第13話 効かない癒やし(リディア視点)
大神殿の祈祷室には、熱を出した子供が寝かされていた。
まだ五つか六つくらいの男の子だ。真っ赤な顔で浅い息を繰り返し、母親らしき女がその手を握って泣いている。
「聖女様、どうか、どうかこの子を……!」
「ええ、任せてちょうだい」
わたくしは微笑んで、子供の額に手をかざした。
袖の内側に、小さな白い石をひとつ忍ばせている。お姉様の数珠からほどいた石のうち、まだ少しだけ白さが残っている最後のひと粒だ。
(お願い、光って)
目を閉じて、祈るふりをする。
石が、わずかに温かくなった。指先に、ほんの小さな光が灯る。
けれど、それだけだった。
光はすぐに消え、子供の顔は赤いままだった。
「……聖女様?」
母親が、すがるような目でわたくしを見上げる。
周りの神官たちが、ちらりと顔を見合わせたのが分かった。
「この子は……きっと、神のご意志で試されているのね」
わたくしは慈愛に満ちた顔を作り、母親の肩に手を置いた。
「あなたの信仰が、もう少し深ければよかったのだけれど」
母親の顔から、血の気が引いた。
わたくしは振り返らずに、祈祷室を出た。
廊下を歩きながら、袖の中の石を握りしめる。
石は、もう灰色にくすんでいた。
(どうして……どうしてよ)
最初のころは、うまくいっていたのだ。
数珠の石を握って祈れば、小さな傷は塞がったし、軽い熱なら下がった。聖印に触れれば、ぼんやりとだけれど光った。
皆が、わたくしを聖女と呼んで跪いた。
殿下も、お父様も、お母様も。
それなのに。
ひと月が過ぎ、ふた月が過ぎるうちに、石はひとつ、またひとつと色を失っていった。癒やしは効かなくなり、聖印は光らなくなった。
先週、夜中にこっそり礼拝堂へ行ってみた。
お姉様がしていたように、聖印に両手を重ねて、何時間も祈った。
聖印は、冷たいままだった。
指先が凍えて感覚がなくなるまで祈っても、光の粒ひとつ、こぼれてはくれなかった。
(あんな地味な女にできて、どうしてわたくしにできないの)
お姉様は、いつもそうだった。
何をしても、わたくしより上手にできた。刺繍も、礼法も、勉強も。
本人だけが、それに気づいていなかった。
先生たちが「フィリア様は」と口にするたびに、わたくしは笑顔の裏で歯をかみしめた。お姉様は、それをただの励ましだと思って、申し訳なさそうに微笑むのだ。
それが、たまらなく腹立たしかった。
だから、全部奪ってやった。
それなのに、どうして今になって、こんな思いをしなければならないの。
自室に戻ると、ベティが青い顔で待っていた。
「リディア様……申し訳ございません」
「石は?」
「ありませんでした。部屋の隅々まで探しましたが、何も」
わたくしは、手にしていた扇をベティに投げつけた。
「何のために行かせたと思っているのよ!」
「で、でも、リディア様! あの塔は、普通ではありません!」
ベティは震えながら、塔の最上階のことを話した。
扉を覆う黒い茨。生き物のようにうねり、棘を逆立てて、ベティの足元の石段を打ち砕いたこと。
扉の向こうから聞こえた、獣のような唸り声。
「あそこには、化け物がいるんです……!」
わたくしは、ふんと鼻を鳴らした。
呪われた王弟が封じられているという話は、聞いたことがある。お姉様は、そんな場所に閉じ込められているのだ。
(いい気味だわ)
そう思った。
思った、はずなのに。
なぜか、胸の奥がざわついた。
あのお姉様が、まだ生きている。化け物の茨に囲まれた塔の中で、何事もなかったように。
その夜、わたくしは殿下と夕食を共にした。
「リディア。今日の祈祷のこと、聞いたぞ」
クラウス殿下は、ナイフを置いて、わたくしを見た。
「子供の熱が下がらなかったそうだな。先週も、その前も。神官たちが噂している」
「殿下……わたくし、少し疲れているだけなのです」
いつものように、目を潤ませる。
いつもなら、殿下はそれで黙ってくださった。
けれど今夜は、違った。
「北の街道で、また魔物が出た。泉の濁りもひどくなっている。父上の病状も、思わしくない」
殿下は、苛立ったように髪をかき上げた。
「聖女が現れたというのに、なぜ国はよくならない?」
その言葉が、胸に突き刺さった。
「それは……お姉様が」
「フィリアが?」
「お姉様が、塔から呪いをかけているのです。わたくしの力を妨げるために……あの儀式の日のように」
殿下は、しばらく黙ってわたくしを見ていた。
その目に浮かんでいたのは、同情ではなかった。
疑いだった。
「……そうか」
殿下はそれだけ言って、席を立った。
ひとり残された食卓で、わたくしは袖の中の石を握りしめた。
そのとき、指の間で、乾いた音がした。
そっと手を開く。
最後の白い石が、さらさらと崩れて、灰色の砂になっていた。




