第21話 解けた呪いと、解けない手
アシェル様の背中で、黒い紋様が崩れていく。
ぴしり、ぴしりと、乾いた音を立てながら。
「アシェル様……!」
「……大丈夫だ」
アシェル様は、私を抱きとめたまま、静かに目を閉じていた。
「痛くはない。むしろ……温かい」
私は、アシェル様の背中に、そっと両手を回した。
十年分の呪いが集まった核。どんなに祈っても、どんなに触れても、ほんの少しずつしか薄れなかったもの。
それが今、私の手のひらの下で、氷が溶けるように崩れていく。
指先から、金色の光があふれ出した。
祈ろうとしたわけではなかった。ただ、アシェル様の心臓の音を聞きながら、この人が無事でよかったと、心の底から思っただけだった。
光は、アシェル様の身体全体を包み込み、玉座の間を淡く照らした。
やがて、最後のひとかけらが、灰になって床に落ちた。
光が、ゆっくりと消えていく。
アシェル様の背中に、もう黒い紋様はどこにもなかった。
「……解けた」
かすれた声が、頭の上から降ってきた。
「十年の呪いが……すべて」
玉座の上で、陛下が目頭を押さえていた。
私は、アシェル様の胸に額を預けたまま、深く息をついた。
(よかった……本当に、よかった)
張りつめていた糸が、ぷつりと切れる。
そのまま、私の意識は、温かい闇の中へ沈んでいった。
目を覚ますと、見知らぬ天井があった。
柔らかな寝台。上質な絹の寝具。窓から差し込む朝の光。
王宮の客室だと、少し遅れて気がついた。
そして、もうひとつ。
私の右手が、誰かに握られていた。
視線を向けると、寝台の脇の椅子に、アシェル様が座っていた。
私の手を両手で包み込んだまま、背もたれに頭を預けて、静かに眠っている。
銀の髪が、朝日を受けて淡く光っていた。
(……ずっと、ここにいてくださったの?)
呪いは、もう解けたのに。
私の手を握っている理由は、もうないのに。
そっと指を動かすと、アシェル様の瞼が、ゆっくりと持ち上がった。
「……フィリア」
「おはようございます、アシェル様」
「ああ……おはよう」
寝起きのかすれた声で、アシェル様は微笑んだ。
それから、握った手に、少しだけ力を込めた。
「丸一日、眠っていたんだ。心配した」
「丸一日……!? 申し訳ありません、私……」
慰てて身を起こそうとすると、アシェル様がそっと肩を押さえた。
「いい。まだ休んでいろ」
「でも、アシェル様こそ、ずっとここに?」
「ああ」
「呪いはもう解けたのですから、私から離れても……」
言いかけた言葉は、アシェル様の視線に遮られた。
「念のためだ」
「念のため、ですか?」
「十年分の呪いだ。また戻ってこないとも限らない」
アシェル様は、真面目な顔でそう言った。
私は、少しだけ首を傾げた。
あの光の中で、最後のひとかけらまで崩れ落ちていったのを、確かに見たのに。
けれど、アシェル様がそう言うのなら、そうなのかもしれない。
「……分かりました。念のため、ですね」
そう答えると、アシェル様は、ほっとしたように目を細めた。
それからの数日、アシェル様は、本当に私のそばを離れなかった。
朝、目を覚ますと、寝台の脇にアシェル様がいる。食事のときも、王宮の庭を散歩するときも、私の手はいつもアシェル様の手の中にあった。
大神殿で、大神官様から正式に聖女と認められたときも。
「フィリア・アルセン。そなたを、百年ぶりの聖女として、ここに認める」
大神官様が、震える手で私の額に聖油を塗った。
その間も、アシェル様は私の隣に立ち、片手をしっかりと握っていた。
参列していた神官たちが、ちらちらと私たちの手元を見ていた。
(……恥ずかしい)
頬が熱くなる。けれどアシェル様は、まったく気にした様子もなかった。
儀式のあと、大神殿の前の広場に出ると、大勢の人々が待っていた。
「聖女様だ!」
「フィリア様、ありがとうございます!」
泉の水が澄んだこと。魔物が姿を消したこと。病が癒えたこと。
人々は口々に礼を言い、花を投げ、涙を流していた。
ふた月前、私を罪人と呼んだのと、同じ王都の人々だった。
それでも、不思議と恨む気持ちは湧いてこなかった。
ただ、この人たちの暮らしが元に戻ってよかったと、それだけを思った。
「……君は、本当に」
隣で、アシェル様が小さくつぶやいた。
「どこまでも、そうなんだな」
「何がですか?」
「何でもない」
アシェル様は、握った手の指を、私の指の間に絡めた。
その夜、私は客室の窓辺で、ひとり考えていた。
正確には、ひとりではなかった。アシェル様は少し離れた長椅子で、ガレス様から届いた書類に目を通している。
それでも、手は繋いでいない。
ほんの数歩の距離。
呪いが解けてから、初めてのことだった。
アシェル様の背中を見ても、黒い茨は少しも這い戻ってこなかった。
(……やっぱり、もう大丈夫なんだわ)
本当は、分かっていた。
念のため、なんて、きっと私を気遣ってくださっただけなのだ。
アシェル様が私のそばにいたのは、呪いを解くためだった。私が離れれば、茨が戻ってしまうから。
その理由は、もうどこにもない。
アシェル様は王弟殿下で、これから陛下を支えて、この国を立て直していく方だ。
私がいつまでも隣にいたら、きっと、ご迷惑になる。
「アシェル様」
窓辺から声をかけると、アシェル様が顔を上げた。
「どうした」
「大神官様から、大神殿に住まいを用意していただけると、お話をいただきました。聖女として、王都の聖印を守っていく務めがありますので」
アシェル様の手から、書類が一枚、床に落ちた。
「明日にでも、そちらへ移ろうと思います。アシェル様には、本当にたくさんお世話になりました」
深く、頭を下げた。
顔を上げると、アシェル様が、立ち上がっていた。
いつの間にか、すぐ目の前まで来ていた。
青い瞳が、私を見下ろしていた。
見たことのない色だった。冷たくて、静かで、それでいて、ひどく揺れている。
「……それは」
低い声が、落ちてきた。
「許可できない」




