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逃げる花嫁と、追わない御曹司――契約恋人は毎晩本音をひとつ求めてくる  作者: そらのことのは


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第1話 逃げる花嫁と空港の契約書

 空港の出発ゲート前で、潮見澪はパスポートを握りしめていた。


 行き先はシンガポール。

 滞在期間は未定。


 仕事用のパソコンと、数日分の服と、パスポート。

 それだけあれば、どこへだって行ける。


 恋が面倒になったら街を変える。

 誰かの期待が重くなったら国を変える。

 好きになりかけたら、笑って距離を取る。


 澪はずっと、そうやって生きてきた。


 スマホが震えた。


 画面には、三日前に見合いをした男の名前が表示されていた。


 『黒瀬怜央』


 大手出版グループの御曹司。

 無駄なことを言わず、笑いもしない男。


 メッセージは一文だけだった。


「逃げるなら、理由を聞いてからにしてください」


 澪は小さく笑った。


 理由なんて、決まっている。


 近づかれると苦しくなる。

 毎日連絡を求められると息が詰まる。

 将来の話をされると、逃げ道を探してしまう。


 愛されたい。

 でも、縛られたくない。


 そんな矛盾を、誰かに説明できる気がしなかった。


 スマホの電源を切ろうとした、そのときだった。


「潮見澪様。潮見澪様。至急、インフォメーションカウンターまでお越しください」


 空港のアナウンスに、自分の名前が響いた。


 澪は搭乗口を見る。

 あと少しで乗れる。


 無視すればいい。

 いつものように、行ってしまえばいい。


 けれど、胸の奥がざわついた。


 父の会社のことが頭をよぎる。


 母が残し、父が守ってきた小さな翻訳会社。

 経営が苦しいことは知っていた。

 それでも父はいつも「大丈夫だ」と笑っていた。


 大丈夫。

 その言葉ほど、信用できないものはない。


 澪はため息をつき、スーツケースを引いてカウンターへ向かった。


 そこに、黒瀬怜央が立っていた。


 濃紺の皺の一つもないスーツ。

 乱れのない7:3に分けた髪。

 まっすぐで突き刺さるような鋭い視線。


 空港の中で、彼だけが会議室にいるみたいだった。


「本当に来たんですね」


「来る必要がありました」


「私、これから飛行機に乗るんですけど」


「知っています。九時四十分発、シンガポール行き」


「怖いくらい調べてますね」


「あなたが逃げる前提なら、必要な情報です」


 澪は笑った。


「逃げるって決めつけるの、失礼じゃないですか」


「違いますか」


 責める声ではなかった。

 ただ、事実を確認するような言い方だった。


 それが余計に腹立たしい。


 怜央は黒い革のファイルを差し出した。


「あなたの父の会社が、来月末で資金繰りに詰まります」


 澪の表情が止まった。


「……父から聞いたんですか」


「いいえ。こちらで調べました。黒瀬グループの出版部門と潮見翻訳社が提携できれば、倒産は避けられる」


「だったら父と話してください」


「話しました。ですが、社内の反対が強い」


 嫌な予感がした。


 怜央は淡々と続ける。


「黒瀬家と潮見家に個人的な結びつきがあれば、話は変わります」


「まさか」


「僕と婚約してください」


 プロポーズというより、業務連絡だった。


 澪は数秒黙り、それから笑った。


「空港で? 搭乗前に? 倒産を盾に?」


「盾ではありません。条件です」


「なお悪いです」


「半年間の偽装婚約です。婚約の事実があれば、提携の決裁は通せます。その後、双方合意で解消する」


「ずいぶん都合のいい話ですね」


「あなたにとっても悪くない条件です」


「どうしてそう言えるんですか」


「あなたは結婚したいわけではない。けれど、父親の会社を見捨てたいわけでもない」


 澪は言い返せなかった。


 その通りだった。


 父を助けたい。

 でも、誰かの人生に組み込まれたくない。


 半年。

 偽装。

 契約。


 それなら、まだ譲歩ができると思う…


「私が断ったら?」


「あなたは飛行機に乗る。会社は潰れる可能性が高い」


「脅迫ですね」


