第2話 婚約者だった人
聖女認定の儀は、十日後に決まった。
その知らせが届いてから、屋敷の中はずっと浮き足立っている。仕立て屋が呼ばれ、宝石商が呼ばれ、リディアの部屋には毎日のように贈り物が運び込まれた。
私は、その騒ぎから少し離れた場所にいた。
夜の礼拝堂にも、まだ通っている。
祈りを止めれば、聖印はまた光を失ってしまう。それが誰の手柄になろうと、王都の結界が綻んでいいわけではない。
(……私が祈っている限り、リディアの儀式はきっと成功する)
それは皮肉なことに、少しだけ救いでもあった。
フィリアは、妹が恥をかくところを見たいわけではないのだ。
その日、王宮から先触れが届いた。
王太子クラウス殿下が、アルセン伯爵家を訪問される、と。
「フィリア、身支度を整えなさい。殿下をお迎えするのですから」
母にそう言われて、私は小さく頷いた。
クラウス殿下は、私の婚約者だ。
六年前、私が十二歳のときに結ばれた婚約だった。アルセン家は古い家柄で、私が王太子妃教育の試験で良い成績を収めたから——と、当時の父は言っていた。
正直なところ、殿下との間に甘い思い出はほとんどない。
月に一度のお茶会で、殿下はいつも退屈そうに窓の外を眺めていた。私が話題を探して口を開いても、短い相槌が返ってくるだけ。
それでも私は、殿下の隣に立つにふさわしい人間になろうと、懸命に学んできた。
歴史も、外交も、礼法も。
いつか殿下が、少しでも私を見てくださるようにと。
応接間に入ってきたクラウス殿下は、金の髪を後ろへ撫でつけ、いつも以上に整った装いをしていた。
「アルセン伯爵、夫人。急な訪問ですまない」
「とんでもございません、殿下」
両親が深く頭を下げる。私もそれに倣って、裾をつまんで礼をした。
殿下の視線が、私の上を素通りしていく。
そして、私の隣——リディアのところで、ぴたりと止まった。
「聖女の兆しが現れたと聞いた。リディア嬢、おめでとう」
「まあ、殿下。わたくしなど、まだ何も……」
リディアがはにかむように微笑む。殿下の口元が、私には一度も見せたことのない形にゆるんだ。
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
……いいえ。本当は、ずっと前から気づいていた。
夜会のたびに、リディアが殿下のそばへ寄っていくこと。殿下が、それを嫌がらなかったこと。私が少し席を外して戻ると、二人が楽しげに笑い合っていたこと。
「本題に入ろう」
殿下が姿勢を正し、父へ向き直った。
「この国では古くから、聖女は王家に嫁ぐ慣わしがある。聖女の祈りと王家の血が結ばれることで、国の守りはより強くなる……大神官もそう言っている」
父が、ごくりと喉を鳴らした。
「つまり、殿下……」
「フィリア嬢との婚約を解消し、改めてリディア嬢を婚約者に迎えたい」
その言葉は、思っていたよりもずっと静かに、応接間に落ちた。
誰も、私を見なかった。
母は口元を押さえて喜びを隠し、父は何度も頷いている。リディアは眉を下げ、私の袖をそっと引いた。
「お姉様……ごめんなさい。わたくし、こんなつもりじゃ……」
潤んだ空色の瞳。
けれどその奥に、隠しきれない光が揺れているのが、私には見えた。
(ああ……この子は、ずっとこれが欲しかったのね)
髪飾りと同じように。刺繍と同じように。
私が大切にしていたものだから、欲しかったのだ。
「……承知いたしました」
自分の声が、ひどく遠くに聞こえた。
「殿下と妹の幸せを、心よりお祈りいたします」
深く頭を下げると、殿下がほっとしたように息をついた。
「理解が早くて助かる。フィリア嬢にも……良い縁談がいずれあるだろう」
それだけだった。
六年間の婚約に対する言葉は、それだけ。
殿下がお帰りになる少し前、私は一人で中庭に出た。
春の花が咲きそろい、風に甘い香りが混じっている。こんなにきれいな日なのに、胸の中だけが妙にからっぽだった。
「フィリア様」
振り返ると、殿下に随行してきた年配の女性が立っていた。
王太子妃教育で、私に礼法を教えてくださったヘルガ夫人だ。
「ヘルガ夫人……。本日は、お見苦しいところを」
「何をおっしゃいます」
夫人は首を横に振り、それから少しだけ声を落とした。
「わたくしは、これまで多くの妃候補をお教えしてまいりました。けれど、フィリア様ほど真摯に学ばれ、すべてを修められた方は……」
そこで、夫人は言葉を切った。
屋敷のほうから、リディアの明るい笑い声が聞こえてきたからだ。
「……いえ。今は何を申し上げても、お慰めにはなりませんね」
夫人は寂しげに微笑み、深く一礼して去っていった。
(真摯に学んだのに、殿下のお心を得られなかった……ということかしら)
私はその背中を見送りながら、小さく息をついた。
きっと夫人は、不出来なりに頑張っていた私を、労ってくださったのだ。
それだけでも、十分にありがたかった。
その夜も、私は礼拝堂へ向かった。
聖印に手を重ねると、いつもと同じように光が溝を満たしていく。
婚約者を失っても、祈りの手柄を奪われても、この光だけは変わらない。
(……私には、もうこれしか残っていないのね)
ふと、そんなことを思った。
そのときだった。
礼拝堂の扉の向こうで、かすかに衣擦れの音がした。
振り返っても、そこには夜の闇があるだけ。
けれど、扉の隙間から漂ってきた甘い香りに、私は覚えがあった。
リディアが好んでつけている、薄桃色の小瓶の香水。
聖印の光が、手のひらの下で静かに揺れていた。




