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逃げる花嫁と、追わない御曹司――契約恋人は毎晩本音をひとつ求めてくる  作者: そらのことのは


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第2話 婚約者ごっこは、想像より息が詰まる

 黒瀬怜央の車は、静かすぎた。


 空港を出て高速に入っても、外の音はほとんど聞こえない。澪は助手席で、膝の上の契約書を見下ろしていた。


 半年間の偽装婚約。

 必要最低限の同居。

 一日一度、本音をひとつ伝えること。


 そして、最後の一文。


『本音を告げられなかった日は、翌朝まで手を繋いで眠るものとする』


 澪はこめかみを押さえた。


「これ、絶対におかしいです」


「どれがですか?」


 怜央は前を向いたまま答える。


「最後のやつです。手を繋いで眠るって何ですか」


「本音を言うよりは簡単でしょう」


「簡単じゃないです」


「では、本音を言えばいい」


「そういう問題じゃ…」


 怜央は少しだけこちらを見た。


「あなたは、本音を言うのが苦手なんですね」


「他人のあなたに分析されたくありません」


「婚約者です」


「偽装の、です」


「今はそれで構いません」


 その落ち着きが、澪には苦手だった。


 怒るでもなく、迫るでもない。

 ただ、決めたことを淡々と進めていく。


 こういう人の隣にいると、逃げるタイミングを失う。


「これから父の会社に行くんですよね」


「その前に、僕の会社へ寄ります」


「聞いてません」


「今、言いました」


「屁理屈」


 怜央は否定しなかった。


 車は黒瀬グループ本社の地下駐車場に入った。澪が降りると、怜央は自然にスーツケースを持つ。


「自分で持てます」


「婚約者なので」


「その言葉、便利に使いすぎです」


 エレベーターの鏡に、二人が映る。


 隙のないスーツ姿の怜央。

 逃亡直前のワンピースの澪。


 どう見ても、幸せな婚約者には見えない。


「私たち、怪しまれますよ」


「問題ありません。僕は普段から愛想がないので」


「それで押し切るつもりですか」


「はい」


 堂々と言われると、もう何も言えなかった。


 役員会議室に入ると、十人ほどの視線が一斉に澪へ向いた。


 値踏みするような目。

 驚き。

 納得していない沈黙。


 怜央は淡々と告げた。


「本日、潮見澪さんと婚約しました」


 室内がざわめく。


「潮見翻訳社との提携については、再度審議をお願いします」


 年配の役員が眉をひそめた。


「婚約と業務提携は別問題では?」


「はい。ですから、事業性でご判断ください」


「では、なぜ彼女をここに?」


「潮見翻訳社の価値を、一番知っている人だからです」


 澪は怜央を見た。


 聞いていない。

 完全に、今ここで放り込まれた。


 逃げたい。


 今すぐ会議室を出て、エレベーターに乗って、タクシーを拾いたい。


 けれど、スクリーンに映った会社名を見て、足が止まった。


 潮見翻訳社。


 母が残し、父が守ってきた会社だ。

 小さくても、言葉を雑に扱ったことは一度もない。


 澪は一歩前に出た。


「潮見翻訳社の強みは、安さでも速さでもありません」


 自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。


「専門性の高い翻訳者と、最後まで人の目で整える編集体制です。AI翻訳が広がる今だからこそ、最後に必要なのは、言葉の温度を判断できる人間です」


 会議室が静かになる。


「黒瀬グループが海外作品の権利事業を広げるなら、ただ訳すだけでは足りません。読者の文化や感情に届く言葉にする必要があります。潮見翻訳社には、それができます」


 役員のひとりが資料に目を落とした。


「ずいぶん自信があるようですね」


 澪は少し笑った。


「逃げるための飛行機を捨てて、ここに来た程度には」


 室内の空気が、わずかに緩んだ。


 隣で怜央がこちらを見ている気配がした。

 褒めるでもなく、驚くでもない。


 ただ、見ていた。


