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32・もうお前の言いなりにはならない

 剣術の上覧試合が行われることが決まってから、授業の予定がいつもとは少し変更になったよ。


 いつもより剣術の授業が増えたんだ! 僕らは中食を食べて再び道場へ戻った。


「うーん……稽古はずいぶんしてると思うんだけど、やっぱりまだまだ総次郎には勝てないよなあ」


 稽古を終えた僕は竹刀を見つめて呟いた。何度か素振りを繰り返して首をひねる。


「当たり前だろ、くそちび。お前みたいなガキに負けるほど落ちぶれちゃいねえ」


 僕は頬を膨らませて総次郎を睨み付けた。そりゃあね? 総次郎は僕より四つも年上なんだかさ? しかしそれにしたって、もうちょっと柔らかな言い方ってものがないんだろうか。


「もっとも? 世の中にはああいう奴もいるから、稽古をするだけまだましだろうぜ」


 そう言って総次郎が指したのは道場の端っこだ。


 そこには忠郷が一人で座ったまま扇子を広げている。客間へ母上が来たので呼ばれた彼だけど、先に学寮の上役たちと話をするからとすぐに部屋へ戻ってきた。


「忠郷って……本当にずうーっと武道のけいこをしないのかな?」


「お前がくる前からそうだぜ。授業はほとんど見学だ。身体が弱いからそういうことはさせるなって、お母上さまに言われてんだとさ」


「へえ……」


 そういう話は何度か忠郷本人からも聞いたことがある。自分は身体が弱いんだって。


 めまいがするとか、胸が苦しくなるわーーとかそういうことを。


 だけどそういう事を言った途端、「だから一人部屋にしろ!」 


 ……と、勝丸に詰め寄るのがいつもの彼のパターンだったけど。


「でも、本当に具合が悪そうにしてるところは見たことないけどなあ。総次郎はある?」


「ねえよ。全部仮病だと思ってた。だが、ゆうべの話を聞くに、親が神経質で過保護なんじゃねえのか? 身体が弱いからって女のフリまでさせてたんだろ?」


 頭がいかれてるーー総次郎が冷たく忠郷を睨み付けて言った。


「ゆうべの話って?」


「ああ、そうか……お前はいなかったな……」


 総次郎は数秒逡巡したように見えたけど、結局そのまま黙ってしまった。


「まあ……忠郷はもうお殿さまなんだもんね。僕らとは違うのかもしれないよ」


「大御所さまのご一族なら何もかもが思うがままだ。まったくいいご身分だぜ。他の御殿にいる息子どもも、ぶっ殺してえぐらいにやりたい放題……どいつもこいつも、ふんぞり返って偉そうに」


 すると、剣術の師範殿が忠郷に声を掛けている光景が飛び込んできた。二言、三言何かを話している。


「大体、この学寮は将来の藩主を育てるための場所なんだろ? それなら、もう藩主であるあいつがいる意味って何なんだ? こんなところで暇そうに授業も見学しやがって、一体会津藩主の仕事は誰がしてるんだ?」


 それはそうだ……僕は思い出す。


 僕とも二歳しか歳が違わない忠郷が会津の藩主になったのは、忠郷の父上が死んでしまったからだ。


 藩主だった父上の後を継いで忠郷が会津の国を任されたーーだけど、それなら確かに忠郷が会津藩主としての仕事をしないといけないよね?


 僕はこの間の交流会の時に忠郷が皐姫に言っていた言葉を思い出して総次郎に言った。


「ねえ……会津の国は……大丈夫なのかなあ? もしもだよ? もしも忠郷が会津藩主の仕事をなーんにもやってなくて、国がとんでもないことになっちゃったら……」


 すると、しばらく考えこんだように黙っていた総次郎が、

「これは親父に聞いた話だが」

 ーーと、前置きしてから話し出した。


「……蒲生家ってのはあいつのじいさまが急死したもんだから、それ以降家中の統制がてんで上手く行ってねえらしい。あいつの親父の時代もてんで酷かったらしいぜ。あいつは上杉に会津を簒奪されたなんて言ってやがったが、実情は家中がしっちゃっかめっちゃかで宇都宮に左遷されたんだろ。そうして家中がまとまらねえまんま会津にまた引き戻されて、それが何一つとして改善されねえうちにあいつの親父は死んじまったんだ」


「えええ……そうなの?」




 会津は大きな領国だ。北の要であるから、滅多な大名には任せられないーーそういう理由で、うちは太閤殿下に会津の領主を任されたと聞いたもの。


 会津がおかしくなったら、その余波が米沢や仙台にまで及ぶような……ことにだけはならないでもらいたい。


 僕ら二人はけだるそうに立ち上がる忠郷を、ただただ不安な気持ちで見つめていた。


「それにしたって……俺達の試合相手は柳生師範の弟子がいる寮なんだぜ? あの様子だと勝丸は忠郷を試合に出させるつもりかもしれねえが、竹刀を握ったこともねえんじゃ戦力になりゃしねえ」


「だけど、忠郷が出なかったら僕の寮、一人不戦勝になっちゃうよ?」


 僕らがため息をつきながら忠郷を見つめていたら、彼に駆け寄る人が現れた。僕らのお部屋番の鈴彦!


