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逃げる花嫁と、追わない御曹司――契約恋人は毎晩本音をひとつ求めてくる  作者: そらのことのは


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第3話 一通だけの本音メール

 翌朝、澪はキッチンの前で固まっていた。


 黒瀬怜央の部屋は、昨日見た通り生活感が薄い。

 なのに、テーブルの上には朝食が並んでいた。


 トースト。

 スクランブルエッグ。

 サラダ。

 それから、澪が昨日飲んだ紅茶。


「……作ったんですか」


「焼いただけです」


 怜央は平然とコーヒーを飲んでいる。


「十分作ってます」


 澪は向かいに座り、トーストをかじった。


 悔しいことに、ちょうどいい焼き加減だった。


 強引で、勝手で、契約書まで用意するような男なのに、紅茶の温度やパンの焼き加減など、絶妙にいやらしい。


 優しさは、わかりやすく乱暴な方が逃げやすいのに。


「今日の予定は」


 怜央が聞いた。


「午前中は父の会社。午後は自宅に荷物を取りに行きます」


「同行します」


「来なくていいです」


「婚約者なので」


「便利な呪文にしないでください」


「では、黒瀬側の関係者に見られる可能性があるので」


「もっと嫌な理由にしないでください」


 澪はため息をつく。


 けれど、断りきれないこともわかっていた。


 昨日の役員会で婚約は社内に知られた。今日から澪は、黒瀬怜央の婚約者として見られる。偽装だとしても、もう引き返せない。


 その事実が、喉の奥に小さな骨みたいに残っていた。


 昼前、潮見翻訳社に着くと、社員たちは驚きながらも澪を迎えてくれた。


 小さなオフィス。

 古い本棚。

 付箋だらけの資料。

 母がいた頃から変わらない、紙とコーヒーの匂い。


 ここだけは、澪にとって帰ってきても息ができる場所だった。


 父は怜央を見るなり、何度も頭を下げた。


「黒瀬さん、本当にありがとうございます」


「まだ決まったわけではありません。ここからです」


「それでも、うちはもう……」


 父の声がかすれた。


 澪は胸が痛くなり、思わず視線をそらす。


 そこで、懐かしい声がした。


「澪?」


 入口に立っていたのは、神谷蒼だった。


 三年前まで付き合っていた元恋人。

 今はフリーの編集者として、ときどき潮見翻訳社に仕事を持ってくる人だ。


 蒼は怜央と澪を見比べ、薄く笑った。


「婚約したって聞いて驚いたよ。しかも黒瀬グループの御曹司と」


「仕事の話なら、あとにして」


「相変わらず逃げるのが早いね」


 その言葉に、澪の指先が冷えた。


 怜央が静かに蒼を見る。


「彼女に用件が?」


「ありますよ。昔の知り合いとして」


 蒼は澪に近づき、声を落とした。


「今度はいつ逃げるの?」


 澪は息を止めた。


「何の話」


「俺のときもそうだった。こっちが本気になったら、急に仕事を増やして、連絡を減らして、最後は海外案件。今回も同じじゃない?」


「違う」


「本当に?」


 蒼の目は優しかった。

 だから余計に痛かった。


 責めているようで、まだ傷ついているような目。


 澪は何も言えなかった。


 三年前、澪は蒼を嫌いになって別れたわけじゃない。


 むしろ逆だった。

 彼が将来の話をするようになって、澪は怖くなった。


 一緒に住もう。

 毎朝同じ家から出よう。

 家族に紹介したい。


 その言葉が嬉しいはずなのに、澪には檻の音に聞こえた。


 そして、逃げた。


「澪」


 怜央の声で、今に戻る。


 彼は澪の少し前に立っていた。守るというより、間に境界線を引くように。


「昔の話をするなら、彼女の許可を取ってください」


 蒼は苦笑した。


「婚約者らしいですね」


「そう振る舞う契約なので」


「契約?」


 澪は顔を上げた。


 まずい。


 怜央は表情を変えない。


「婚約者として、彼女を不必要に傷つけない契約です」


 蒼は何か言いかけたが、やめた。


「……澪、本当にその人でいいの?」


 その問いに、すぐ答えられなかった。


 怜央が好きだから婚約したわけではない。

 父の会社を守るため。

 半年だけの偽装。


 でも、それを蒼に言えば、すべて崩れる。


 澪は唇を開いた。


「私が決めたことだから」


 そう言うのが精いっぱいだった。


 その日の午後、澪は自宅に戻る予定をやめた。


 代わりに、地方のホテルを取った。


 昔から付き合いのある出版社から、急ぎの翻訳監修を頼まれていた。

 本当はリモートでもできる仕事だ。


 それでも澪は、新幹線に乗った。


 逃げている。


 わかっていた。


 蒼に言われたことが頭から離れなかった。


 今度はいつ逃げるの?


