31・フランシスコとの再会と警告
忠郷の母親はそれからすぐに学寮の偉い人達が迎えに来た。
そうして一緒に表の方へと静かに歩いて行ったよ。みんなで何か話でもするんだろう。
「今回に限ったことじゃねえや。度々学寮へ怒鳴り込んでくるような母親なんだよ。これでわかっただろ? どうしてお前らの寮の監督官を学寮長さまが兼任なされているのかさ」
勝丸は、慣れているとでも言う風に首を振ったよ。
そうして彼もまた学寮の上役たちが消えていった方へ歩いて行った。
忠郷はそれからしばらく戻って来なかった。
ようやく戻って来たのは、僕らの部屋に夜の食事が運ばれてきた頃だ。
部屋にいた僕らを見るや、忠郷は
「あたしも出るわよ!」
と言ってふんぞり返った。
部屋へ戻ってきた忠郷は、僕らが知ってるいつもの彼に戻っていたよ。鈴彦はごはんが入ったおひつを持ったまま固まっている。
「ど、どうしたの帰ってきて早々……」
「これ以上お母さまの言いなりになんてなってたまるもんですか。あたしも上覧試合に出るわ!」
「お前……泣くほど嫌がってたくせに、一体どういう心境の変化だ?」
「嫌がるもなにも……今でも嫌よ剣術の試合なんて! だけど、これまでのことを考えたら……ここでまたお母さまの言うことを聞いたら、どうせまたろくなことにならないに決まってるもの」
忠郷がいつもの定位置に座る。鈴彦が部屋のすみに置いていた忠郷の分のお膳をさっそく彼の前に置いた。
「……剣術の師範殿にも、試合には出るのか出ないのかと色々聞かれていたの。でも、ちゃんとそう話をしてきたのよ。それで、少し稽古をつけてもらっていたわけ」
「そっかあ! そうなんだ! じゃあ忠郷もこれからは剣術の稽古の授業に参加するんだね」
「……だけど、今から稽古したくらいで何とかなるわけねえだろ。試合はもう目前なんだぞ?」
「だから、師範殿に教えてもらってたんじゃない!」
「それこそ、それくらいでどうにかなるわけねえーだろ! お前……わかってんだろうなあ? 俺達の試合相手には学寮最強の生徒がいるんだ!」
ほうらね……鶴の寮はいつもこうだよ。忠郷と総次郎が顔を突き合わせて口論を始めている。
さっそく始まったいつものケンカ。
だけど僕はなんだかちょっぴり安心したよ。
だって忠郷がいつも通り、元気な彼に戻ったんだからさ!
その日の夜、忠郷が復活したこともあって僕ら鶴寮の面々は早速準備に取り掛かった。
フランシスコにロザリオを返してあげるのだ!
「あいつが客間で探していた物を見つけたんだからさ、ここへ置いておけばきっとあいつここへ現れるに違いないよ。本当にこの数珠が心残りで現世に留まっているならね」
死者のプロがそう言うので、僕らは従うことにしたよ。
南の御殿の蟹の寮の生徒から借りてきたフランシスコのロザリオと、今日、僕らが見つけたロザリオの珠を僕らの寝所に置いておく。
一緒に総次郎が学寮へ持ってきていた小さな絵も置いたよ。僕にはよくわからなかったけど、総次郎が言うにはキリシタンが好きそうな絵だっていうからさ。
総次郎は《マリアさま》の絵じゃないかって言っていたけど、本当のところはよくわからないんだって。
「あんたもわけわかんない奴ねえ……何を描いたのかよくわかりもしない絵を、大金払って買う神経がわからないわよ」
「うるせえなあ……こういうのは感じるものなんだよ! 理屈じゃねえんだ!」
「とにかく、フランシスコが喜んでくれればいいけど……」
僕は祈るような気持ちを胸に眠りについた。
蟹寮のみんなも北の御殿へ来てくれるのではと期待したけれど、ずいぶん待ってもそれはなさそうだった。
そうしてどれくらい深く眠っていただろう。
僕はユサユサと自分を揺り動かす力で目が覚めた。顔にかかるふさふさとした長い毛で枕元に火車がいることがわかる。
「来たぞ! あいつだ! なんとかなんとかって名前のあの幽霊が来た!」
「ええ? ほんと? フランシスコ殿?」
「ほらあ! お前らも起きなよ! なんとかなんとかが来たぞ!」
火車は声を張り上げて忠郷と忠宗を呼んだ。忠宗は寝起きが悪いから、身体の上に飛び乗ってびょんびょん飛びはねる。
「はああ……いったいなにごと?」
忠郷がこちらを眠そうに見たので、僕は足元の方を指した。
そこにはもやもやとした人の姿をした何かが、僕らに背中を向けてしゃがんでいる。
総次郎の絵を眺めているんだとわかった。
《……マリア様だ。マリア様の絵だ……》
「あの絵を気にしているわよ総次郎! やっぱりキリシタンが好きな絵なんだわ!」
忠郷の声に幽霊は身体を震わせた。
聞こえるんだ、忠郷の声が―—僕は身体を起こして彼に近寄った。
「ねえ、君は……フランシスコどのでしょう? 南の御殿の、蟹の寮にいた生徒だよね。夕べも客間で会ったよね。覚えてる?」
振り返った生徒は、絵に向かって手を合わせていたよ。彼の細い手首には、薄紫色をした石で出来た数珠が巻かれていた。
「ああ、それって……もしかして……」
生徒は僕の顔を見てうなずいた。その顔はうれしそうに笑っていたよ。
《……珠を集めてくれてありがとう。ロザリオが壊れちゃって、ぱらいそに行けなかったんだ。それで困っていたの》
「ぱらいそ? ぱらいそって?」
