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逃げる花嫁と、追わない御曹司――契約恋人は毎晩本音をひとつ求めてくる  作者: そらのことのは


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第6話 自由でいたい。だけど、あなたを失いたくない

 翌朝、澪は少し寝不足のまま仕事部屋に入った。


 黒瀬のマンションに用意されたその部屋には、広い机と資料棚と、翻訳用のモニターが並んでいる。


 居心地がよすぎる。


 それが、澪には一番困った。


 ここにいる理由は、偽装婚約。

 半年だけの契約。

 父の会社を守るため。


 何度もそう言い聞かせているのに、その言葉だけでは足りなくなってきた。


 怜央が同じ家にいること。

 夜に本音を一つ交換すること。

 朝、紅茶が用意されていること。


 それらが少しずつ日常の顔をしはじめている。


 日常になったものは、失うと痛い。


 だから、怖い。


 昼過ぎ、海外の出版社からメールが届いた。


 件名を見た瞬間、澪の指が止まる。


 以前から関わりたかった海外文学シリーズの翻訳監修。

 期間は半年。

 拠点はロンドン。


 条件は破格だった。


 翻訳家としての澪にとって、逃したくない仕事だった。

 ずっと欲しかった扉が、今になって開いた。


 なのに、最初に浮かんだのは喜びではなかった。


 怜央の顔だった。


 澪は机に肘をつき、深く息を吐いた。


「はぁ…最悪のタイミング」


 夕方、怜央が帰ってきた。


 いつも通り、玄関で靴を揃え、ジャケットを脱ぎ、澪のいるリビングへ来る。


「顔色があまりよくない」


「最近、そればっかりですね」


「実際に良くないので」


 怜央は向かいに座った。


「何かありましたか」


 澪はスマホを握りしめた。


 言わずに済ませることもできる。

 仕事だと言って、準備だけ進めることもできる。

 いつものように、気づかれた頃には空港にいることだって。


 でも、それをしたら。


 きっともう戻れない。


 澪は画面を怜央に向けた。


「ロンドンの仕事です」


 怜央の視線がメールを追う。


 表情は変わらない。


「大きな案件ですね」


「はい」


「受けたいんですか」


 澪はすぐには答えられなかった。


 受けたい。

 行きたい。

 知らない街で、知らない言葉に触れて、自分の力で仕事をしたい。


 それは澪にとって、呼吸みたいなものだった。


「受けたいです」


 ようやく言えた。


 怜央は頷いた。


「受けるべきです」


 その答えは、予想していたよりずっと優しかった。


 だからこそ、胸が痛んだ。


「でも、半年です」


「契約期間と重なりますね」


「偽装婚約中に、婚約者が海外に半年行くのは不自然です」


「まあ、不自然ですね」


「あと、会社の提携にも、影響が出るかもしれない」


「出るでしょう」


「黒瀬さんは、それでいいんですか」


 怜央は少し黙った。


 その沈黙が怖かった。


「僕個人としては、行ってほしくない」


 澪の胸が跳ねた。


「でも、あなたがその仕事を望んでいるなら、止める権利はありません」


 正しい答えだった。


 澪が一番欲しかったはずの言葉だった。


 自由にしていい。

 選んでいい。

 縛らない。


 なのに、どうしてこんなに苦しいのだろう。


「……止めないんですね」


「止めてほしいんですか」


 澪は言葉に詰まった。


 違う。

 違わない。


 止められたら怒る。

 でも、簡単に送り出されたら傷つく。


 自分勝手だとわかっている。


 澪は視線を落とした。


「私、行きたいです。でも」


 声が震えた。


「離れたくないとも思ってる」


 言ってしまった。


 部屋の空気が止まる。


 怜央は澪を見ていた。

 逃げずに、まっすぐ。


「それが、今日の本音ですか」


「そうです」


 澪は笑おうとしたが、うまくいかなかった。


「自由でいたい。でも、あなたを失いたくない。自分でも面倒くさいってわかってます」


 怜央は何も言わない。


 その沈黙に、澪の不安が膨らむ。


「何か言ってください」


「考えています」


「今、冷静に考えないでください」


「冷静ではありません」


 怜央の声は低かった。


 澪は息を止める。


「あなたが行きたいと言った瞬間、止めたいと思いました」


 彼は自分の手を見下ろした。


「でも、止めたら同じことを繰り返す。守るふりをして、あなたの自由を削る」


 沙月のことだと、澪にはわかった。


「だから、止めません」


 その言葉は優しいはずだった。


 けれど、次の一言で澪の胸は冷えた。


「ただ、あなたが行くなら、婚約は解消しましょう」


「……え?」


 怜央は顔を上げた。


「偽装婚約のまま遠距離を続けるのは、あなたにも会社にも負担になる。提携は別の形で通します」


「待ってください」


「あなたの仕事を理由に、縛る形にはしたくない」


「そうじゃなくて」


 澪は立ち上がった。


「どうして、そこで終わりにするんですか」


「あなたを自由にするためです」


「それ、本当に私のためですか」


 怜央の表情がわずかに揺れた。


 澪は胸が苦しくなった。


「黒瀬さんは、私を縛りたくないんじゃなくて、失う前に自分から手を離そうとしてるだけじゃないですか」


 言った瞬間、自分の声が震えているのがわかった。


 怜央は黙った。


 図星だったのかもしれない。


 澪は唇を噛む。


「私が逃げる前に、あなたが終わらせようとしてる」


「違います」


「違わないです」


 怜央が初めて、強い声で言った。


「あなたが行くなら、僕は待つと言ってしまう」


 澪は動けなくなった。


「毎晩連絡を待って、帰ってくる日を数えて、あなたの自由に、僕の不安を絡めてしまう」


 怜央は苦しそうに息を吐いた。


「それを、あなたに背負わせたくない」


 優しさだ。


 けれどそれは、逃げでもあった。


 澪は今ならわかる。


 自分だけが逃げる人間じゃない。

 怜央も怖いのだ。


 大切な人が遠くへ行くことが。

 待った先で、二度と戻らないかもしれないことが。


 澪はゆっくり座り直した。


「私は、まだ決められません」


「期限は?」


「三日後です」


「わかりました」


 怜央は立ち上がった。


「今日は、ここまでにしましょう」


 その背中を見て、澪は反射的に声を出した。


「逃げるんですか」


 怜央の足が止まる。


 澪自身、言ってから驚いた。


 それはいつも、自分が言われる側の言葉だった。


 怜央は振り返らない。


「逃げたいです」


 静かな声だった。


「今の僕は、あなたを傷つける」


 澪は何も言えなかった。


 怜央はそのまま自室へ戻った。


 リビングに一人残され、澪はスマホを見つめる。


 ロンドンの案件。

 返信期限は三日後。


 行けば、欲しかった仕事が手に入る。

 行かなければ、きっと後悔する。


 でも今は、それだけでは選べなかった。


 夜十一時。


 怜央からメッセージが届いた。


「今日の本音。あなたを自由にしたいと言いながら、本当は行ってほしくない」


 澪は画面を見つめた。


 続けて、もう一通。


「だから、今夜は顔を見て話す自信がありません」


 澪は胸を押さえた。


 逃げている。

 怜央が。


 いつも追ってくる人が、初めて距離を取った。


 それがこんなに不安になるなんて、知らなかった。


 澪は返信欄を開いた。


 何度も打って、消した。


 最後に残ったのは、短い一文だけだった。


「私も、まだ顔を見たら泣きそうです」


 送信してから、澪はソファに膝を抱えた。


 自由が欲しかった。


 なのに今は、自由になった瞬間に失いそうなものの方が、怖かった。


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