第1話 夜の礼拝堂と、奪われる祈り
夜の礼拝堂は、いつも静かだ。
蝋燭の小さな火が揺れるたび、石造りの壁に映る影が大きく伸びて、また縮む。
私はその影を横目に、祭壇の奥へと進んだ。
古い石壁に刻まれた、円と花弁を組み合わせたような紋様。王都を守る結界の要である聖印だ。
そっと両手を重ねる。
ひやりとした冷たさが、手のひらから腕へと染みこんでくる。けれど次の瞬間、指先からこぼれた淡い光が、紋様の溝をゆっくりと満たしていった。
(……よかった。今夜も、ちゃんと届いている)
胸の奥で、小さく息をつく。
聖印は、聖女が祈りを捧げることで力を保つ。けれどこの国には、もう何十年も聖女が現れていない。だから聖印は年々光を失い、王都の結界には少しずつ綻びが増えていた。
神官たちがそう嘆いているのを、私は何度も耳にしてきた。
そして、そのたびに唇を噛んで黙ってきた。
私が初めてこの聖印に触れたのは、八歳の冬だ。屋敷から一番近いこの礼拝堂で、何の気なしに紋様をなぞったら、指先から光があふれた。
驚いて、怖くなって、誰にも言えなかった。
言ったところで、信じてもらえるとは思えなかったから。
それから十年。アルセン伯爵家の長女フィリアは、誰にも知られないまま、夜ごとここで祈り続けている。
(聖女だなんて、大それたことは思っていない。ただ……この光が消えたら、きっと困る人がたくさんいる)
だから、続けるだけだ。
手のひらに残る熱がすっかり抜けたころ、聖印は月明かりよりも柔らかな金色に染まっていた。
私はその光を見届けてから、そっと礼拝堂を後にした。
「フィリア。あなた、またそんな地味な色のドレスを着ているの?」
翌朝の食堂で、母の声が飛んできた。
私は椅子を引きかけた手を止め、自分の袖口を見下ろす。灰がかった青の、飾りの少ない普段着だ。
「申し訳ありません、お母様。こちらのほうが動きやすいので……」
「言い訳はいいわ。少しはリディアを見習いなさいな」
母のイザベラは、社交界でも名の知れた華やかな人だ。流行のドレスと宝石を何より好み、茶会の席ではいつも話題の中心にいる。
そんな母にとって、地味で口数の少ない私は、どうにも扱いに困る娘らしかった。
「イザベラ、朝から声を荒らげるものではない」
上座で新聞を広げていた父が、ちらりと顔を上げる。
アルセン伯爵ゲオルグ。古くから続く家柄を守ることに心血を注ぎ、何よりも家の体面を重んじる人だ。
「フィリア。お前も伯爵家の娘なのだから、身なりには気を配りなさい。殿下の婚約者として、恥ずかしくないように」
「……はい、お父様」
父は頷くと、もう私には興味を失ったように新聞へ視線を戻した。
叱られたわけではない。けれど、褒められたこともない。
父の目に映る私は、いつも「家の役に立つかどうか」でしかないのだと思う。
「お父様もお母様も、お姉様をいじめないであげて」
鈴を転がすような声がして、私の向かいの席で妹のリディアが微笑んだ。
春の花のような、薄桃色のドレス。蜂蜜色の髪に、大きな空色の瞳。笑うと頬にえくぼが浮かんで、誰もが思わず目を細めてしまう。
二つ年下の、私とは何もかもが違う妹だ。
「お姉様は落ち着いた色がお似合いですもの。ね、お母様?」
「まあ、リディアは本当に優しい子ね」
母が目を細め、父の口元もわずかにゆるむ。
いつもの光景だった。
リディアは昔から、誰にでも愛される子だった。屋敷の使用人も、遊びに来る令嬢たちも、皆がリディアの笑顔に引き寄せられていく。
そして、どういうわけか、リディアはいつも私のものを欲しがった。
祖母から贈られた銀の髪飾り。何晩もかけて仕上げた刺繍のハンカチ。仲良くなりかけた友人。
「お姉様、それ素敵ね」と言われたものは、気づけば全部、リディアの手の中にあった。
(……私が、うまく笑えないせいなのかもしれない)
