第16話 塔を出る日
出立は、公開祈祷の三日前の夜明けと決まった。
それまでの間、私はほとんど眠らずに祈り続けた。
殿下の身体に残っている茨は、もうわずかだった。背中の中心、心臓の裏側あたりに、黒い紋様がひとつだけ、根を張るように残っている。
「これが、呪いの核だ」
殿下は、自分の背中に触れながら言った。
「おそらく、ここだけは簡単にはほどけない。十年分の呪いが、すべてここに集まっている」
「では、ここが解けるまで、殿下は……」
「ああ。君と離れれば、またすぐに茨が広がる」
殿下は、少しも困ったような顔をしていなかった。
むしろ、どこか楽しそうにさえ見えた。
「だから王都へ行っても、君は私のそばを離れられない」
「……殿下。それ、少し嬉しそうに聞こえるのですけれど」
「気のせいだろう」
さらりと言われて、私は言葉に詰まった。
握られた手の指が、私の指の間に、するりと絡んでくる。
背中の黒い紋様が、ほんの少しだけ薄くなった気がした。
出立の前の晩、トマスさんが、大きな包みを抱えて最上階へ上がってきた。
「お嬢さん、これを」
包みを開くと、中には淡い水色のドレスが入っていた。飾りは少ないけれど、上質な布で、丁寧に仕立てられている。
「これは……」
「森の外の村の仕立て屋に、頼み込んで作らせました。王都へ戻られるのに、そのお召し物では」
私は、自分の着ている灰青色のドレスを見下ろした。
塔に来てからふた月あまり。何度も洗い、何度も繕ったけれど、もう裾はほつれ、袖口は擦り切れていた。
「トマスさん……こんな、私なんかのために」
「なんか、などと言うものではありません」
トマスさんは、皺だらけの顔をくしゃりと崩した。
「わしは十年、殿下がこの塔を出られる日を夢見ておりました。その日が来るなら、隣におられる方にも、晴れやかな姿でいてほしい。それだけです」
視界が、にじんだ。
私はドレスを胸に抱きしめて、深く頭を下げた。
着替えるときも、殿下の手を離すことはできなかった。
「……殿下。目を、閉じていてくださいますか」
「ああ」
殿下は素直に目を閉じ、背を向けてくれた。
その背中に片手を添えたまま、もう片方の手で、どうにかドレスに袖を通す。思ったよりもずっと難しくて、何度も布が絡まった。
「……手伝おうか」
「だ、大丈夫です!」
背中越しに、殿下が小さく笑う気配がした。
どうにか着替え終えて、私は殿下の背中を軽く叩いた。
「もう、よろしいです」
殿下が、ゆっくりと振り返る。
青い瞳が、私の頭から足元までを、静かに見下ろした。
それから、長い間、何も言わなかった。
「……あの、似合いませんか?」
不安になって尋ねると、殿下は小さく首を振った。
「違う」
殿下の手が、私の髪にそっと触れた。
「君を、誰にも見せたくないと思っただけだ」
顔が、一瞬で熱くなった。
殿下の背中で、最後の黒い紋様が、ほんのわずかに揺らいだ。
夜明け前、私たちは螺旋階段を下りた。
殿下は、まだ長い距離を歩くことに慣れていない。片手で手すりにつかまり、もう片方の手で、私の手をしっかりと握っていた。
一段、また一段。
ふた月前、ひとりで上ったこの階段を、今は二人で下りている。
三階の、私の小さな部屋の前を通り過ぎる。
古い寝台と、擦り切れた毛布。窓辺で、毎晩祈った場所。
(ここで、全部が始まったのね)
少しだけ、名残惜しかった。
やがて、塔の入口の扉が見えてきた。
トマスさんが、扉の前で待っていた。その後ろには、灰色の外套を羽織ったガレス様と、数人の騎士たちが控えている。
「殿下。お待ちしておりました」
トマスさんが、扉を押し開けた。
冷たい朝の空気が、流れ込んでくる。
殿下が、一歩、外へと足を踏み出した。
十年ぶりの、外の世界だった。
東の空が、淡い金色に染まり始めていた。黒い森の木々の向こうから、細い光が差し込んでくる。
殿下は、眩しそうに目を細めて、空を見上げた。
長い、長い間。
何も言わずに、ただ、空を見上げていた。
その横顔を見ていたら、私まで泣きそうになった。
「……殿下」
「アシェルだ」
「え?」
殿下が、私を見下ろした。
「殿下、ではなく。アシェルと呼んでほしい」
「そ、そんな、恐れ多い……」
「呪いの核を解くには、まだ君の心が足りないらしい」
殿下は、真面目な顔でそう言った。
「名前を呼んでくれれば、少しは近づくかもしれない」
「……それ、本当ですか?」
「さあ。試してみなければ分からない」
青い瞳が、じっと私を見つめている。
私は、ぎゅっと唇を結んで。
それから、蚊の鳴くような声で、その名前を口にした。
「……アシェル、様」
殿下が——アシェル様が、目を見開いた。
それから、ゆっくりと、ほどけるように笑った。
その笑顔を、私はきっと、一生忘れないと思った。
ガレス様が用意してくれた馬に、私とアシェル様は二人で乗った。
手綱を握るアシェル様の腕の中に、私がすっぽりと収まる形だ。
「これなら、離れずに済む」
耳元で、満足そうな声がした。
背中に、アシェル様の胸の温もりが伝わってくる。
馬が歩き出す。
振り返ると、嘆きの塔を覆っていた黒い茨が、朝の光の中で、静かに色を失っていくところだった。
まるで、主のいなくなった檻が、役目を終えて眠りにつくように。
トマスさんが、塔の前でいつまでも手を振っていた。
森を抜け、丘をひとつ越えたころ。
遠くに、王都の城壁が見えてきた。
けれど、その上空に張られているはずの結界は、まるで薄い霧のように頼りなく揺らいでいた。
アシェル様の腕に、力がこもった。
「……行こう、フィリア」
私は、アシェル様の手に、自分の手を重ねた。
もう、逃げない。
もう、奪わせない。
私たちは、王都へと馬を進めた。