 現れた鈴彦から何やら小声で話を聞いた忠郷は、取り乱したようになにやら叫んで道場を出て行ってしまった。


「な、なんだろう? どうしたんだろうね」


 僕と総次郎は顔を見合わせた。


「ねえ、鈴彦! 何かあったの?」


 僕らが近寄ると、鈴彦は青い顔をしたまま言った。


「それが……た、忠郷さまのお母上さまが勝丸殿とひどくもめているんです」


「はあ?」 


「なんでも……忠郷さまを、江戸のお屋敷へ連れて帰るとかで……むりやり御殿の中にまで押し入ってしまわれたんですよ」


 僕と総次郎はもう一度顔を見合わせたよ。


 これはとんでもないことが起きているかもしれない!




 忠郷は武術も苦手だし、運動も今ひとつだ。だから足も遅いし、身体も固い。廊下をあわてて駆けていく忠郷に僕らは難なく追いつくことが出来た。


 まあ、ちょっと廊下を全力疾走しちゃったけどさ。


 忠郷に声を掛けようとした僕は、聞こえてきた声に驚いて喉がつまってしまったよ。


 その声は僕らの、鶴の寮の部屋から聞こえていた。


「お黙り! お前ごとき学寮の下僕にあれやこれやと指図されるようなことではない! これは、蒲生家の問題。外の人間が口を挟むことではないわ!」


「……ですが、生徒を突然連れて帰るなんてことは、いっくらあなたが大御所さまのご息女であろうとも、到底認められることではございませんぜ、忠郷のご母堂さま。なぜなら、一度ここへ来た生徒が学寮を休んで実家に帰るには届けを出してもらう決まりになってる。そうしてそれが受理されねえことには、家へ帰すことは出来ない。もう何度もそうご説明申し上げたはずだ」


 僕らは部屋の入口からこっそり中の様子をうかがった。


 僕らの部屋の中——今日もけっこう散らかった鶴寮の部屋に、きれいな着物を羽織った女の人の後ろ姿が見える。彼女に勝丸が必死に話をしているんだ。


「休学を申請するには、それなりの理由が必要だし、それが寮監督はもちろんのこと、学寮長や、果ては将軍さまにだってお認めいただかなけりゃあならねえんだと聞いている。突然学寮へやって来て生徒を連れて帰るだなんて……それじゃあ、生徒をさらうも同じこった」


「何を言う! 実の母親が実の息子を、実の家に連れて帰ろうと言うのに、それを……さらうとは一体どういうことじゃ!」


「あ、あれは……お前の母親か?」


 総次郎が忠郷の顔をのぞき込んだ。忠郷はひきつった顔をして、部屋の中を見つめていたよ。顔は真っ白く、表情はかたまっていた。


「だから……その申請とやらがちっとも受理されぬのだと申しておるだろうに! 兄上さまにも、駿府の父上さまにもお願い申し上げているのに……ちっとも忠郷がわらわの元へ戻らぬ理由は一体どういうわけじゃ。忠郷は会津の藩主。わらわの元へ帰り、藩主の仕事をするのが道理であろう! 学寮へは弟の忠知をやります」


「だから、ここは藩主となるに必要なことを学ぶところなんだから……あんたのご長男にいてほしいというのが、学寮長さまや将軍さまのご意向なんだろうと思いますよ。俺も弟君ではなく、ご長男の忠郷どのこそをこの学校に居させるべきだと思いますがね」


 すると、忠郷がふらふらと部屋の中へ入っていった。


「た、忠郷……」


 僕は引き留めようと手を伸ばしたけど、すぐに彼が母親に声を掛けたのがわかって、その手を引っ込めた。


「……こんなところまで何しに来られたのですか、母上」


 部屋にいた二人が同時に振り返った。勝丸は困ったような顔をしていたよ。女の人は軽く息を吐いて忠郷に近寄った。


「忠郷、屋敷へ帰ります。いつまでもこのような場所におってはお前のためにならぬ」


 忠郷が「母上」と呼んだその女の人は、忠郷の手を取ると勝丸に背を向けて歩き出そうとしたよ。


 だけど、忠郷は動かなかった。


「忠郷?」


 忠郷は俯いて固まっていたよ。動く気配がない。足の向きが変わる気配も、長い髪の毛がゆれる気配もなかった。


「荷物はすぐに家の者に取りにこさせよう。お前が大事にしている着物も、鏡台もみなすぐに運び出して屋敷に……」


「一体何をしに来たのかと聞いておるのですよ、母上!」


 忠郷は勢い良く母親の手を振り払って叫んだ。一瞬、忠郷の母上は目を丸くして驚いていたけれど、すぐに彼に言った。


「お前のことは、この母がいちばんよくわかっておる。伊達や上杉の家の人間なんぞと、かような狭い部屋で息の詰まる暮らしをしておるだろうに……不憫なことじゃ。わたくしと引き離されたことをいいことに、会津の裏切り者の家来どもが、学寮のお前のところに手紙を送り付けておると聞く。よからぬこと、ありもせぬろくでもないうわさをお前の元へ届けておるのだろう? この母はみな知っておるぞ。わかっておるとも……」


