56・千徳、ようやく意識を取り戻すこと
まぶたを開くと、薄暗い天井がぼんやり飛び込んできた。いつもの部屋じゃない。
「あれ……ここは……」
身体を起こして自覚する。
気分はすっかりよくなっていた。頭もすっきりしているし、ぐっすり眠った後のような感覚だよ。
僕は典薬寮の一室で眠っていたようだった。
部屋の隅に待機していた白い着物に身を包んだ典薬寮の小坊主が僕に声を掛ける。
「ああ、お目覚めですか? お加減はいかがですか? どこか苦しいところはありませんか? ご自分のこと、おわかりになりますか?」
「うん。ぜーんぜん大丈夫! 上杉千徳、ふっかつしました!」
小坊主は僕に近寄ると手燭の明かりを近づけて顔を覗き込んだ。
「先程一度目を覚まされた時にも確認しましたが、意識や記憶の方も問題なさそうですね」
「記憶? ああ、僕はそう……御殿の天橋立の中庭のところで、黒い鬼が現れて、それで……」
「ああ、まだ横になっていてください。鶴寮の主務殿が時折お加減を見にいらっしゃいましたよ。今は少し忙しくされているようで、先程出て行かれましたが」
「それより、あの鬼はどうなったの?」
小坊主は立ち上がって言った。
「お手前の寮の主務殿が退治されたようですよ。腕の立つ護衛殿がいてくだされて我らも助かりました」
小坊主は勝丸と医師を呼んでくると言って部屋を出て行ったよ。
だから、僕はようやく部屋の灯りの傍らにそっと潜んでいた彼女に声を掛けられる。
「傍についててくれたんだ、火車切り! 現世で会うのは久しぶりだよね?」
火車切り廣光の脇差の付喪神はすうっと僕の脇にやってくると、心配そうに言った。
今は彼女の本体ーーつまり、僕の脇差のことだけれどーーは学寮の宝物庫に預けてある。
付喪神たちは現世では本体からあまり遠くには離れられないのだという話だった。おまけに宝物庫には他の生徒が預けた品々の中にも付喪神がいたりすることもあって、火車切りの付喪神はだいたいこの宝物庫にいるよ。宝物庫は昼間も常に薄暗いらしくて居心地がよいらしかった。
「ほんま驚いたわあ、ぬしさま。丸腰で化け物とやり合うなんて無茶もええとこや。やっぱりうちを傍に置いとった方がええんとちがう?」
辺りは日が暮れてすっかり夜になっていたよ。部屋は薄暗く、灯りに火が入っている。
やっぱり火車切りの姿はぼんやりとしていた。夢の中とは違っていたよ。
「僕、夢の中でも火車切りに会ったよ。江戸屋敷にいて、火車切りに膝枕してもらったんだー」
「夢?」
僕が頷くと、火車切りは首を傾げて言った。
「うちはずうっとここにおったんよ、ぬしさま。夢になんて出られしまへん」
「えっ? 違うよ、幽世のことじゃなくて、普通の夢。霊夢も見たけど、それはまた別の夢で……そうそう、火車切りはいつもと違う着物を着てた」
僕は火車切りの着物を指した。いつもと同じ、見慣れた細かな花柄の打ち掛けだ。
「ぬしさま? うちら、違う着物なんて着られしまへん。自由に着物を脱ぎ着しとるわけやあれへんもの。うちはこの姿のご母堂さまがいっとお気に入っとるんや。せやから姿を借りとるんよ」
そうなのだーー僕もそう聞いている。付喪神達の人の《姿》はあくまでも借り物なのだ。彼らの本体は器物だから。
すると、火車切りが驚くことを言った。
「ほんなら、ぬしさまが夢にみたそれは、ほんまもんのご母堂さまやな」
「えっ? ほんまもんて……本物の?」
母上?
