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逃げる花嫁と、追わない御曹司――契約恋人は毎晩本音をひとつ求めてくる  作者: そらのことのは


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第4話 守られることが、こんなに怖いなんて

 翌朝、澪はホテルのベッドで目を覚ました。


 頭が重い。

 喉が痛い。

 体の奥が、ずしんと沈んでいる。


 逃げた先で体調を崩すなんて、笑えない。


 枕元のスマホを見ると、怜央からメッセージが届いていた。


「迎えには行きません。帰るかどうかは、あなたが決めてください」


 続けて、もう一通。


「ただし、夜は新幹線の本数が減ります。帰るなら早めに動いた方がいい」


 命令ではない。

 道順でもない。

 ただ、帰れる選択肢だけを置いてくる。


 その距離感が、ずるかった。


 澪は起き上がろうとして、すぐに布団へ戻った。

 体が熱い。


 ホテルで借りた体温計は、三十八度二分を示していた。


「……最悪」


 出版社には、体調不良で作業が遅れると連絡した。

 父には言わなかった。心配をかけたくなかった。


 怜央にも、言わないつもりだった。


 昨日、あれだけ逃げておいて、熱を出したときだけ頼るなんて都合がよすぎる。


 昼過ぎ、スマホが震えた。


「昼食は取りましたか」


 澪は返さなかった。


 食欲がない。

 返す気力もない。


 しばらくして、また届く。


「返信がないので、少し心配しています」


 澪は布団の中で画面を見つめた。


 心配。

 その言葉が、熱よりも胸にこたえる。


 迷った末、短く返した。


「大丈夫です」


 すぐに既読がつく。


「大丈夫の根拠は?」


 澪は苦笑した。


 いつもなら、ここで嫌味の一つくらい返している。

 でも今日は、その余裕がない。


「仕事中なので」


 送信してすぐ、後悔した。


 また逃げた。

 今度は嘘で。


 数分後、怜央から電話がかかってきた。


 澪は出なかった。

 声を聞かれたら、熱があるとばれる。


 呼び出し音が止まる。


 すぐにメッセージが届いた。


「声を聞けば判断できます。出ないなら、体調不良と判断します」


「違います」


「では、電話に出てください」


 澪はスマホを伏せた。


 出られるわけがない。


 昨夜、怜央に「緊急時のために宿泊先だけは教えてください」と言われ、ホテル名だけは送っていた。

 そのときは、迎えに来ないと言われたから教えたのだ。


 まさか、こんな形で使われるとは思わなかった。


 午後四時前。


 部屋の電話が鳴った。


 フロントからだった。


「黒瀬怜央様という方が、お見舞いのお品をお預けになりたいとおっしゃっています。お通ししてもよろしいでしょうか」


 澪は一瞬、目を閉じた。


 来た。


 やっぱり来た。


「……部屋番号、教えてないですよね」


「はい。お客様の許可なくお伝えしておりません」


「じゃあ、そのまま帰ってもらってください」


 言いかけて、喉が痛んだ。


 来てほしくない。

 でも、来てほしかった。


 その矛盾が、熱で弱った体に刺さる。


 澪は小さく息を吐いた。


「……通してください」


 数分後、チャイムが鳴った。


 ドアを開けると、怜央が立っていた。


 片手に紙袋。

 もう片方に、ホテル近くのドラッグストアの袋。


「顔色が悪い」


 開口一番、それだった。


「普通、こんばんはとか言いません?」


「熱は」


「挨拶を飛ばして診察に入らないでください」


「熱は」


 澪は負けた。


「三十八度二分」


 怜央の眉がわずかに動いた。


「病院に行きます」


「行きません」


「では、水分を取ってください。薬は飲めますか」


「勝手に来て、勝手に看病しないでください」


「勝手に大丈夫と言って、悪化させる人には必要です」


 言い返したかったのに、声が出なかった。


 怜央は部屋に入り、薬や経口補水液、ゼリー飲料、粥をテーブルに並べた。

 無駄がない。

 迷いもない。


 その手際のよさが、また澪を苦しくさせた。


「慣れてるんですね」


 言ってから、少し後悔した。


 怜央の手が止まる。


「以前、看病していた人がいました」


 静かな声だった。


 澪はそれ以上、聞けなかった。


 粥を渡され、渋々ひと口食べる。

 温かさが喉を通り、体の奥に落ちていく。


 悔しいくらい、ほっとした。


「どうして来たんですか」


 怜央は即答しなかった。


「あなたが、大丈夫ではないのに大丈夫と言ったからです」


「それだけで新幹線に乗るんですか」


「それだけではありません」


 澪は顔を上げた。


 怜央はまっすぐにこちらを見ていた。


「本当は、昨日の夜から迎えに行きたかった」


 胸が、熱とは別の温度で揺れた。


「来なくていいって言ったら?」


「来なくていいと、来てほしいは、同時に存在することがあります」


 澪は息を止めた。


 やめてほしい。


 そんなふうに、言葉にしないでほしい。


 自分でも扱えない感情を、彼は静かに拾い上げてしまう。


「……そういうの、重いです」


 言った瞬間、胸が痛んだ。


 怜央は表情を変えなかった。

 けれど、紙袋を畳む指先だけが、少し止まった。


「優しくされると、返さなきゃいけない気がするんです。期待に応えなきゃいけない気がする。そういうの、苦しい」


「返さなくていい」


「そう言う人ほど、あとで傷つくんです」


「傷つかないとは言っていません」


 怜央は静かに言った。


「でも、それを理由に何もしない人間にはなりたくない」


 澪は何も言えなかった。


 怜央は水と薬を枕元に置く。


「今日の本音を言います」


「今ですか」


「今です」


 彼は少しだけ目を伏せた。


「あなたに重いと言われて、痛かった」


 澪の喉が詰まる。


「でも、軽いふりをする方が嫌です」


 怜央は澪を見た。


「重くてもいい。僕は、軽いふりはもうしない」


 責められているわけではなかった。


 ただ、彼の中にある重さを、そのまま差し出されている気がした。


 澪は布団を握りしめた。


 本音をひとつ。

 逃げないで、ひとつ。


「……来てくれて、安心しました」


 怜央の目が、わずかに揺れる。


 澪は視線をそらした。


「でも、安心した自分が怖いです」


 長い沈黙のあと、怜央は小さく頷いた。


「それで十分です」


 その夜、怜央は帰らなかった。


 フロントに追加の毛布を頼み、ソファで仮眠を取ると言い張った。

 澪が何度追い返しても、動かなかった。


 部屋の明かりを落とすと、彼の気配だけが残る。


 同じ空間に、怜央がいる。


 怖い。

 なのに、熱で目が覚めるたび、その気配に安心する。


 知らない方が楽だった感情が、また一つ増えていく。


 夜中、澪が目を開けると、額に冷たいタオルがのっていた。


 怜央はソファに座ったまま、眠らずにこちらを見ていた。


「起こしましたか」


「……寝てください」


「もう少ししたら」


「本当に、重いです」


「はい」


 素直に認めるから、困る。


 澪は目を閉じた。


「でも」


 声が小さくなる。


「今日は、いてください」


 言ってしまった。


 空気が静かに止まる。


 やがて、怜央の低い声が返ってきた。


「います」


 たった三文字なのに、澪の胸は痛いほど緩んだ。


 そして、その安心が何より怖かった。


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