第19話 玉座の間で(アシェル視点)
広場が、凍りついていた。
何万もの人々が、息をすることさえ忘れたように、私を見上げている。
祭壇の上で、ベルナールの顔から、血の気が引いていくのが見えた。
十年ぶりに見る顔だった。灰色の髭が増え、目尻の皺が深くなった。それでも、あの穏やかな仮面だけは、少しも変わっていなかった。
その仮面が、今、ひび割れようとしている。
「……アシェル、殿下」
ベルナールの唇が、かすかに動いた。
けれど、すぐに表情を取り繕う。さすがだと思った。
「皆の者、惑わされてはならぬ! 王弟殿下は今も嘆きの塔に封じられておられる。この者は、呪いが生んだ偽りの姿に違いない!」
群衆が、どよめいた。
ベルナールが、祭壇の脇に控える衛兵たちに目配せをする。
「捕らえよ! 隣の女ともども——」
「控えよ、ベルナール」
低く、しかし広場の隅々まで届く声が、その言葉を断ち切った。
大神殿の扉が、ゆっくりと開いていた。
近衛騎士たちに守られ、ヘルガに支えられて、ひとりの男が姿を現した。
白いものの混じった銀の髪。痩せてはいるが、まっすぐに伸びた背筋。
兄上だった。
「へ、陛下……!?」
ベルナールの声が、裏返った。
ここ数か月、寝台から起き上がることもできなかったはずの国王が、自らの足で、大神殿の階段の上に立っている。
群衆が、波のように膝をついていった。
「そこにいるのは、我が弟アシェルだ。王の名において、それを証す」
兄上の声は、まだ少しかすれていた。
それでも、十年前と同じ、王の声だった。
「フィリア」
私は、隣に立つ彼女を見下ろした。
フードの陰で、琥珀色の瞳が、まっすぐに祭壇を見上げていた。
震えてはいなかった。
ふた月前、あの塔の最上階に、燭台を手に震えながら現れた娘は、もうどこにもいなかった。
「行けるか」
「はい」
彼女は、自らフードを外した。
亜麻色の髪が、雨に濡れて頬に張りつく。トマスが用意してくれた水色のドレスが、灰色の空の下で、ひどく鮮やかに見えた。
群衆の中から、囁きが漏れた。
「あれは……アルセン家の姉のほうじゃないか」
「塔に送られた、罪人の……」
祭壇の上で、リディアが悲鳴のような声を上げた。
「お、お姉様……!? どうして、ここに……!」
フィリアは、妹を見なかった。
私の手を握ったまま、祭壇の階段を上っていく。
一段ずつ、ゆっくりと。
私も、その隣を歩いた。決して手を離さないように。
衛兵たちは、誰ひとり動かなかった。国王の前で、王弟の行く手を阻める者などいない。
祭壇の上に立つと、雨に濡れた聖印が、冷たい灰色のまま横たわっていた。
フィリアは、その前に膝をついた。
片手で私の手を握ったまま、もう片方の手を、聖印にそっと重ねる。
目を閉じた。
その瞬間。
聖印の紋様の溝に、金色の光が走った。
光は瞬く間に紋様全体を満たし、石板からあふれ出し、祭壇を包み込み——
一筋の光の柱となって、灰色の空を貫いた。
雲が、割れた。
光の柱を中心に、重く垂れ込めていた雲が、円を描くように押し広げられていく。
その向こうから、まばゆい陽の光が降り注いだ。
雨が、止んだ。
王都の空いっぱいに、薄い金色の膜が広がっていく。綻び、揺らいでいた結界が、目に見えるほどの輝きを取り戻していく。
広場の隅で、止まっていた噴水が、音を立てて水を噴き上げた。
濁っていた水盤の水が、見る見るうちに澄んでいく。
誰かが、震える声でつぶやいた。
「……聖女様だ」
その声は、すぐに広場中に広がっていった。
「本物の、聖女様だ……!」
何万もの人々が、祭壇の上のフィリアに向かって、膝をつき、頭を垂れていく。
フィリアは、聖印から手を離し、呆然とその光景を見下ろしていた。
それから、困ったように私を見上げた。
「……アシェル様。どうしましょう」
「どうもしなくていい」
私は、彼女の手を握り直した。
「ようやく、皆が気づいただけだ」
祭壇の端で、リディアが崩れ落ちるように座り込んでいた。
その手のひらには、灰色の砂が、わずかにこびりついていた。
兄上の命により、関係する者たちは、すべて王宮の玉座の間へ集められた。
十年ぶりに足を踏み入れる玉座の間は、記憶の中よりも少しだけ狭く感じた。
玉座には兄上が座り、その脇に私とフィリアが立った。
フィリアの手は、変わらず私の手の中にある。背中に残る呪いの核が、彼女の温もりに触れて、静かに脈打っていた。
広間の中央に、ベルナールが引き据えられていた。
ガレスが、十年分の証拠を兄上の前に並べていく。
大神官の解呪の研究を打ち切らせた記録。私に味方した者たちを、ひとりずつ辺境へ飛ばした命令書。病床の兄上の名を使い、政を意のままにしてきた痕跡。
そして、聖女認定の儀の日、フィリアに罪を着せるよう、リディアの侍女に指示を与えていたこと。
ベルナールは、最後まで穏やかな顔を崩さなかった。
「すべては、国のためでございます、陛下」
静かな声だった。
「呪いを封じた王弟殿下を解き放てば、災厄が再び王都を襲うかもしれぬ。本物の聖女が殿下の呪いを解いてしまえば、同じことが起こるかもしれぬ。私は、その危険を……」
「フィリアを、塔で死なせるつもりだったのだろう」
私の声に、ベルナールが口をつぐんだ。
「茨は聖なる力を喰らう。お前はそう信じて、彼女をあの塔へ送った。本物の聖女を、誰にも知られず葬り去るために」
握った手の中で、フィリアの指がかすかに震えた。
私は、その手を強く握り返した。
「十年、私を閉じ込めたことは、まだいい。だが、彼女に手を出したことだけは、決して許さない」
ベルナールの仮面が、初めて大きく歪んだ。
兄上が、ゆっくりと口を開いた。
「宰相ベルナール。爵位と財産のすべてを没収する」
広間が、静まり返った。
「そして、そなたを嘆きの塔へ幽閉する。期限は、定めぬ」
ベルナールの目が、大きく見開かれた。
「陛下、それは……!」
「茨は、もう消えている。命を奪われることはあるまい」
私は、ベルナールを見下ろした。
「ただ、誰も訪れぬ塔の上で、誰にも顧みられずに日々を過ごす。それがどういうことか、お前も知るといい」
十年、私が味わったのと、同じものを。
衛兵に両腕をつかまれ、ベルナールは広間から引きずり出されていった。
最後まで、何かを叫んでいた。
けれど、私はもう、その声に耳を傾けなかった。
隣で、フィリアが私を見上げていた。
その瞳に、怯えはなかった。ただ、静かな心配の色が浮かんでいた。
「……大丈夫ですか、アシェル様」
彼女はいつも、自分よりも先に、私のことを案じる。
「ああ」
私は、彼女の手の甲に、そっと唇を寄せた。
「君がいるから、大丈夫だ」




