第17話 十年ぶりの王宮
王都の門をくぐったのは、日が暮れてからだった。
ガレス様の手配で、私たちは商人の荷馬車に紛れて門を抜けた。アシェル様も私も、深くフードをかぶり、顔を隠している。
荷台の揺れの中で、私はそっと幌の隙間から外をのぞいた。
ふた月ぶりの王都は、ひどく暗かった。
通りに灯る明かりが少ない。人通りもまばらで、すれ違う人々は皆、どこか怯えたように足早に歩いていく。広場の噴水は止まり、水盤の底に濁った水が溜まっていた。
(……こんなに、変わってしまったなんて)
胸が、締めつけられた。
握った手に、アシェル様の指が力を込めた。
「君のせいではない」
何も言っていないのに、アシェル様はそう言った。
「……顔に出ていましたか」
「ああ。全部」
私は小さく笑って、アシェル様の肩に、少しだけ頭を預けた。
荷馬車が止まったのは、王宮の裏手にある、使用人用の小さな通用門の前だった。
門の脇に、ランプを手にした女性がひとり立っていた。
その姿を見た瞬間、私は息を呑んだ。
「ヘルガ夫人……!」
「フィリア様」
ヘルガ夫人は、ランプを置いて、私の両手を取った。
皺の刻まれた手が、小さく震えていた。
「よくぞ……よくぞ、ご無事で」
「どうして、夫人がここに」
「わたくしがお願いしました」
ガレス様が、荷台から降りながら言った。
「王宮の中で、宰相の目を盗んで動ける者が必要でした。ヘルガ夫人は、儀式の日からずっと、フィリア様の無実を訴えておられたと聞きましたので」
「訴えたところで、誰も耳を貸してはくれませんでしたけれど」
ヘルガ夫人は、寂しげに微笑んだ。
それから、私の隣に立つアシェル様に気づいて、目を見開いた。
フードの陰からのぞく、銀の髪と、青い瞳。
「……まさか。アシェル殿下……?」
「久しいな、ヘルガ。兄上の乳母をしていたころから、少しも変わらない」
ヘルガ夫人は、口元を押さえて、その場に膝をついた。
王宮の奥へ続く使用人用の廊下を、ヘルガ夫人の案内で進んだ。
夜更けの廊下は静まり返り、私たちの足音だけが響く。
「フィリア様」
前を歩くヘルガ夫人が、振り返らずに口を開いた。
「わたくし、ずっと後悔しておりました。中庭で、最後まで申し上げられなかったことを」
「……婚約が解消された日の、ことですか」
「ええ。今度こそ、申し上げます」
ヘルガ夫人が、足を止めた。
ランプの灯りの中で、まっすぐに私を見る。
「わたくしは三十年、王太子妃候補の方々をお教えしてまいりました。けれど、フィリア様ほど優秀な方は、ひとりもいらっしゃいませんでした」
「……え?」
「礼法も、歴史も、外交も。試験の成績は、歴代でもっとも高いものでした。陛下も王妃様も、フィリア様を王太子妃にと強くお望みになって、婚約を結ばれたのです」
頭の中が、真っ白になった。
「そ、そんなはずは……私は、いつも出来が悪くて、先生方に励ましていただいて……」
「励ましではございません」
ヘルガ夫人は、静かに首を振った。
「わたくしたちは皆、本心からフィリア様を褒めておりました。それがフィリア様には、どうしても届かなかった」
リディアの言葉が、よみがえった。
みんなお姉様ばかり褒めるのよ、と。
あのときは、意味が分からなかった。
(本当、だったの……?)
握っていた手が、ぎゅっと握り返された。
見上げると、アシェル様が、静かに私を見下ろしていた。
「だから言っただろう。君は、自分のことを何も分かっていない」
その声が、あまりにも優しかったから。
私は、何も言えずにうつむいた。
目の奥が、熱かった。
廊下の突き当たりに、重厚な扉があった。
国王陛下の寝所だ。
扉の前に立っていた近衛騎士が、ガレス様の顔を見て目を見張り、それから、アシェル様に気づいて、声もなく跪いた。
「通してくれ」
アシェル様の言葉に、騎士は震える手で扉を開けた。
寝所の中は、薄暗かった。
大きな寝台の上に、ひとりの男性が横たわっていた。銀の髪には白いものが混じり、頬は深くこけている。浅い息を繰り返すたびに、胸がかすかに上下していた。
「……兄上」
アシェル様の声が、かすれた。
寝台の上の国王陛下が、ゆっくりと目を開けた。
焦点の合わない青い瞳が、宙をさまよい、やがて、アシェル様の顔をとらえる。
「……アシェル、か」
ひどく弱々しい声だった。
「夢を、見ているのか……」
「夢ではありません、兄上。戻ってまいりました」
アシェル様は寝台のそばに膝をつき、陛下の手を取った。
もう片方の手は、私の手を握ったまま。
陛下の瞳から、一筋の涙がこぼれた。
「すまない……私が、病に伏せたばかりに……お前を、十年も……」
「もういいのです、兄上」
アシェル様は、陛下の手を両手で包み込んだ。
それから、私のほうを振り返った。
「フィリア。頼めるか」
私は頷いて、陛下の手に、そっと自分の手を重ねた。
冷たい手だった。泉の濁りと、結界の綻びが、少しずつ陛下の命を削っていたのだ。
目を閉じて、祈る。
指先から、金色の光があふれ出した。
光は陛下の手を伝い、腕を伝い、やがて身体全体を、柔らかく包み込んでいく。
青白かった頬に、少しずつ、血の色が戻ってくる。
浅かった息が、ゆっくりと、深くなっていく。
光が消えたとき、陛下は目を見開いて、私を見ていた。
「……これは」
陛下は、自分の手を見下ろした。それから、寝台の上で、ゆっくりと身を起こした。
ここ数か月、ひとりでは起き上がることもできなかったと、ヘルガ夫人が言っていたのに。
「アルセン伯爵家の、フィリア・アルセンと申します」
私は、深く頭を下げた。
「陛下。聖女認定の儀でのことを、お話しさせてください」
すべてを話し終えたとき、窓の外はもう白み始めていた。
陛下は長い間、黙って目を閉じていた。
それから、ゆっくりと口を開いた。
「……十年、私は何も見えていなかったのだな」
陛下の声には、深い悔恨がにじんでいた。
「アシェル。フィリア嬢。三日後の公開祈祷で、すべてを明らかにせよ。王の名において、それを許す」
アシェル様が、深く頭を垂れた。
私も、その隣で頭を下げた。
握り合った手の中で、アシェル様の指が、そっと私の指を撫でた。
三日後。
すべてが、終わる。




