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逃げる花嫁と、追わない御曹司――契約恋人は毎晩本音をひとつ求めてくる  作者: そらのことのは


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第5話  亡くなった婚約者の名前

 翌朝、澪の熱は少し下がっていた。


 怜央はホテルのカーテンを細く開け、外の明るさを確かめている。


 一晩中そばにいられたせいで、胸の中が落ち着かない。


 来てくれて安心した。

 でも、安心した自分が怖い。


 昨日言った本音が、まだ体のどこかに残っている。


 怜央は紙コップに水を注いだ。


「薬を飲んでください」


「黒瀬さん、昨日から命令しかしてません」


「お願いです。薬を飲んでください」


 言い方だけ丁寧になった。


 澪は笑いそうになって、悔しくてやめた。


「……飲みます」


 薬を飲むと、怜央が小さく頷く。


 その仕草が、あまりに自然だった。


 見守られることに慣れていない澪には、それだけで息苦しい。


 昼前、二人は東京へ戻った。


 黒瀬のマンションに着いた頃には、澪の熱はほとんど下がっていた。けれど怜央は外出を許さず、リビングのソファにブランケットまで用意した。


「寝ていてください」


「もう大丈夫です」


「昨日の今日で、大丈夫という人は信用なりません」


「う……」


 澪は反論を諦めた。


 スマホを見ると、父から連絡が入っていた。体調を崩したことは伏せて、仕事で戻りが遅れたとだけ伝える。


 そのとき、インターホンが鳴った。


 怜央が応対に出る。


 玄関から聞こえてきたのは、女性の声だった。


「怜央、急に戻ったって聞いたから」


 澪は思わず背筋を伸ばした。


 リビングに入ってきたのは、怜央より少し年上に見える美しい女性だった。上品なベージュのコートに、柔らかい巻き髪。笑みは穏やかなのに、目だけは鋭い。


 女性は澪を見ると、少し驚いたように目を細めた。


「あなたが、潮見澪さん?」


「はい」


 澪は立ち上がろうとしたが、怜央に止められた。


 女性はそのやり取りを見て、かすかに笑った。


「相変わらずね。怜央は」


「姉さん、何の用ですか」


 姉。


 澪は内心でその言葉を繰り返した。


 怜央の姉は、黒瀬遥と名乗った。


「母があなたたちの婚約を聞いて、顔合わせの日程を決めたいと言っているの」


「まだ澪さんの体調が戻っていません」


「そのようね」


 遥は澪に視線を向ける。


「ごめんなさい。病み上がりに押しかけて」


「いえ、大丈夫です」


 そう答えた瞬間、怜央がこちらを見た。


 澪は少しだけ気まずくなる。


 大丈夫。

 また言ってしまった。


 遥はその空気に気づいたのか、静かに言った。


「無理しなくていいのよ。怜央は、大丈夫という言葉を一番信じない人だから」


 澪は怜央を見た。


「……そうなんですか」


 怜央は答えない。


 遥はリビングの棚に目を向けた。


「まだ、置いてあるのね」


 その声は、少しだけ低かった。


 澪もつられて棚を見る。


 そこには小さな写真立てがあった。


 昨日は気づかなかった。


 写真の中には、怜央と一人の女性が写っている。

 怜央は今より少し若く、隣の女性は明るく笑っていた。


 澪の胸が、ざわりとした。


 遥が言う。


「ごめんなさい。余計なことだったわ」


 怜央の表情が消える。


「姉さん」


「でも、いつか話すことでしょう」


 澪は写真から目を離せなかった。


 婚約者。


 なぜか、その言葉が浮かんだ。


 遥は小さく息を吐いた。


「彼女は、怜央の昔の婚約者よ。名前は、沙月さん」


 リビングの空気が変わった。


 澪は何も言えなかった。


 昔の恋人ではなく、婚約者。

 しかも、写真立てが今も残っている。


 怜央は棚に近づき、写真立てを伏せようとした。


 けれど澪は、反射的に言ってしまった。


「隠さなくていいです」


 怜央の手が止まる。


 遥は二人を見比べてから、静かに言った。


「私は帰るわ。顔合わせの件は、また改めて」


 玄関の扉が閉まる音がしても、しばらく誰も動かなかった。


 先に口を開いたのは澪だった。


「亡くなったんですか」


 怜央は答えるまでに、少し時間をかけた。


「三年前に」


 三年前。


 澪が蒼から逃げた頃と、同じくらいの時期。


「事故でした」


 怜央の声は静かだった。

 静かすぎて、かえって痛い。


「婚約していた。でも、うまくいっていたわけではありません」


 澪は黙って聞いた。


