の礼拝堂にいた。
小さな聖印に両手を重ねると、いつものように、指先から淡い光がこぼれ出す。
光は紋様の溝を満たし、やがて礼拝堂いっぱいに、柔らかな金色を広げていった。
八歳の冬から、ずっと続けてきたこと。
あのころは、誰にも見られないように、夜中にひとりで祈っていた。
今は、違う。
「やはり、ここにいたか」
扉が開いて、アシェル様が入ってきた。
当然のように私の隣に並び、聖印に重ねた私の手の上に、自分の手を重ねる。
二人分の手のひらの下で、聖印の光が、ひときわ強く輝いた。
「……アシェル様が触れると、光が強くなるのですね」
「塔の上でも、そうだっただろう。君が私に触れながら祈ると、茨がよくほどけた」
「祈りの強さは、心の在り方に左右される、でしたっけ」
「ああ」
アシェル様が、横から私の顔をのぞき込んだ。
「つまり、君の心は、私の隣にいるときがいちばん……」
「そ、それ以上は言わなくていいです!」
真っ赤になって遮ると、アシェル様は楽しそうに笑った。
十年間、笑うことを忘れていた人の笑顔。
今では、毎日のように見られるようになった。
それが、何よりも嬉しかった。
祈りを終えて、二人で礼拝堂を出た。
庭には、夕暮れの光が満ちていた。西の空が、茜色から紫へと、ゆっくり色を変えていく。
遠く、北の空の果てに、黒い森がかすかに見えた。
あの森の奥に、嘆きの塔がある。
「……あの塔で過ごした日々を、時々思い出します」
ぽつりとつぶやくと、アシェル様が足を止めた。
「つらかったか」
「いいえ」
私は、首を振った。
「寒くて、ひもじくて、怖いこともたくさんありました。でも……あの塔で、アシェル様に出会えましたから」
握った手に、そっと力を込める。
「誰にも届かないと思っていた祈りが、ちゃんと届いていた。それを教えてくれたのは、アシェル様です」
アシェル様は、しばらく黙って私を見下ろしていた。
それから、私の手を持ち上げて、その甲に、静かに唇を寄せた。
「礼を言うのは、私のほうだ」
低く、穏やかな声だった。
「十年、君の祈りが私を生かした。そしてこれからは、君の隣で生きていく。それ以上に望むものは、何もない」
夕暮れの風が、庭の花を揺らしていった。
アシェル様の指が、私の指の間に、ゆっくりと絡んでくる。
塔の上で、初めてつかまえられたときと同じように。
けれど、あのときとは違う。
もう、呪いはない。
離れなければならない理由も、離れられない理由も、どこにもない。
それでも、この手は、きっとこれからもずっと離れないのだろう。
「……アシェル様」
「なんだ」
「念のため、ですか?」
からかうように尋ねると、アシェル様は、ふっと目を細めた。
「いや」
繋いだ手に、そっと力がこもる。
「私が、そうしたいからだ」
茜色の空の下で、私は笑った。
これからも、あなたの隣で。
ずっと、ずっと。
(完)
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
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