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逃げる花嫁と、追わない御曹司――契約恋人は毎晩本音をひとつ求めてくる  作者: そらのことのは


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第7話 契約終了の日、彼は迎えに来なかった

 ロンドン行きの返事をしたのは、期限ぎりぎりの朝だった。


 澪は、受諾のメールを送ったあと、しばらく画面を見つめていた。


 嬉しいはずだった。


 ずっと欲しかった仕事。

 自分の力で掴んだ海外案件。

 半年間、ロンドンで翻訳監修に関われる。


 行きたい。


 その気持ちは、本物だ。


 けれど、送信ボタンを押した瞬間、胸の奥に穴が空いたような気がした。


 リビングには、怜央がいなかった。


 ここ数日、彼は帰りが遅い。

 朝も早い。

 同じ家にいるのに、顔を合わせる時間がほとんどなかった。


 逃げている。


 澪にはわかった。


 でも、責められなかった。


 自分だって、ずっとそうしてきた。


 昼過ぎ、怜央からメッセージが届いた。


「提携は、婚約とは別の形で進めます。潮見翻訳社には影響が出ないようにします」


 続けて、もう一通。


「あなたの出発日までに、婚約解消の手続きを行います」


 澪は画面を握りしめた。


 どこにも責める隙がない。


 だから、腹が立った。


「……簡単に終わらせないでよ」


 声に出してから、自分で驚いた。


 終わらせたかったのは、誰だったのか。


 最初に半年だけだと言ったのは、澪だ。

 本気にならないと決めたのも、澪だ。


 それなのに、怜央が手を離そうとすると、こんなにも苦しい。


 出発の日は、思ったより早く来た。


 空港は、最初に逃げようとした日と同じように人であふれていた。


 スーツケースの車輪の音。

 アナウンス。

 コーヒーの匂い。


 何も変わっていない。


 変わったのは、澪だけだった。


 半年前なら、空港に来るだけで息ができた。

 ここは逃げ道だった。

 誰にも捕まらず、どこへでも行ける場所だった。


 今は違う。


 空港は、誰かを置いていく場所に見えた。


 搭乗口の前で、澪はスマホを見た。


 怜央からのメッセージは、朝に一通だけ。


「見送りには行きません。お仕事の成功を祈っています」


 それが、彼の優しさだとわかっていた。


 追わない。

 縛らない。

 選ばせる。


 澪が望んだはずの距離。


 なのに、胸が苦しい。


 来てほしかった。


 怒ってほしかった。

 せめて、行くなと言ってほしかった。

 

