第22話 もう理由はいらない(アシェル視点)
許可できない、と言ってしまってから、自分の声の冷たさに気がついた。
フィリアが、驚いたように目を見開いている。
琥珀色の瞳に、戸惑いと、かすかな怯えが浮かんでいた。
(……違う。そんな顔をさせたいわけじゃない)
私は、伸ばしかけた手を、ぎゅっと握りしめた。
「すまない。言い方を間違えた」
「いえ……あの、アシェル様?」
「少し、待ってくれ」
フィリアに背を向けて、窓の外を見た。
王都の夜景が広がっている。ふた月前は暗く沈んでいた街に、今は無数の灯りがともっていた。
彼女が、取り戻した灯りだ。
本当は、分かっていた。
呪いの核が崩れ落ちた瞬間から、ずっと。
彼女を引き止める理由は、もうどこにもないのだと。
触れていないと、茨が戻る。だから、離れられない。
十年間、私を縛りつけてきた呪いが、皮肉にも、彼女をそばに置いておくための、たったひとつの口実になっていた。
それが、消えた。
念のため、などと言ったのは、ただの言い訳だった。
彼女が私の手を握るたびに、それがいつか終わることが、怖くてたまらなかった。
(……情けないな)
十年、塔の上で耐えてきた。茨に縛られ、声を奪われ、誰にも顧みられない日々を。
それよりも、たった数歩、彼女と離れることのほうが、ずっと恐ろしい。
この呪いが完全に解けるころには、私はきっと、彼女なしでは生きられなくなっている。
いつか、そう思った。
その通りになった。
「フィリア」
振り返ると、彼女は窓辺に立ったまま、不安そうに私を見ていた。
「少し、外へ出ないか。行きたい場所がある」
「今から、ですか?」
「ああ」
手を差し出すと、フィリアは少しだけためらってから、そっと私の手に自分の手を重ねた。
それだけで、胸の奥が軋んだ。
ガレスに馬を用意させ、二人で王宮を出た。
夜の王都を抜け、貴族街の外れへ向かう。アルセン伯爵家の屋敷の近く、小さな丘の上に、古い礼拝堂が建っていた。
「ここは……」
馬から降りたフィリアが、息を呑んだ。
「君が、十年間祈り続けた場所だ」
扉を押し開けると、蠟燭の匂いと、冷たい石の空気が流れ出してきた。
祭壇の奥で、聖印が、柔らかな金色の光を放っていた。
あの日、広場で彼女が祈ってから、王都中の聖印は光を取り戻している。
フィリアは、ゆっくりと祭壇へ歩いていった。
聖印の前に立ち、そっと紋様に指を這わせる。
「……懐かしいです。毎晩、ここで」
「知っている」
フィリアが、振り返った。
「封じられて二年目の冬から、毎晩、ここから届く祈りを受け取っていた。凍えた胸に、小さな灯りがともるみたいだった」
私は、彼女の隣に立った。
聖印の光が、二人の影を壁に映し出す。
「だから、一度ここへ来てみたかった。君がどんな場所で、どんな顔をして祈っていたのか」
フィリアは、何も言わずに私を見上げていた。
「フィリア。さっきは、すまなかった」
私は、聖印の前で、彼女に向き直った。
「呪いが解けて、君が私から離れても、茨はもう戻ってこない。君の言う通りだ。念のため、などと言ったのは……ただの口実だった」
フィリアの瞳が、小さく揺れた。
「十年、私を縛った呪いが、君をそばに置いておくための、唯一の理由だった。それが消えてしまったら、君はどこかへ行ってしまう。そう思うと……怖かった」
「アシェル様……」
「君が大神殿へ移ると言ったとき、頭が真っ白になった。許可できない、などと、偉そうなことを言った」
自嘲するように、小さく笑った。
それから、彼女の手を取った。
両手で包み込むように。塔の上で、彼女が初めて私の手を握ってくれたときのように。
「だから、もう口実は使わない」
フィリアが、息を呑む気配がした。
「呪いのためではなく。念のためでもなく。私自身が、君のそばにいたい」
私は、彼女の前に膝をついた。
冷たい石の床の上で、彼女を見上げる。
塔の椅子に縫いとめられていたころ、いつもこうして、彼女を見上げていた。
あのころは、こうする以外に何もできなかった。
今は、違う。
自分の意志で、ここにいる。
「フィリア・アルセン。私の妻になってほしい」
聖印の光が、静かに揺らめいていた。
「君がいなければ、私はあの塔で朽ちていた。君の祈りがなければ、十年も正気を保っていられなかった。私の命も、この国も、君がつないでくれたものだ」
握った手に、力を込める。
「君が大神殿で祈りたいのなら、私もそこへ通う。君がどこへ行こうと、私はついていく。もう二度と、君をひとりにはしない」
言葉が、止まらなかった。
十年分、言えなかったことが、ようやく形になっていく。
「だから……どうか、離れないでほしい」
塔の上で、最初に口にした言葉。
あのときは、呪いに縛られた身体で、すがるように言った。
今は、ただ、ひとりの男として、彼女に願っていた。
フィリアは、長い間、黙っていた。
その瞳から、ひと粒、涙がこぼれ落ちた。
ひと粒。またひと粒。
「……私、ずっと」
震える声だった。
「呪いが解けたら、もう、アシェル様のおそばにはいられないのだと思っていました。私は、呪いを解くために必要だっただけで……」
「違う」
「はい。……今、分かりました」
フィリアが、膝をついた私の前に、自分も膝をついた。
同じ高さで、琥珀色の瞳が私を見つめる。
「私も、アシェル様のおそばにいたいです」
涙に濡れた顔で、彼女は笑った。
塔の上で、初めて私に笑ってくれたときと同じ、少しはにかんだ、柔らかな笑顔で。
「呪いのためじゃなくて。私が、そうしたいから」
その瞬間、私は彼女を腕の中へ引き寄せていた。
細い身体が、私の胸に収まる。亜麻色の髪から、かすかに花の香りがした。
「……フィリア」
「はい」
「もう、離さない」
「……はい」
彼女の腕が、そっと私の背中に回された。
呪いの核があった場所に、温かい手のひらが触れる。
もう、茨はどこにもない。
それでも、彼女に触れられた場所から、何かがほどけていくような気がした。
十年分の孤独が。
凍えていた、心の奥の何かが。
聖印の光の中で、私たちは長い間、抱き合っていた。
離れる理由は、もうない。
離れない理由なら、いくらでもあった。