「選択肢の提示です」


「最悪」


「否定はしません」


 澪はファイルを受け取った。


 契約書には、婚約期間は六か月、私生活に過度に干渉しない、公の場では婚約者として振る舞う、と書かれていた。


 そこまではいい。


 問題は最後のページだった。


「婚約期間中、双方は一日一度、相手に本音を一つ伝えること」


 澪は指を止めた。


「……何ですか、これ」


「条項です」


「見ればわかります。意味を聞いてます」


「偽装でも、信頼は必要です」


「本音を言えば信頼できるんですか」


「嘘だけで半年は持ちません」


 その言葉に、澪は黙った。


 嘘だけで生きてきたつもりはない。

 けれど、言わずに済ませた本音なら、いくらでもある。


 寂しい。

 怖い。

 追いかけてほしい。

 でも、追いつかれたくない。


 そんなものを毎日ひとつ差し出せと言うのか。


「黒瀬さんって、思ったより趣味が悪いですね」


「あなたほどではありません」


「私の何を知ってるんですか」


「好きになりかけると逃げる人だということは」


 胸の奥を、指で押された気がした。


 澪は契約書を閉じる。


「やっぱり断ります」


「搭乗しますか」


「します」


「では、今日の本音を一つだけ」


「契約してませんけど」


「まだ、していないだけです」


 腹が立つ。

 冷静な顔も、逃げ道を塞ぐ言い方も、全部。


 なのに、澪は言ってしまった。


「……怖いんです」


 怜央の目が、わずかに揺れた。


「誰かに大事にされるのも、待たれるのも、将来の話をされるのも。嬉しいより先に、逃げたくなる」


 言ってから、後悔した。


 こんなこと、ほとんど他人の男に話すことではない。


 けれど怜央は笑わなかった。

 哀れみもしなかった。


 ただ静かに言った。


「僕の本音も言います」


「聞きたくないです」


「あなたが怖がっているとわかって、少し安心しました」


「最低ですね」


「怖いなら、向き合う余地がある」


 澪は言葉を失った。


 そのとき、搭乗開始のアナウンスが流れた。


 シンガポール行き。

 逃げ道は、すぐそこにある。


 行けばいい。

 いつもみたいに遠くへ行けば、全部薄くなる。


 父の会社も。

 この男の目も。

 今、自分が言ってしまった本音も。


 怜央は急かさなかった。


「選んでください」


 それだけだった。


 澪は搭乗口を見た。

 それから契約書を見た。


 半年だけ。

 偽装だけ。

 本気にはならない。


 そう自分に言い聞かせて、ペンを取った。


 署名欄に名前を書く。


 潮見澪。


 怜央も隣に署名した。


 黒瀬怜央。


 二人の名前が並んだ瞬間、搭乗口が少し遠くなった気がした。


「これで満足ですか」


「いいえ」


 怜央は契約書を閉じた。


「今日から、あなたは僕の婚約者です」


「偽装の、です」


「ええ」


 彼は澪のスーツケースを自然に持った。


「では行きましょう」


「どこへ」


「あなたの父に報告を。次に、僕の家へ」


「家?」


「契約書の三ページ目です。必要最低限の同居」


 澪は固まった。


「聞いてません」


「読んでいませんでしたね」


「読ませる時間が短すぎます!」


 怜央はほんの少しだけ口元を緩めた。


「逃げる人に、長く考える時間を与えるのは危険なので」


 その笑みに、澪は思った。


 この男は危ない。


 強引だからではない。

 優しいからでもない。


 逃げるなと言わずに、逃げ道の先で待っていそうだから。


 空港の出口へ向かいながら、澪は心の中で何度も唱えた。


 半年だけ。

 偽装だけ。

 絶対に、本気にならない。


 けれどその夜、彼女はまだ知らなかった。


 契約書の最後に、小さな文字でもう一行だけ書かれていたことを。


『ただし、本音を告げられなかった日は、翌朝まで手を繋いで眠るものとする』

あとがきまで読んでくださり、ありがとうございます。


逃げるために空港へ来た澪が、まさかの契約婚約者になる第1話でした。


「自由でいたい」澪と、

「責任を持つ」と決めた怜央。


二人の物語が始まります。

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