「僕は彼女を守ろうとした。予定を管理して、危ないことを避けさせて、困る前に手を出した」


 それは、今の怜央と少し似ていた。


「彼女は最後に言いました」


 怜央の指が、わずかに握られる。


「あなたの愛は、重いって」


 澪の呼吸が止まった。


 昨日、自分も言った。


 そういうの、重いです。


 言葉が胸に刺さる。


「その翌日、彼女は一人で出かけて、事故に遭いました」


「それは、黒瀬さんのせいじゃ」


「わかっています」


 怜央はすぐに言った。


 でも、その声は少しも納得していなかった。


「頭では、わかっています」


 澪は何も言えなかった。


 だから怜央は、来なくていいと言われても来た。

 大丈夫を信じなかった。

 軽いふりをしないと言った。


 失う前に、手を伸ばしたい人なのだ。


 澪は膝の上で手を握った。


「私は彼女の代わりですか」


 口にした瞬間、自分でも最低だと思った。


 それでも、聞かずにはいられなかった。


 沙月という人がいて。

 同じように重いと言われて。

 今度は澪を守ろうとしている。


 なら、自分は過去のやり直しなのではないか。


 怜央はゆっくり振り向いた。


「違います」


「即答ですね」


「迷うことではありません」


「でも、似てるから放っておけないんじゃないですか。逃げるところとか、大丈夫って嘘をつくところとか」


「似ていません」


 怜央の声が、少しだけ強くなった。


 澪は怯んだ。


「沙月は、最後まで僕に合わせようとしました。嫌だと言えなかった。重いと言ったのは、限界だったからです」


 怜央は澪を見た。


「あなたは逃げる。嫌だと言う。重いとも言う。僕を困らせるし、怒らせる」


「それ、褒めてます?」


「はい」


 澪は言葉に詰まった。


 怜央は続ける。


「あなたは、僕が間違えたときに黙って逃げる」


「それは褒めてませんよね」


「でも、追いかける理由にはなります」


 胸が痛くなった。


 嬉しいのか、怖いのかわからない。


 澪は視線を落とす。


「私は、誰かの傷を埋めるためにはいられません」


「埋めてほしいとは思っていません」


「じゃあ、どうして私なんですか」


 怜央は少し黙った。


 そして、今日初めて迷うように息を吐いた。


「あなたが逃げようとしても、僕は腹が立つだけでは済みません」


 澪は顔を上げる。


「怖いんです」


 その言葉は、怜央にしてはあまりに不器用だった。


「あなたが遠くへ行くことが怖い。でも同時に、あなたが自分で選んで戻ってくるところを見たい」


 澪の胸が強く鳴った。


「それが、今の本音です」


 ずるい。


 そんなふうに言われたら、逃げる理由がまた一つ減ってしまう。


 澪は写真立てに目を向けた。


 伏せられていない写真の中で、沙月は笑っている。


 澪は小さく息を吸った。


「私の本音も言います」


 怜央が黙って待つ。


「怖いです。あなたの過去を知って、少し安心した自分がいる」


「安心?」


「私だけが面倒なんじゃないって思ったから」


 声が震えそうになる。


「でも同時に、怖い。あなたの優しさが、私じゃなくて過去に向いてるなら、たぶん耐えられない」


 言ってから、心臓がうるさくなった。


 これは踏み込みすぎた。


 偽装婚約者の距離ではない。


 怜央は静かに歩み寄る。


 触れそうで、触れない距離で止まった。


「君を誰かの代わりにしたことは、一度もありません」


 澪は息を止めた。


「これからもしない」


 その声は低く、まっすぐだった。


 信じたいと思ってしまった。


 それが、何より危険だった。


 夜、澪は自分の部屋に戻ってからも眠れなかった。


 沙月という名前。

 伏せられなかった写真。

 怜央の怖いという本音。


 全部が胸の中でほどけずに残っている。


 スマホが震えた。


 怜央からだった。


「今日の本音。あなたに過去を知られて、怖かった」


 続けて、もう一通。


「でも、隠したまま近づく方が、もっと怖い」


 澪は画面を見つめた。


 逃げたい。


 でも、今はその言葉より先に、別の感情が浮かんだ。


 知りたい。


 この人が、何を失って、何を怖がって、それでもどうして自分の前に立つのか。


 澪は返信欄を開いた。


「私も怖いです」


 少し迷って、もう一文を足す。


「でも、今日は逃げません」


 送信したあと、澪はスマホを胸に伏せた。


 その瞬間、扉の向こうで小さく物音がした。


 まるで怜央が、すぐ近くで立ち止まったような音だった。


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