第18話 何も起きない祈祷
公開祈祷の日は、朝から重い雲が垂れ込めていた。
大神殿の前の広場には、王都中から人々が集まっていた。何千、何万という人の群れが、祭壇を囲むようにひしめき合っている。
誰もが、祈るような目で祭壇を見上げていた。
濁った泉。止まった噴水。街道に出る魔物。
聖女様が祈ってくだされば、すべてが元に戻る。そう信じて、ここへ来たのだ。
私はフードを深くかぶり、群衆の後方に立っていた。
隣には、同じくフードで顔を隠したアシェル様。その周りを、平民の服を着たガレス様と騎士たちが、さりげなく囲んでいる。
「……人が、多いですね」
「ああ。ベルナールは、できるだけ多くの者に見せたいのだろう」
アシェル様の声は、低く落ち着いていた。
けれど、私の手を握る指には、いつもより少しだけ力がこもっていた。
祭壇の上に、人々が姿を現した。
中央に、純白の儀式服を着たリディア。その隣に王太子クラウス殿下。少し離れて、宰相ベルナール閣下と、白髭の大神官様。
祭壇の脇の貴族席には、見覚えのある二人の姿があった。
お父様と、お母様。
二人とも、晴れやかな顔でリディアを見上げていた。
(……私のことなんて、もう覚えていないのでしょうね)
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
けれど、もう泣きたいとは思わなかった。
祭壇の中央には、大きな石板が据えられていた。王都の礼拝堂にあるものと同じ紋様が刻まれた、聖印の写しだ。
ここに聖女が祈りを捧げれば、王都中の聖印が呼応し、結界が張り直される。
そう、大神官様が群衆に向けて説明していた。
「では、聖女リディア様。祈りを」
リディアが、ゆっくりと聖印の前へ進み出た。
遠目にも、その顔が青ざめているのが分かった。
両手を、聖印に重ねる。
広場が、しんと静まり返った。
何万もの人々が、息を詰めて見守っている。
一秒。二秒。
聖印は、冷たい灰色のままだった。
三秒。四秒。五秒。
光は、灯らない。
リディアの肩が、小刻みに震え始めた。
十秒。二十秒。
聖印の上に、ぽつりと雨粒が落ちた。
それだけだった。
群衆の中から、ざわめきが起こった。
最初は小さな囁きだったものが、少しずつ、大きなうねりになっていく。
「……何も、起きないぞ」
「どういうことだ? 聖女様なんだろう?」
「先月も、病人を治せなかったって……」
「まさか、偽物なんじゃ」
その言葉が、波のように広がっていった。
祭壇の上で、リディアが顔を上げた。
空色の瞳が、恐怖に見開かれている。
「ち、違います……! わたくしは、本物です!」
甲高い声が、雨の中に響いた。
「わたくしの祈りを、邪魔している者がいるのです! お姉様が……お姉様が、塔から呪いをかけているのです!」
群衆のざわめきが、一瞬止まった。
それから、また別の囁きが広がっていく。
聖女認定の儀で、聖女を呪おうとした姉。嘆きの塔に送られた罪人。
その噂は、王都の誰もが知っていた。
「静粛に」
低く、よく通る声が響いた。
宰相ベルナール閣下が、祭壇の前へ進み出ていた。
灰色の髭をたくわえた穏やかな顔に、深い憂いを浮かべている。
「聖女様のおっしゃるとおりです。我々は、ある恐ろしい事実を突き止めました」
宰相閣下は、群衆を見渡した。
「嘆きの塔には、十年前、災厄の呪いを封じるため、王弟アシェル殿下が眠っておられます。そしてふた月前、聖女様を害そうとした罪人、フィリア・アルセンを、同じ塔へ幽閉いたしました」
雨脚が、少しずつ強くなっていく。
「罪人は、塔に封じられた呪いと結びつき、その力を王都へ向けているのです。泉の濁りも、魔物の出現も、聖女様の祈りが届かぬのも、すべてはあの塔から始まっている」
群衆が、どよめいた。
隣で、アシェル様の手が、静かに冷えていくのが分かった。
「よって、王の代理たる私の権限において、決断いたしました」
宰相閣下は、北の空を指さした。
「呪いの根源を断つため、すでに兵を北へ向かわせております。本日正午をもって、嘆きの塔を、封じられたものごと焼き払う」
広場が、静まり返った。
貴族席で、お母様が小さく息を呑むのが見えた。お父様は、目を伏せていた。
それでも、二人とも、何も言わなかった。
クラウス殿下が、宰相閣下を振り返った。
「待て、ベルナール。塔には叔父上が……」
「殿下。国のためです。アシェル殿下も、それをお望みでしょう」
宰相閣下は、穏やかに微笑んだ。
十年前、アシェル様をあの塔へ送ったときと、きっと同じ顔で。
クラウス殿下は、何か言いかけて、そのまま唇を噛んだ。
リディアが、宰相閣下の後ろで、ほっとしたように胸をなで下ろすのが見えた。
そのとき、私の手が、強く握られた。
アシェル様が、一歩、前へ踏み出していた。
「フィリア。行こう」
私は、頷いた。
ガレス様と騎士たちが、群衆をかき分けて道を作る。人々が、怪訝そうに振り返る。
私たちは、手を繋いだまま、祭壇へ向かって歩いた。
一歩。また一歩。
雨に濡れた石畳を踏みしめながら。
祭壇の上で、宰相閣下が、近づいてくる私たちに気づいて眉を寄せた。
「何者だ。下がれ」
アシェル様は、答えなかった。
祭壇の階段の下で、足を止める。
そして、ゆっくりと、フードを外した。
雨に濡れた銀の髪が、肩へと流れ落ちた。
夜明け前の空のような、深い青の瞳が、祭壇の上の宰相閣下をまっすぐに射抜いた。
宰相閣下の顔から、すうっと血の気が引いていくのが見えた。
広場が、凍りついたように静まり返った。
「……その塔なら」
アシェル様の声が、雨音を裂いて、広場の隅々まで響き渡った。
「もう、空だ」