そう思って、いつしか何かを欲しがることをやめた。
欲しがらなければ、取られても痛くない。
「そういえば、お姉様」
リディアが紅茶のカップを置き、首を傾げた。
「昨日の夜、どこかへお出かけになっていました? 廊下でお姉様の足音が聞こえた気がして」
心臓が、どくんと跳ねた。
「……少し、眠れなくて。庭を歩いていただけよ」
「そう。夜は冷えますから、お気をつけて」
リディアはにっこりと笑った。いつもと同じ、愛らしい笑顔。
なのに、なぜか背中がひやりとした。
朝食のあと、私は自室で刺繍の先生をお迎えした。
週に一度、屋敷へ来てくださる年配の婦人で、私が六歳のころから針を教えてくれている方だ。
「まあ、フィリア様。この花弁の重ね方……本当に見事ですこと」
「ありがとうございます。でも、まだ色の境目が少し硬くて」
「いいえ、いいえ。これほどの腕前の方は、王都でもそうはいらっしゃいませんよ」
先生はそう言って、私の刺繍枠をそっと撫でた。
いつも過分に褒めてくださる方なのだ。きっと、出来の悪い生徒を励まそうとしてくださっているのだろう。
授業を終えて先生を玄関までお見送りしたとき、ちょうど応接間から出てきた母と鉢合わせた。
「奥様。やはりお姉様のフィリア様のほうが、何事においても……」
「先生。リディアの授業の日程についてですけれど」
母の声が、先生の言葉を遮った。
先生は一瞬口をつぐみ、それから困ったように私を見て、小さく会釈をした。
(……やはり、私のほうが劣っている、ということよね)
何事においても、リディアのほうが。
きっと先生はそう言いかけて、私の前だからと母が止めてくれたのだ。
私は俯いたまま、そっと自室へ引き返した。
その日の午後、屋敷の前に一台の馬車が止まった。
白地に金の装飾。扉に描かれているのは、大神殿の紋章だ。
「アルセン伯爵家の皆様に、大神官様よりお伝えしたいことがございます」
応接間に通された若い神官は、緊張した面持ちでそう告げた。
「ここ数年、王都の聖印に少しずつ光が戻っております。特に昨夜は、これまでにないほど強く輝きました。大神殿では、この近隣に聖女の素質を持つ方がいらっしゃるのではないかと考えております」
息が止まりそうになった。
昨夜。
私が祈った、あの聖印のことだ。
(言わなくちゃ。あれは、私が——)
口を開きかけた、その瞬間だった。
「……まあ」
隣に座っていたリディアが、両手を胸の前で組み合わせた。
「実は、わたくし……毎晩、夢の中で礼拝堂へ行って、祈りを捧げているんです。ずっと、ただの夢だと思っていたのですけれど」
応接間が、しんと静まり返った。
それから、母が小さく悲鳴のような声を上げた。
「リディア! あなた、もしかして……!」
「わたくし、昨夜も夢を見ました。金色の光が、ふわっと広がる夢を」
神官の目が大きく見開かれる。父が身を乗り出す。
その騒ぎの中で、リディアがほんの一瞬だけ、私のほうを見た。
空色の瞳が、静かに細められる。
まるで、知っているのよ、と言うみたいに。
(どうして……)
喉の奥に、言葉が張りついて出てこない。
今ここで、祈っていたのは私です、と言ったら、誰が信じるだろう。愛らしいリディアと、地味で口下手な私。答えは、聞くまでもなかった。
「すぐに大神殿へご報告いたします! リディア様、近日中に聖女認定の儀をお受けいただくことになるかと」
「まあ、わたくしが聖女だなんて……」
頬を染めるリディアを、両親が誇らしげに抱きしめる。
私は膝の上で両手を握りしめたまま、その光景をただ見つめていた。
……また、だ。
髪飾りも、刺繍も、友人も。
そして今度は、十年間ひとりで守ってきた祈りまで。
窓の外では、何も知らない春の陽射しが、穏やかに庭を照らしていた。




