第20話 偽りの終わり
宰相閣下が連れ出されたあと、玉座の間には重い沈黙が落ちていた。
広間の中央には、まだ四人の人間が残っていた。
リディア。クラウス殿下。そして、お父様とお母様。
四人とも、顔を上げようとしなかった。
「リディア・アルセン」
陛下の声が、静かに響いた。
リディアの肩が、びくりと跳ねた。
「そなたは、姉の祈りを自らのものと偽り、聖女を名乗った。さらに、侍女を使って姉の持ち物に呪具を忍ばせ、罪を着せた。相違ないか」
「ち、違います、陛下……! わたくしは、何も……!」
リディアが、涙で潤んだ瞳を上げた。
いつものように。誰もが思わず手を差し伸べてしまう、あの愛らしい泣き顔で。
けれど、今の玉座の間には、それに心を動かされる者はひとりもいなかった。
「ベティという侍女が、すべて話した」
ガレス様が、淡々と告げた。
「呪具の香油を用意したのが誰か。数珠の石をどう使っていたのか。塔へ石を探しに行かせたのが誰か」
リディアの顔が、真っ青になった。
それから、その瞳が、ゆっくりと私をとらえた。
「……お姉様」
リディアが、膝をついたまま、私のほうへにじり寄ってくる。
「お姉様、助けて。わたくし、怖かったの。お姉様ばかり褒められて、わたくし、ずっと寂しくて……」
細い指が、私のドレスの裾をつかもうと伸びてくる。
その指先が届く前に、アシェル様が、私の身体を自分の背中へと引き寄せた。
「触れるな」
低い声だった。
リディアの手が、宙で止まった。
「……アシェル様」
私は、アシェル様の腕に、そっと手を添えた。
「大丈夫です。少しだけ、話をさせてください」
アシェル様は、少しの間、私を見下ろしていた。
それから、しぶしぶといったように、私を半歩だけ前へ出してくれた。
もちろん、手は繋いだままで。
私は、床に膝をついたままの妹を見下ろした。
蜂蜜色の髪は乱れ、純白の儀式服は雨と泥に汚れている。空色の瞳は、すがるように私を見上げていた。
小さいころから、何度も見てきた顔だった。
この顔で「お姉様、それ素敵ね」と言われるたびに、私は大切なものをひとつずつ手放してきた。
「リディア」
自分の声が、思っていたよりもずっと静かだった。
「髪飾りも、刺繍も、お友達も、婚約者も。あなたは全部、私から持っていったわね」
「お姉様……」
「でも、祈りだけは、あなたのものにはならなかった」
リディアの瞳が、揺れた。
「祈りは、奪えるものじゃないの。毎晩、誰かのことを想って、両手を組んで……それを続けた人にしか、届かないものなのよ」
リディアは、何か言いかけて、唇を震わせた。
「もう、あなたに奪われるものは、何もないわ」
私は、それだけ言って、一歩下がった。
アシェル様の手が、私の手を強く握りしめていた。
「リディア・アルセン」
陛下が、再び口を開いた。
「聖女を騙り、王家と民を欺いた罪により、北の果ての修道院へ送る。生涯、そこで祈りを捧げて過ごすがよい」
リディアの顔が、くしゃりと歪んだ。
「い、いやよ……! そんなところ、いや……!」
衛兵が、両脇からリディアの腕をつかむ。
リディアは身をよじり、髪を振り乱して、私に向かって叫んだ。
「お姉様のくせに……! 地味で、陰気で、何の取り柄もないお姉様のくせに……!」
その声は、扉が閉まるまで、ずっと廊下に響いていた。
私は、最後まで目を逸らさなかった。
不思議と、もう胸は痛まなかった。
「アルセン伯爵。伯爵夫人」
陛下の声に、お父様とお母様が、びくりと身を震わせた。
「そなたたちは、娘の言い分も聞かず、無実の娘を見捨てた。それどころか、塔ごと焼かれると聞いてもなお、何ひとつ声を上げなかった」
「へ、陛下……私どもは、聖女となったリディアを信じておりましただけで……!」
お父様の声が、震えていた。
家の体面を何より重んじてきた人が、玉座の前で、額を床にこすりつけている。
「アルセン伯爵家は、爵位を一等降格とし、領地の半分を没収する。王宮への出入りも、当面禁ずる」
お母様が、短い悲鳴を上げた。
社交界の華と呼ばれ、茶会の席では常に話題の中心にいた母にとって、それは何よりも重い罰だったのだろう。
「フィリア……!」
お父様が、顔を上げて私を見た。
「フィリア、お前からも、陛下にお願いしてくれ。私たちは、家族だろう……?」
家族。
その言葉を、こんな形で聞くことになるとは思わなかった。
「……お父様」
私は、静かに首を振った。
「地下牢で、私を籍から外すとおっしゃったのは、お父様です」
お父様の顔が、凍りついた。
お母様は、唇を噛んで、うつむいたままだった。
最後まで、私の目を見ようとはしなかった。
二人が衛兵に促されて広間を出ていくのを、私はただ黙って見送った。
最後に残ったのは、クラウス殿下だった。
殿下は、ずっと青ざめた顔で、床の一点を見つめていた。
「クラウス」
陛下の声に、殿下が顔を上げた。
「宰相の言葉を鵜呑みにし、六年も婚約していた娘の無実を疑いもしなかった。そればかりか、叔父が封じられた塔を焼くと聞いて、止めることさえできなかった」
「……申し訳、ございません」
「王太子の位を、しばし預かる。辺境の砦で、ガレスのもとで一から学び直せ。民の暮らしを、その目で見てくるがよい」
殿下は、深く頭を垂れた。
それから、ゆっくりと顔を上げて、私を見た。
六年間、一度もまっすぐ私を見なかった瞳が、今は、ひどく後悔に揺れていた。
「フィリア……私は、君の何も見ていなかった」
「……はい」
「もし、許されるなら。もう一度、最初から……」
「クラウス」
私が答えるより先に、アシェル様の声が、殿下の言葉を遮った。
穏やかな声だった。
けれど、その奥に、凍えるほど冷たいものが沈んでいるのが分かった。
「お前は六年間、彼女の隣にいた。それでも、何ひとつ見ようとしなかった」
アシェル様が、私の肩を抱き寄せた。
「今さら、手を伸ばせると思うな」
クラウス殿下は、唇を噛んで、それ以上何も言わなかった。
衛兵に伴われて広間を出ていく背中は、記憶の中よりも、ずっと小さく見えた。
すべてが終わったとき、窓の外はもう夕暮れに染まっていた。
広間には、陛下と、アシェル様と、私だけが残っていた。
張りつめていたものが、ふっとほどけた。
その途端、足から力が抜けた。
「フィリア!」
崩れ落ちそうになった身体を、アシェル様の腕が抱きとめた。
「……すみません。少し、気が抜けてしまって」
聖印への祈り。陛下の癒やし。そして、この一日。
思っていたよりも、ずっと疲れていたらしい。
アシェル様の胸に頬を預けると、とくん、とくんと、心臓の音が聞こえた。
その音に混じって、もうひとつ、別の音がした。
ぴしり、と。
何かに、ひびが入るような音。
顔を上げると、アシェル様が、驚いたように自分の胸元を見下ろしていた。
背中に残っていた、呪いの核。
その黒い紋様が、私の触れているところから、ゆっくりと崩れ始めていた。




