第15話 宰相の企み
ガレス様が塔へやってきたのは、殿下が手紙を出してから十日後の夜だった。
トマスさんに案内されて最上階へ上がってきたのは、灰色の外套を羽織った大柄な男性だった。日に焼けた顔に、左の頬から顎にかけて古い傷跡が走っている。
扉をくぐった瞬間、その人は足を止めた。
部屋の中央に、殿下が立っていたからだ。
私の手を握り、もう片方の手を椅子の背にかけて。まだ足元は少しおぼつかないけれど、確かに、自分の足で。
「……殿下」
ガレス様の声が、かすれた。
次の瞬間、大きな身体が床に膝をつき、深々と頭を垂れた。
「十年……十年もの間、お救いすることができず……!」
「顔を上げろ、ガレス」
殿下の声は、静かだった。
「お前は最後まで、私をここへ移すことに反対してくれた。それだけで十分だ」
「ですが……」
「それより、来てくれて助かった。紹介しよう」
殿下が、繋いだ手を少しだけ持ち上げた。
「フィリア・アルセン。私の呪いを解いてくれている人だ」
ガレス様の目が、私に向けられた。
鋭い眼差しだった。けれどその奥に、驚きと、それから深い感謝の色が浮かんでいるのが分かった。
「……アルセン伯爵家の。聖女認定の儀で、罪を着せられたという」
「ご存じなのですか」
「辺境の砦にも、噂は届いておりました。ですが、まさか本物の聖女が、こんな場所に」
ガレス様は、もう一度深く頭を下げた。
今度は、私に向かって。
「殿下をお救いくださり、心より感謝申し上げます」
ガレス様は、王都の様子を詳しく話してくれた。
泉の濁りは、もう王都中に広がっていること。北の街道だけでなく、東の村にも魔物が出始めたこと。国王陛下のご病状が、ここ数か月で急に悪化していること。
そして、リディアの力が、ほとんど失われていること。
「神官たちの間では、もう公然と囁かれております。聖女様は、本当に聖女なのかと」
私は、膝の上で手を握りしめた。
リディアが偽物だと、皆が気づき始めている。
それなのに、少しも嬉しくはなかった。泉の水を飲む人たちのことを、魔物に怯える村の人たちのことを思うと、胸が苦しかった。
「宰相は、どう動いている」
殿下の問いに、ガレス様の顔が険しくなった。
「十日後、大神殿で聖女による公開祈祷が行われます。王都の民を集め、聖女の祈りで結界を張り直すと」
「リディアに、そんな力は……」
思わず口を挟んだ私に、ガレス様が頷いた。
「ええ。おそらく、何も起きないでしょう。宰相もそれは分かっているはずです」
「では、なぜ」
「失敗させるためです」
部屋の空気が、ひやりと冷えた。
「祈祷が失敗したとき、宰相はこう宣言するつもりです。聖女の祈りを妨げているのは、嘆きの塔に巣食う呪いだと。塔に幽閉した罪人が、封じられた王弟の呪いと結びつき、王都に災いをもたらしている……と」
私は、息を呑んだ。
「そして、その呪いの根源を断つため、塔ごと焼き払う」
ガレス様の声が、低く沈んだ。
「すでに、塔を焼くための油と兵が、王都の北門に集められています。宰相の腹心から、確かに聞きました」
しばらく、誰も口をきかなかった。
窓の外で、夜の風が鳴っていた。
殿下の手が、私の手を強く握っていた。痛いほどに。
「……ベルナールは、最初からそのつもりだったのか」
殿下の声は、ひどく静かだった。
静かすぎて、かえって怖いくらいだった。
「おそらくは。殿下、もうひとつお伝えしなければならないことがあります」
ガレス様は、懐から一通の書状を取り出した。
「宰相の腹心が、酒の席で漏らしたことです。聖女認定の儀の日、宰相は気づいていたそうです。聖水晶の光が、妹君ではなく、壁際に立っていた姉君のほうへ流れていったことに」
心臓が、止まりそうになった。
あの日。
宰相閣下の細い目が、壁際の私をとらえた気がした。
気のせいでは、なかったのだ。
「本物の聖女が現れれば、殿下の呪いが解かれるかもしれない。それは、宰相にとって最も避けたいことでした。ですから、姉君に罪を着せ、この塔へ送った」
「……なぜ、この塔へ?」
私の声は、震えていた。
「呪いの茨は、聖なる力を喰らうと言われております。本物の聖女であればあるほど、この塔では早く力を奪われ、衰弱して死ぬ……宰相は、そう考えたのでしょう」
(私を、殺すために)
背筋が、凍りついた。
ここへ送られたのは、ただの幽閉ではなかった。
最初から、ここで死ぬことを望まれていたのだ。
「ですが、宰相の思惑は外れた」
ガレス様が、私と殿下を交互に見た。
「茨は聖女様を喰らうどころか、聖女様の前にほどけていった。宰相は、そのことをまだ知りません。そして今度は、塔ごと焼いて、すべてをなかったことにしようとしている」
「……ガレス」
殿下が、ゆっくりと口を開いた。
青い瞳が、見たこともないほど冷たく光っていた。
「ベルナールは、私を封じたままにしておくために、この十年、何をしてきた」
「大神官が進めていた解呪の研究を、資金を止めて打ち切らせました。殿下に味方する者を、ひとりずつ王都から遠ざけました。そして、国王陛下のご病状を理由に、政のすべてを自らの手に」
「証拠は」
ガレス様は、書状を差し出した。
「十年分、集めておりました。殿下がお戻りになる日のために」
殿下は、書状を受け取った。
それから、私のほうを向いた。
冷たかった瞳が、私をとらえた瞬間、ふっと和らいだ。
「フィリア」
「……はい」
「怖い思いをさせた。すまない」
「殿下が謝ることでは」
「いや。ベルナールが君に何をしようとしたか、私は決して忘れない」
殿下の手が、私の頬に触れた。
その指先は温かいのに、声だけは、ひどく冷えていた。
「十日後の公開祈祷。そこで、すべてを終わらせる」