「磯? 海?」
「……馬鹿だな。極楽浄土のことだよ」
眠そうな総次郎の言葉に、フランシスコは笑ってうなずいた。
「よかったあ。じゃあ、もう大丈夫なんだね。何かやり残したこととか心残りとかはない?」
「あんた……南の御殿の連中にいじめられていたんでしょ。恨んだりしてるんじゃないの? 復讐するつもりで学寮に化けて出たんじゃないの?」
フランシスコは首を横に振った。ロザリオをそっと撫でている。
《そんなのはへっちゃらだよ。学寮にいる間は……神様にお祈りしたり、歌を歌ったり……自由に出来てうれしかった。実家にいたら、そんな風には出来ないもの》
すると、フランシスコは僕の顔をじっと見て言った。
僕には夕べ客間で見たときよりもずっとずっとフランシスコの声がはっきりと聞こえたよ。ロザリオが戻ったせいかもしれない。きっと安心しているんだよ。
《ねえ、みんな……気をつけて……》
その言葉にようやく総次郎が立ち上がった。僕らは顔を見合わせる。
《ぼく……学寮のみんなには誰にも言わなかったけど……ずっと変な勧誘をされていたよ》
「かんゆう?」
フランシスコは静かにうなずいた。そうして背後を振り返る。
彼の視線の先には総次郎が用意した絵があったよ。
マリア様、という僕の知らない女の人の絵。
《将軍さまには禁止されてるけど……だけど、大阪の豊臣家に味方をすれば、僕らの信仰を許してあげるって言われたんだ……》
「一体どういうこと? 誰があんたにそんなことを言ったの?」
《僕……それで、兄上に相談したんだ。僕の兄上は家康さまにもうんと信頼されたお殿さまなんだよ……だから、徳川の家を裏切るなんて絶対に出来ない。僕が死んだのは……仕方ないことだったんだ》
「お前を大阪の豊臣家に誘ったのは……まさか、学寮にいる人間なのか?」
フランシスコは総次郎の問い掛けにうなずいた。
《気をつけて……みんな。そいつ、他の生徒にもきっと……声をかけているよ。みんなの願いを叶えるのと引き換えに……徳川の家を裏切るようにって……豊臣家に味方するようにって……そいつ、そう声をかけているよ》
すると、フランシスコの姿が大きくゆがんだ。ふにゃふにゃになって、霧のような靄へ変わっていく。
「さあ、お別れだぞ。もうこいつはあの世へ行かなきゃならないんだ」
火車がフランシスコの幽霊に近寄りながら僕らへ言った。
「もう迷わず行けよな! おいらの担当は地獄だから、お前が行く場所のことなんて知らないんだぞ。道に迷ったって案内なんか出来ないんだからね。仕事もお休み中だしさ」
《みんな……ロザリオの珠、見つけてくれてありがとう。これで僕も母上や弟のいるぱらいそに行けるよ》
「み、南の御殿の生徒たちも……悪いことをしたって言ってたのよ。あんたのロザリオを壊したことを謝っていたわ。悪いことをしたって……だから……」
「そ、そうだよ! 蟹寮のみんなも!」
ぼんやりと透けたフランシスコの顔は笑っていたよ。僕はなんだかその表情には見覚えがあって、だけど少しも思い出せなかった。
フランシスコが消えると、そこはまたいつもの僕らの寝室に戻った。
「……なんだ。ロザリオの珠、ここに残っているじゃない」
「馬鹿だなあ、お前も。幽霊がこんな物質的なものをあの世へ持っていけるわけないだろー。これはあいつの実家にでも帰して、一緒に墓にでも埋めてもらうんだな」
馬鹿、なんて言われたのに忠郷は火車に文句も何も言わなかったよ。
ぼんやりと畳の上に残されていたロザリオとロザリオの珠を見つめて忠郷はつぶやいた。
「……ひどいことをされたっていうのに……それでもあんな風に笑って許せるものかしらね……」
「あの様子じゃあいつ……やっぱり自害はしてねえだろうな。ぱらいそに行くってことはつまりそういうことだ。自害なんかしてたら教えに背くことになる。ぱらいそには行けねえだろ」
「それってつまり、蟹寮の三人が言っていた通りってことだよね」
それよりも、と言葉を続けた総次郎はみけんに深いシワを作って僕と忠郷と火車の顔もにらみ付けたよ。
「……あいつが言ってたこと……お前らも聞いただろ?」
「ああら。てっきりあんたはまだ夢の中にいるかと思ってたのに、聞いていたわけ? 徳川の家を裏切るように声をかけている、ってやつでしょ」
忠郷はおぞましいものを見るような目で忠宗を見た。
「信じられないわよ……だってここは、徳川の……将軍さまのお城の中なのよ? そんなところで、徳川の家を裏切って豊臣の家の味方になれなんて……そんなことをあたしたちに言うやつがいるなんて……」
その時、僕は気が付いたよ。
僕は壁に立てかけるようにして置いていた総次郎の絵を指して言った。
「総次郎のその絵、役に立ったね。フランシスコが見てたもん!」
「ほらみろ。南蛮人やキリシタンの連中はみんなこいつが好きなんだ」
「何の絵かだけでもわかってよかったわねえ、忠宗? マリア様って、つまり観音様みたいな女のひとのことでしょ? うちにもおじいさまが大事にしていた像があるわ」
別れ際のフランシスコの顔を思い出して僕はうなずいた。
それは本当に静かで、穏やかな微笑みだった。
まるで、絵の中の女の人の表情とそっくりだったよ!