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逃げる花嫁と、追わない御曹司――契約恋人は毎晩本音をひとつ求めてくる  作者: そらのことのは


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第9話 おかえりを言える場所

 三か月後。


 到着ロビーに出ると、怜央は柱のそばに立っていた。


 濃紺のコート。

 片手にはスマホ。

 もう片方の手には、何も持っていない。


 澪に気づいた瞬間、彼はスマホを伏せた。


 それだけで、澪は少し笑ってしまった。


「待ちました?」


「いえ」


 澪はスーツケースを引いて、怜央の前に立つ。


 少しだけ息を吸った。


「ただいま」


 怜央の目が、ほんのわずかに揺れた。


「おかえり」


 静かな声だった。


 空港のざわめきの中で、その一言だけがまっすぐ届いた。


 澪はスーツケースの持ち手を握り直す。


 泣きそうになったことは、言わなかった。


 怜央が手を伸ばす。


「持ちます」


「自分で持ちます」


「知っています」


「じゃあ、どうして」


「持ちたいので」


 澪は数秒だけ彼を見て、それから手を離した。


「変わりませんね」


「変えた方がいいですか」


「全部は変えなくていいです」


 怜央は少しだけ目を細めた。


 それは、笑ったのだと澪にはわかった。


 二人で歩き出す。


 空港の床を、スーツケースの車輪が小さく鳴る。


「ロンドンは」


 怜央が聞いた。


「寒かったです」


「仕事は」


「忙しかったです」


「食事は」


「少し合いませんでした」


「睡眠は」


「……そこまで聞きます?」


「聞きます」


 澪は吹き出した。


「ちゃんと寝ました。寝落ちもしましたけど」


「そうでしたね」


「え?」


「夜中に『起きたら返事します』と送ってきたまま、朝まで返事がなかった日が四回ありました」


「数えてたんですか」


「はい」


 怜央はあっさり認めた。


 澪は笑ったまま、少しだけ目を伏せた。


「でも、責めませんでしたね」


「本音を言うと、責めたかった日もあります」


 怜央の歩く速度が、ほんの少し遅くなった。


 澪は気づいたけれど、何も言わなかった。


 空港の外に出ると、夕方の風が髪を揺らした。


 懐かしい湿度だった。


 怜央が車の鍵を取り出す。


 そのとき、澪のスマホが震えた。


 画面には、ロンドンの編集者の名前。


 澪は立ち止まり、メッセージを読む。


 次の打ち合わせ日程。

 来月、再渡航の可能性。


 怜央は何も聞かなかった。


 澪はスマホを閉じずに、そのまま彼へ差し出した。


 怜央は画面を見て、短く頷く。


「行きますか」


「行きます」


 声にすると、胸が少し軽くなった。


 怜央は黙っている。


 澪は続けた。


「でも、日程はまだ決めてません」


「はい」


「帰ってきたばかりなので」


「はい」


「だから」


 言葉が一度、喉で止まる。


 澪は怜央を見る。


「一緒に決めてもいいですか」


 怜央の指が、スマホを持つ澪の手に触れた。


 強くはない。

 逃げられないほどでもない。


 ただ、触れている。


「はい」


 澪は小さく息を吐いた。


「じゃあ、今日は仕事の話は少しだけにします」


「わかりました」


 澪は視線をそらし、車の方へ歩き出した。


「このあと、どこへ」


 怜央が聞く。


 澪は少し考えた。


 空港のレストラン。

 会社。

 父のところ。

 行く場所はいくつも浮かんだ。


 けれど、最初に口にしたい場所は決まっていた。


「家に帰りたいです」


 怜央は大げさに喜ばなかった。


 ただ、スーツケースを持つ手を少しだけ握り直した。


「帰りましょう」


 車の前で、澪は足を止める。


「怜央さん」


 名前で呼ぶと、彼がこちらを向いた。


「今日の本音、もう一つだけ」


「はい」


「会いたかったです」


 言ったあとで、澪はすぐに車のドアへ手をかけた。


 顔を見られたくなかった。


 けれど、怜央の声が背中に落ちる。


「僕もです」


 その声があまりに普通だったから、澪は少しだけ笑った。


 車に乗り込む前、怜央が言う。


「澪」


「はい」


「おかえり」


 二度目のその言葉は、一度目より少しだけ柔らかかった。


 澪は振り返る。


 空港の自動ドアが開いて、また誰かが出てくる。

 誰かが走り寄り、誰かが手を振り、誰かが荷物を抱え直している。


 澪は怜央の手から、スーツケースの持ち手をそっと取った。


「ただいま」


 今度は、自分で持ったまま言った。


 怜央は何も言わず、隣に立つ。


 澪はスーツケースを引いて、一歩先に歩き出した。


 半歩遅れて、怜央が並ぶ。


 夕方の空は、まだ明るかった。


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