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逃げる花嫁と、追わない御曹司――契約恋人は毎晩本音をひとつ求めてくる  作者: そらのことのは


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第8話 帰る場所があるから、遠くへ行ける

 ロンドンの出版社からの連絡は、結局その日の夜まで続いた。


 黒瀬グループが共同出資する可能性がある。

 怜央も現地入りするかもしれない。

 澪の翻訳監修は予定通り進む。


 すべてが、急に現実味を帯びていく。


 リビングのテーブルには、ロンドン行きの資料と、婚約解消合意書が並んでいた。


 澪はその二つを見比べて、小さく息を吐いた。


「なんだか、最初の契約書みたいですね」


 怜央が少しだけ目を細める。


「今回は、契約じゃなくて話し合いがしたいんです」


 言ってから、胸が少しだけ震えた。


 逃げる前に言う。

 決める前に話す。

 本音を隠さない。


 たったそれだけのことが、澪にはまだ怖い。


 怜央は婚約解消合意書を手に取り、しばらく見つめた。


「これは、破棄します」


「いいんですか」


「はい」


「会社は?」


「提携は、婚約とは切り離して進めます。今日の会議で、それは通しました」


「じゃあ、私たちの婚約は」


 怜央は顔を上げた。


「偽装としては、終わりにしましょう」


 胸が、きゅっと縮む。


 わかっていた。

 それが正しい。


 けれど、怜央は続けた。


「そのうえで、僕はあなたと、改めて付き合いたい」


 澪は息を止めた。


 契約でもない。

 会社のためでもない。

 誰かに見せるためでもない。


 ただ、彼自身の言葉だった。


「……私、面倒ですよ」


「はい」


「すぐ不安になります」


「はい」


「自由でいたいし、多分……距離を取りたくなります」


 怜央は苦笑した。


 澪は視線を落とした。


 嬉しい。


 そう思った瞬間、怖くなる。


 嬉しいものは、失うと痛い。

 大事な場所は、壊れたら戻れない。

 だから今まで、作らないようにしてきた。


 でも、もう遅かった。


 ここはもう、澪にとってただの仮住まいではない。


 朝に紅茶が置かれる場所。

 夜に本音を一つ言う場所。

 逃げても、帰ってくるかどうかを選ばせてくれる場所。


 澪はゆっくり顔を上げた。


「私も、あなたといたいです」


 怜央の目が揺れる。


「でも、私の“いたい”は、ずっと隣に座っていることだけじゃないと思います」


「わかっています」


「ロンドンにも行きます。仕事もします。帰れない夜もあると思います。連絡できない日も、たぶんあります」


「はい」


「それでも」


 声が震えた。


「戻ってきたい場所があると思いながら、行きたいです」


 怜央はしばらく黙っていた。


 そして、低い声で言った。


「僕の本音を言います」


 澪は頷く。


「待つのは怖いです」


 怜央の指が、テーブルの上でわずかに握られる。


「連絡がない夜も、あなたが遠くにいる日も、きっと怖い。でも、あなたを閉じ込める方がもっと怖い」


 澪の胸が痛む。


「だから、待ち方を覚えます」


「待ち方?」


「不安を黙って溜めるのではなく、言葉にする。あなたの自由を責めるのではなく、僕の寂しさとして伝える」


 怜央はまっすぐ澪を見た。


「それを、一緒に決めたい」


 澪は泣きそうになった。


 欲しかったのは、それだった。


 追ってほしいわけでも、止めてほしいわけでもない。

 一人で決めたくなかった。


 澪は資料の裏に、ペンで線を引いた。


「じゃあ、ルールを作りましょう」


「契約ですか」


「違います。約束です」


 澪は一つずつ書いていく。


 毎日連絡しなくてもいい。

 でも、黙って消えない。

 不安になったら責める前に言う。

 帰る日が決まったら、最初に伝える。

 本音を言えなかった日は、無理に手を繋がない。


 そこまで書いて、澪は手を止めた。


 怜央が静かに聞く。


「最後は?」


 澪は少し迷ってから、書き足した。


 会いたい日は、会いたいと言う。


 それを見た怜央の表情が、ほんの少し崩れた。


「いい約束ですね」


「黒瀬さんも何か足してください」


 怜央はペンを受け取る。


 少し考えてから、最後に一行を書いた。


 帰ってきたら、おかえりと言う。


 澪はその文字を見つめた。


 たったそれだけなのに、胸の奥が熱くなる。


「それ、ずるいです」


「なぜ」


「泣きそうになるから」


「泣いてもいいです」


「そういうところも、ずるいです」


 怜央は手を伸ばした。


 今度は、契約のためではない。


 澪は少しだけ迷って、その手を握った。


 温かかった。


 最初に空港で彼に捕まったとき、この手は逃げ道を塞ぐものだと思った。

 けれど今は違う。


 つなぎとめるための手ではない。

 戻ってきたとき、そこにある手だ。


 数週間後。


 出発の日、空港はやはり人であふれていた。


 スーツケースの音。

 アナウンス。

 コーヒーの匂い。


 全部、始まりの日と同じだった。


 けれど、澪はもう逃げるためにここにいるのではなかった。


 怜央は搭乗口の少し手前で立ち止まる。


「ここまでにします」


「中まで来ないんですか」


「行ったら、止めたくなるので」


 正直すぎる答えに、澪は笑った。


「今日の本音ですか」


「はい」


「じゃあ、私も」


 澪はスーツケースの持ち手を握り直した。


「行くのが楽しみです。でも、離れるのは寂しいです」


「はい」


「それから」


 言葉にするのは、まだ少し怖い。


 でも、逃げずに言う。


「帰ってきます」


 怜央の目が静かに揺れた。


「待っています」


「はい」


「でも、今は少しだけ嬉しいです」


 怜央が笑った。


 ほんの少しだけ。

 でも、澪にはもうわかる。


 これは彼の、本当の笑い方だ。


 搭乗案内が流れる。


 澪は一歩進み、振り返った。


「怜央さん」


 名前で呼ぶと、彼の表情が一瞬だけ止まった。


「行ってきます」


 怜央はゆっくり頷いた。


「行ってらっしゃい」


 その言葉を聞いた瞬間、澪は初めて思った。


 遠くへ行くことは、失うことじゃない。


 帰る場所があるから、遠くへ行ける。


 搭乗口の向こうへ進みながら、スマホが震えた。


 怜央からだった。


「今日の本音。もう寂しい」


 澪は立ち止まり、笑ってしまった。


 そして、返信する。


「私も。でも、ちゃんと行けます」


 少し迷って、もう一文を足した。


「帰りたい場所があるので」


 送信して、澪は前を向いた。


 窓の向こうで、飛行機が朝の光を受けている。


 かつて逃げ道だった空は、今は未来へ続いていた。


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