 僕と総次郎は声は出さずに視線を合わせたよ。


 忠郷宛に山のように届く手紙……彼が読む気配も見せなかった、机の上の手紙の山を、僕らはじっと見つめた。


「……裏切り者かどうかはまだわかりません。母上が家臣たちの言葉にちっともお耳を貸さぬので、皆、私に宛てて文を送ってくるのです。わかりますよ……そんなことは中身を見ずとも」


「おお……忠郷。なんということ……母の言うことを聞いておくれ」


 忠郷の母上は彼を一度抱き締めてから頬を優しくなでて言った。


「皆、お前がまだ若く幼い子どもであるのをいいことに、わらわから引き離して自分のものにしようと企んでおるのじゃ。皆、お前のことなど誰もちゃんと考えてはおらぬ。お前のこと、蒲生の家のこと……誰よりも一番ようく考えておるのは、この母じゃ。だからこそ……お前は、わらわの言うことを聞いておればよい」


 忠郷の母上が彼の頭を優しく撫でたよ。何度も、何度も。


 だけど、忠郷の表情は変わらなかった。感情のない表情でぼんやりと彼女を見つめている。


「……父上さまのようになってはいけませぬぞ。そうとも……わらわがそうはさせぬ。蒲生の家は、わらわが必ず立派な会津の太守にしてみせる。なればこそ、お前はわらわの言うことだけ聞いておれば……」


 すると、再び忠郷は母親の両腕を振りほどいた。ふるえる両手が彼の母親の身体を突き放す。


 そうして忠郷は自分の文机に駆け寄ると、山のように積まれた自分宛ての手紙を彼女に向かって投げ付けた。


「聞いた結果がこれでもか!」


 山の下の方から一つ取り出して投げ付けたそれは、手紙の封が開いていた。蛇腹折りの手紙が宙を舞って、ふわりと彼の足元に落ちる。


「……うんざりだ。もううんざり……会津の国の様子を考えただけでゾッとするわ! 吐き気がする! 家来たちは誰一人として、国がうまく行ってるとは言ってこない。言ってくるのは、お母様への不平不満と家来同士の争いのことばかり。どうして自分は何もしてくれないんだと……そう文で私を直接ののしる奴もいる。家来たちがこんな有様で……国が上手く行ってるはずなんかないじゃない!」


 忠郷の瞳からは涙が溢れた。 


 僕は思わず部屋の中へ飛び込んだよ。


「ちっとも上手く行ってない……お母様のいうことを聞いたって……蒲生の家は、会津は……わたしは……ちっとも、さっぱり……なにもかもぜんっぜん……上手くなんか行ってないじゃないですか!」


 忠郷は懐から取り出した文の一つを、思い切り握り潰した。


「今日ここへやって来た理由だって予想がつくんだよ! 剣術の試合だろ? 上覧試合のことを聞いて、それでやって来たんだ。自分を家へ連れ戻すために。そりゃあそうだろうよ。ふだんの授業も見学しているような自分みたいな奴が剣術の試合になんか出たって負けるに決まってる。蒲生の家の恥になるだけだ。将軍様の御前で派手に負けて恥をかくくらいなら……いっそ学寮になんか居ないほうがいいに決まってる! だから私を迎えに来たんだろう!」


「忠郷……おまえ……」


 勝丸が忠郷を見つめて呟いた。


 忠郷の叫びは、普段の彼の喋り方とはぜんぜん違っていたよ。僕らにはどちらが本当の彼かはわからなかった。


 今、こうして彼が自分の母親の前にいる時の忠郷と、いつも僕らと一緒にいる時の高飛車でワガママな女々しい彼と。


「だけど……自分は帰らない! 会津にも、江戸の屋敷にも帰りません。ここでみんなの文を読んで、何かあれば直接自分に言うように……これからはそうみんなに返事を書きます。会津藩主として」


「お前……どうしてそんな風に……どうしてそんなことを言うの……いつからお前はそんな風に……」


 うろたえた様子でそう呟く母親を見もせずに、忠郷は勢い良く駆け出した。それ以上には何も言わず、部屋を飛び出してしまったよ。


「た、忠郷!」


 僕はもう一度彼を追い駆けようとしたけれど、総次郎に止められてしまった。


 忠郷の母上が後を追うように廊下へ出てきたけれど、彼女も僕らと同じように次第に小さくなっていく彼の後ろ姿を見つめていただけだった。

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