僕がじっと見つめていると、火車切りは笑って大きく頷いた。
「夢枕に立つ言うて、現世には肉体や姿がない者は夢の中であれこれ言葉を伝えたりするもんや。夢の中なら現世で肉体や器がのうても何でも出来る。ご母堂さま、きっとぬしさまが心配にならはって様子見に来てくれはったんよ」
「じゃあ……じゃあ、あれは火車切りじゃあなくて、本当の母上? あれが僕の母上?」
僕は自分の掌を見つめたよ。
さっきまでこの手に感じていた不思議なぬくもりが、まだそこに残っているような感じがした。
僕の頭を撫でてくれた優しくてふわふわした感覚は、父上に同じことをしてもらった時のそれとも、育て親のお船にしてもらった時とも違う気がする。
「そう言えば……母上がよくわかんないこと言ってたなあ……おうまさまとか、おもうさま……とか」
「おもうさまって、お父上のことやろ?」
「父上?」
「そうや。むかし、ご母堂さまがご自分で言わはっとったわ。御所にいた付喪神らの話じゃあ、御所へ上がる人らってお父上のことはそない言わはるんよ。母上さまのことは……確か、《おたあさま》とか言わはったかしら」
おもうさまにおたあさまーーさすが、母上は都の貴族の生まれだというから、僕らとは使う言葉が少し違うのだろう。
僕は先程夢の中で母上に掛けられた言葉を思い出してみた。
ーーお前のおもうさまも、ようけ言うてはったわあ
「……じゃあ、あれは父上がよく言ってたってことだったのか……」
定めは変えられなくても、どう生きるかは自分の好きに出来るーー僕は呟いて火車切りに尋ねた。
「ねえ、火車切り? 先読みの夢ってさ? これから起こることを一足先に夢で見ているって言うじゃない?」
「せやねえ。ぬしさまのご母堂さまは、過去のことも夢に見るて言うてはったわあ」
「過去のことも?」
「そう。過去見やね。しかも自分の身に起きた過去だけやのうて、誰のか知らん人の過去とかこれから先に起こることとかを沢山。せやから、色んな人によう頼まれとったみたいやわ。占いよりよっぽど当たるて、貴族の間じゃあ有名やったらしいんよ。ほら、あの……信長が本能寺で光秀に討たれたことなんかも夢に見たらしいもの」
「ええ? そうなの?」
「ご母堂さまが夢に見たんは信長が死んだ何年も後のことらしいけど……ご母堂さまが指示した場所を掘り返してみたら、信長の名物の茶器が出てきはったんやて。ほら、ご母堂さまのお父上って権大納言やったんよ。本能寺に光秀が討ち入る日の信長のお茶会にも呼ばれとって、名物の茶器の行方を心配しとったんや」
「そうなんだあ……それじゃあ、やっぱり先読みや過去見の夢で起きたことは、絶対現実になるってことだよね……」
こんなことは改めて尋ねるまでもないんだけれど、それでもやっぱりあれはけっこう堪える夢なので、出来れば間違いであってほしかった。
「せっかく仲良くなれたのに……」
「ぬしさま、どないしたん?」
僕は覗き込んできた顔を見つめた。夢に見た顔と何もかがそっくりなのに、やっぱりどこか何か違う気がする。
僅かな表情の違い?
目の動きだろうかーーあれは本当の僕の母だったのか。
「御殿の交流会で仲良くなったお姫様がいたんだけど、先読みの夢の中で……もう関わり合いにならない方がいいですって言われちゃったの。そのお姫様の兄上が学寮にもいるんだけど……なんか、めちゃくちゃ嫌われててさあ……今回の鬼のことも、その兄上が原因だし……僕、何か、力になりたかったんだけど……」
「ああ――こないだ幽世へ来はった、鍋島のおひいさま?」
「……そう」
僕が投げやりに返事をすると、火車切りの付喪神は驚くべき事を言った。
「あのおひいさまの兄上って、学寮に出仕してはるん? なんや、ご実家では廃嫡にならはったってみんな話をしとったわ」
「はいちゃく?」
いつかどこかで聞いたような言葉が僕の耳に引っかかった。
「そう。確か鍋島のご当主って、徳川の家から来はった方をご正室に迎えとるんや。それがおひいさまのお母上やな。で、その御方に男の子が生まれたーーせやからその子を鍋島の跡継ぎにするつもりなんや」
「そうだったんだ……学寮にいるから、てっきり元茂殿が鍋島の家の後を継ぐんだと思ってたよ」
学寮は将来の藩主たちを育成する場所だから、僕は当然そうなんだと思っていた。僕の周囲にもそういう人しかここにはいなかったし。
廃嫡……というのは、嫡男という立場を外れるということだよ。家の跡取りでなくなるということだ。
それを考えると、市が兄上のことを心配していた理由もなんとなくわかるような気がした。
僕の脳裏を過ぎったのは、鬼が現れた時の元茂の虚ろな表情だよ。
藤寮のみんなと騒ぎを起こしていた時に彼が漂わせていた重くて暗い気配。僕らの前に立ちはだかって闇の龍脈のそれを取り出した時の引き攣った笑顔ーー思い出すだけで胸が苦しくなってくる。
(元茂殿はあんな危ないものをどうして持っていたんだろう……)