 その通りだと思った。

 澪はいつも、近づかれる前に逃げる。

 相手が優しくなるほど、先に消えたくなる。


 怜央にも、同じことをするのかもしれない。


 ホテルに着いたのは夜八時過ぎだった。


 部屋に荷物を置くと、スマホに怜央からの着信履歴が一件だけ残っていた。


 一件だけ。


 追いかけてはこない。

 電話を鳴らし続けもしない。

 どこにいるのか問い詰めるメッセージもない。


 澪はベッドに座り、スマホを握った。


 楽なはずだった。


 追われないなら、息ができる。

 責められないなら、怖くない。


 なのに、胸の奥がすかすかした。


「……結局、どっちなの」


 追われたら苦しい。

 追われなければ寂しい。


 自分が面倒くさくて嫌になる。


 夜十時。


 スマホが震えた。


 怜央からのメッセージだった。


「今日の本音。あなたがどこにいるか、聞きたい。でも聞けば、あなたはもっと遠くへ行く気がする」


 澪は画面を見つめた。


 続けて、もう一通届く。


「だから、今日は聞きません」


 それだけだった。


 怒っていないのか。

 心配していないのか。

 どうでもいいのか。


 違う。

 文面の奥に、抑えた感情があった。


 彼は聞きたいのだ。

 でも、聞かないでいる。


 澪が逃げる人間だと知っているから。


 その優しさが、ひどく痛かった。


 澪は返信画面を開いた。


 本音を言わなければいけない。

 契約だから。


 本当は、聞いてほしかった。

 どこにいるのか。

 なぜ逃げたのか。

 帰ってくるのか。


 でもそんなこと、言えない。


 澪は短く打った。


「仕事です。地方にいます」


 送信してから、胸が沈んだ。


 これは本音ではない。

 ただの報告だ。


 すぐに既読がついた。


 けれど、返信は来なかった。


 それがまた、澪を不安にさせた。


 何を期待しているんだろう。

 迎えに行くと言われたら困るくせに。

 放っておかれたら、傷つくなんて。


 澪はスマホを伏せ、机に向かった。


 翻訳原稿を開く。

 文字は読める。意味も取れる。

 でも、心が文章の中に入っていかない。


 一時間ほど経った頃、またスマホが震えた。


 怜央からだった。


「今日の本音を、もう一つだけ送ります」


 澪は息を止める。


 画面には、短い文章が表示されていた。


「本当は、迎えに行きたい」


 それだけ。


 たった一文なのに、胸の奥が強く揺れた。


 追ってこない。

 でも、迎えに来たいと思っている。


 その違いを、怜央はちゃんと分けている。


 澪はスマホを握りしめた。


 涙が出そうになって、慌てて天井を見上げる。


 こんなのは困る。

 怒ってくれた方がいい。

 責めてくれた方が、もっと遠くへ逃げられる。


 なのに彼は、逃げ道を塞がない。


 ただ、その出口の向こうに明かりを置いてくる。


 澪は震える指で返信を打った。


「来なくていいです」


 送信する直前、手が止まる。


 違う。

 これは、いつもの逃げ方だ。


 澪は文字を消した。


 しばらく迷って、打ち直す。


「来られたら困ります。でも、そう思ってくれたことは、少しだけ嬉しいです」


 送信した瞬間、胸が苦しくなった。


 本音をひとつ差し出すだけで、こんなに怖い。


 すぐに返信が来た。


「明日の朝、迎えに行きません。駅までの道順だけ送ります」


 続けて、地図のリンクが届いた。


 澪は思わず笑ってしまった。


 優しいのか、律儀なのか、わからない。


 けれど、そのあとに届いた最後の一文で、笑えなくなった。


「帰ってくるかどうかは、あなたが選んでください」


 澪はスマホを胸に当てた。


 選んでいい。

 そう言われることが、こんなに怖いなんて知らなかった。


 ホテルの窓の外には、知らない街の明かりがにじんでいた。


 逃げてきたはずなのに、もう遠くに来た気がしない。


 帰る場所なんて、作らない方が楽だった。

 帰りたいと思う相手なんて、いない方が安全だった。


 それなのに。


 澪は小さく息を吐いた。


「……明日、どうしよう」


 答えはまだ出ない。


 けれど、スマホの画面には怜央のメッセージが残っている。


 本当は、迎えに行きたい。


 その一文が、逃げ道の先で静かに灯っていた。

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