 澪は自分の手を見つめた。


 契約は、もう終わっている。


 昨夜、怜央はリビングのテーブルに書類を置いていた。

 婚約解消合意書。

 澪の署名欄には、付箋が貼られていた。


 彼は最後まで、澪に選ばせた。


 その優しさが、逃げ道を塞がないからこそ、逃げられなかった。


 搭乗開始のアナウンスが流れる。


 パスポートを握る手に力が入った。


 行けばいい。

 仕事がある。

 夢がある。

 自由がある。


 それは嘘じゃない。


 でも、澪はもう知ってしまった。


 自由とは、誰にも何も言わずに消えることではない。

 帰りたい場所を持ったまま、自分の足で遠くへ行くことだ。


 澪はスマホを開いた。


 怜央に電話をかける。


 呼び出し音が続く。


 一回。

 二回。

 三回。


 出ない。


 その瞬間、胸の奥が冷えた。


 彼も今、逃げている。


 澪は搭乗口を見た。


 列が少しずつ進んでいく。


 ここで乗れば、今度こそ終わる。

 怜央はきっと追ってこない。

 約束通り、正しく手を離す。


 それが怖かった。


 澪は列から離れた。


 スーツケースを引き、来た道を戻る。


 心臓がうるさい。


 逃げているのではない。

 戻っている。


 誰かに追われたからではなく、自分で選んで。


 タクシーに乗ると、運転手に黒瀬グループ本社の住所を告げた。


 車窓に流れる街を見ながら、澪は何度も電話をかけた。


 怜央は出なかった。


 代わりに、秘書から連絡が来た。


「黒瀬は現在、緊急の役員会議中です」


 澪は短く答えた。


「会議室の階まで行きます」


「アポイントは」


「ありません」


「それでは」


「婚約者です」


 言ってから、胸が痛んだ。


 もう違う。


 それでも、澪は続けた。


「元、かもしれません。でも、まだ終わらせていない話があります」


 本社に着くと、受付で止められた。


 当然だ。


 けれど澪は引かなかった。


「黒瀬怜央さんに会わせてください」


「お約束はございますか」


「ありません」


「では、お取り次ぎは」


「お願いします」


 声が震えた。


「今、彼に合わないといけないんです」


 受付の女性が困った顔をする。


 そのとき、奥から怜央の姉、遥が現れた。


「澪さん?」


 澪は息を切らしながら頭を下げた。


「怜央さんに会わせてください」


 遥は澪のスーツケースを見て、空港から来たのだと察したらしい。


 少しだけ目を細めた。


「行かなかったの?」


「行きます」


 澪ははっきり言った。


「でも、黙っては行きたくないんです」


 遥はしばらく澪を見ていた。


 やがて、小さく笑った。


「怜央には、一番効く言葉ね」


 会議室の前まで案内されたとき、中から低い声が聞こえた。


 怜央の声だった。


「潮見翻訳社との提携は、婚約解消後も予定通り進めます」


 ドア越しに聞こえたその言葉に、澪は足を止めた。


「個人的な関係に左右される判断ではありません。事業性で十分に価値がある」


 役員の誰かが言う。


「では、婚約は完全に解消で?」


 少しの沈黙。


 そして、怜央の声。


「彼女の自由を妨げる理由にはなれません」


 澪は胸が詰まった。


 違う。


 それは正しいけれど、違う。


 澪はドアを開けた。


 会議室の視線が一斉に向く。


 怜央が立ち上がった。


「澪さん」


 その顔を見た瞬間、言いたいことが全部あふれそうになった。


 でも、ここで泣いたら逃げになる。


 澪は息を吸う。


「ロンドンには行きます」


 怜央の表情が、わずかに硬くなる。


「でも、あなたと終わらせるためには行きません」


 会議室がざわめいた。


 澪は怜央だけを見た。


「自由でいたいです。仕事もしたい。遠くへも行きたい」


 声が震える。


「でも、あなたに何も言わずに消える自由は、もういらない」


 怜央は動かなかった。


 澪は一歩、前に出る。


「私、追ってほしかったんじゃない。止めてほしかったんでもない」


 ようやく、わかった。


 ずっと欲しかったもの。


「一緒に考えてほしかった」


 怜央の目が揺れた。


「距離も、連絡も、帰る日も、不安も。私だけで決めるんじゃなくて、あなたと決めたかった」


 会議室の空気なんて、もうどうでもよかった。


 澪はバッグから、昨夜の婚約解消合意書を取り出した。


 署名欄は、まだ空白のままだ。


「これには、まだ署名してません」


 怜央の喉が小さく動いた。


 澪は震える手で書類を差し出す。


「終わらせるなら、二人で話してからにしてください」


 長い沈黙が落ちた。


 怜央は書類を受け取らなかった。


 代わりに、静かに言った。


「会議を中断します」


 役員たちが何か言う前に、怜央は澪のスーツケースを持った。


 最初に空港でそうしたときと、同じように。


 けれど今度は、澪もその手を拒まなかった。


 廊下に出ると、怜央は足を止めた。


「僕は、あなたを待つのが怖い」


 澪は頷いた。


「私は、待たれるのが怖いです」


「それでも?」


 澪は怜央を見上げた。


「それでも、逃げる前に言いに来ました」


 怜央の表情が少しだけ崩れた。


 泣きそうに見えて、澪の胸まで痛くなる。


 彼は低い声で言った。


「今日の本音を言います」


「はい」


「来てくれて、嬉しい」


 その一言で、澪はもうだめだった。


 目の奥が熱くなる。


 けれど泣く前に、笑った。


「私の本音も言います」


 怜央が待つ。


 澪は息を吸った。


「ロンドンに行っても、あなたのところに帰りたい」


 言葉にした瞬間、怖さよりも先に、胸が軽くなった。


 怜央はゆっくり手を伸ばし、澪の手に触れた。


 今度は契約ではない。


 手を繋がなければならない理由なんて、どこにもない。


 それでも澪は、その手を握り返した。


 その瞬間、怜央のスマホが鳴った。


 画面を見た彼の表情が変わる。


「どうしたんですか」


 怜央は短く息を吐いた。


「ロンドンの出版社からです」


 澪の心臓が跳ねた。


「あなたの案件に、黒瀬グループが共同出資する話が出ている」


 澪は固まった。


 怜央はスマホを握ったまま、澪を見る。


「つまり、僕もロンドンに行く可能性があります」


 逃げ道の先に、また彼がいる。


 澪は一瞬だけ呆然として、それから小さく笑った。


「……本当に、逃げ道の先で待つ人ですね」

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