第14話 立ち上がる理由(アシェル視点)
あの日から、私は焦っていた。
フィリアが三階へ下りていった、ほんの半刻ほどの間。
茨は私の身体を這い戻り、腕を縛り、胸を締めつけた。それ自体は、十年間味わってきた苦痛と変わらない。耐えられないものではなかった。
耐えられなかったのは、別のことだ。
階下から、女の甲高い声が聞こえていた。フィリアを責める声。物を投げ、床を叩く音。
私は、ここで座っていることしかできなかった。
立ち上がることも、階段を駆け下りることも、彼女の前に立つこともできず。
ただ、怒りに任せて荒れ狂う茨を、どうすることもできずに。
(……二度と、あんな思いはしない)
彼女が戻ってきて、震える手で私の手を握ったとき、そう決めた。
この足で立つ。
この足で、彼女の前に立って……そして……。
「殿下、無理をなさらないでください」
フィリアが、心配そうに眉を下げた。
私の腰から下は、まだ黒い茨に覆われている。椅子に縫いとめられたまま、十年間、一度も立ち上がったことはない。
「無理はしていない」
「でも、昨日も夜遅くまで……」
「君が祈ってくれている間に、少しでも動かしておきたいんだ」
フィリアの手を握り、もう片方の手で、膝の上の茨に触れる。
彼女の光が、私の手を伝って流れていく。茨が、ぱらぱらとほどけ落ちる。
けれど、腰から下の茨は、他のどこよりも頑固だった。
いくら触れても、ほどける速さはわずかだった。
「……やはり、時間がかかりますね」
フィリアが、申し訳なさそうにつぶやく。
「君のせいじゃない」
「でも、もっと私に力があれば」
「フィリア」
私は、彼女の手を引いた。
不意を突かれた彼女が、私の膝の上へ倒れ込みそうになる。慌てて体勢を立て直そうとする細い肩を、両腕で支えた。
顔が、近い。
亜麻色の髪が、私の頬にかかる。
「で、殿下……っ」
「茨がよくほどけるのは、君の心が近いときだと言っただろう」
「は、はい」
「だから、正直に言う」
琥珀色の瞳が、大きく見開かれた。
私は、十年間一度も口にしたことのない言葉を探した。
「君が来てくれて、私は救われた。君が笑うと、胸が温かくなる。君が私の名前を呼ぶと……それだけで、もう少し生きていたいと思える」
フィリアの頬が、みるみるうちに赤く染まっていく。
「だから、自分に力がないなどと言わないでくれ。私にとって、君以上の聖女はいない」
「……っ」
フィリアは何か言おうとして、言葉にならなかったのか、唇を震わせた。
それから、私の胸元に、そっと額を預けた。
その瞬間。
膝の上で、ぱきり、と乾いた音がした。
腰から太腿にかけて絡みついていた茨が、一斉にひびを走らせ、灰になって崩れ落ちていった。
それからの日々は、ひどく単純だった。
フィリアと話し、フィリアに触れ、フィリアに笑ってもらう。
ただ、それだけ。
それだけで、茨はほどけていった。
彼女が恥ずかしがって顔を背けると、ほどける速さが少し鈍る。思わずといったように笑うと、一度にたくさんほどける。
「……殿下、わざと私を照れさせていませんか」
「さあ、どうだろうな」
「殿下!」
真っ赤になって抗議する彼女の手を握ると、また一本、茨が落ちた。
(わざとではない)
本心を口にしているだけだ。
ただ、十年間黙らされていた分、言葉が溢れて止まらないだけで。
トマスには、ひとつ頼みごとをした。
「王都の近衛騎士団に、ガレスという男がいる。十年前、私の副官だった男だ」
「ガレス様……覚えております。殿下がこの塔に移されるとき、最後まで反対なさっていた方ですね」
「あれは今、どうしている」
「宰相閣下に疎まれて、辺境の砦へ飛ばされたと聞きました」
やはり、と思った。
ベルナールは、私の味方だった者たちを、十年かけて王都から遠ざけていたのだ。
「その砦へ、手紙を届けてほしい。誰にも気づかれないように」
トマスは、深く頷いた。
私はフィリアに手を握られたまま、もう片方の手で、彼女が持ってきてくれた古い羊皮紙に短い文を綴った。
十年ぶりに握るペンは、ひどく重かった。
それでも、書き慣れた署名だけは、手が覚えていた。
茨が膝から下までほどけたのは、それから五日後のことだった。
足首に絡みついていた最後の一本が、フィリアの指先に触れて、灰になる。
十年間、椅子に縫いとめられていた両足が、自由になった。
「殿下……」
フィリアが、息を呑んで私を見上げる。
私は、椅子の肘掛けに手をかけた。
足に力を込める。
膝が震えた。十年間使われなかった筋は、思うように動いてくれない。身体が前へ傾き、崩れ落ちそうになる。
その身体を、細い腕が支えた。
「大丈夫です。私が、支えますから」
フィリアが、私の脇の下に肩を入れていた。
小さな身体で、精一杯に私を支えようとしている。
私は、彼女の肩に手を置いた。
もう一度、足に力を込める。
震える膝を、ゆっくりと伸ばしていく。
視界が、少しずつ高くなっていった。
椅子に座ったまま見上げていた細い窓が、目の高さに近づいてくる。
そして。
十年ぶりに、私は自分の足で立っていた。
すぐ隣で、フィリアが私を見上げていた。
思っていたよりも、ずっと小さかった。
私の胸元にも届かないくらいの背丈で、それなのに、この十年間、誰よりも大きなものを背負ってきた人。
「殿下、ようやく……」
フィリアの瞳から、涙がひと粒こぼれた。
私はその涙を指先で拭い、そのまま、彼女の身体を腕の中へ抱き寄せた。
「フィリア」
震える足で、それでも、しっかりと床を踏みしめながら。
「君を連れて、ここを出る」