 それがなぜか、嫌ではなかった。


 会議が終わると、澪は廊下に出てすぐ壁にもたれた。


「最悪です」


「見事でした」


「褒めれば許されると思ってます?」


「思っていません」


「じゃあ、どうして勝手にあんな場に立たせたんですか」


「あなたが一番、潮見翻訳社を信じているからです」


 澪は言い返せなかった。


 そういうところが、ずるい。


 腹が立つのに、ちゃんと見られていた気がしてしまう。


 夕方、父への報告は思ったより短く済んだ。


 父は何度も「本当にいいのか」と聞いた。

 澪は笑って答えた。


「半年だけだから」


 父は安心したように笑った。

 でも、その笑顔は少しだけ苦しそうだった。


 夜。


 怜央のマンションは、生活感がなかった。


 広いリビング。

 整いすぎたキッチン。

 寝室は二つ。


「部屋は分けます」


「当然です」


「仕事部屋も用意しています」


「用意が良すぎて怖いです」


「あなたが来る可能性を考えていました」


「私が断ったら?」


「無駄になるだけです」


「それでよかったんですか」


 怜央は少し間を置いた。


「無駄になるなら、それでよかった」


 澪は、その意味を聞けなかった。


 夜十時。


 二人はリビングのソファに向かい合って座っていた。

 テーブルには紅茶がある。


 澪が見合いの席で一度だけ頼んだ銘柄だった。


「……よく覚えてますね」


「一度で十分です」


 こういうところだ。


 距離の詰め方は乱暴なのに、細部だけ妙に丁寧。


 怜央が言った。


「今日の本音を」


「先に言ってください」


「わかりました」


 彼は少し考える。


「会議室で話すあなたを見て、安心しました」


「どういう意味ですか」


「あなたは逃げる人ですが、大事なものからは逃げない」


 胸の奥が、少し痛んだ。


 澪はカップを見つめる。


「私の番ですね」


「はい」


 本音をひとつ。

 たったそれだけ。


 なのに、喉が詰まる。


 助かった。

 怖かった。

 腹が立った。

 少しだけ、嬉しかった。


 どれも本当で、どれも言いたくない。


「……今日は、疲れました」


 怜央は静かに見てくる。


「それは本音ではあります」


「じゃあ、いいでしょう」


「でも、選んだ本音ではない」


「厳しすぎませんか」


「契約なので」


 澪が立ち上がろうとした瞬間、怜央が右手を差し出した。


「言えないなら、手を」


 澪は固まった。


「本気ですか」


「契約書にあります」


「正気ですか」


「比較的」


 差し出された手を見つめる。


 大きくて、きれいな手だった。


 触れたら、何かが始まりそうだった。

 始まったものは、いつか終わる。


 だから澪は、始まる前に逃げてきた。


「……本当は」


 声が小さくなる。


「今日、少しだけ助かったと思いました」


 怜央の手が止まる。


「父の会社のことも、会議のことも。あなたのやり方は最悪だけど、それでも、少しだけ」


 澪は視線をそらした。


「助かったと思った自分が、嫌でした」


 沈黙が落ちた。


 怜央は差し出していた手を静かに下ろす。


「聞けてよかった」


「満足ですか」


「いいえ」


「またそれ」


「あなたが嫌だと言いながら、逃げなかったので」


 澪は何も言えなかった。


 その夜、与えられた部屋のベッドに入っても、なかなか眠れなかった。


 隣の部屋に怜央がいる。

 ただそれだけで、空港よりも遠くへ来てしまった気がする。


 半年だけ。

 偽装だけ。

 本気にならない。


 そう呟いた時、スマホが震えた。


 怜央からだった。


「今日の本音。あなたがここにいることに、安心しています」


 澪は画面を見つめた。


 追ってこない。

 責めてもこない。

 ただ、一通だけ届く。


 逃げ道を塞がれているわけじゃない。


 それなのに、なぜか逃げられない。


 澪はスマホを胸に伏せ、小さくつぶやいた。


「……そういうところが、一番困るのに」


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