観測者の椅子
ダンジョン第十九層。
湿った空気が、ゆっくりと肺の奥に沈む。
天井は低く、岩肌は黒く濡れている。
どこからか滴る水が、一定のリズムで床を叩いていた。
カン、……カン、……カン。
音が、やけに遠い。
画面の向こうでは、チャットが流れている。
〈きた〉
〈ここが問題の層〉
〈観測実験やるんだろ〉
〈視聴者増やしていい?〉
〈まだやめろw〉
〈今62000〉
「……増えてるな」
俺は肩の配信カメラを軽く叩く。
「聞こえてるか?」
配信の向こう。
〈聞こえてる〉
〈音クリア〉
〈こっちも緊張してきた〉
〈死ぬなよ〉
「死なない」
俺は短く言った。
「今日は、死なない日だ」
チャットが少しざわつく。
〈フラグ立てんな〉
〈不穏すぎ〉
〈元トップ配信者の死亡配信とかやめろ〉
「安心しろ」
俺は笑った。
「今日は、検証の日だ」
その時。
通路の奥で、何かが動いた。
ぬるり、と。
黒い影。
岩の隙間から、巨大な何かが身体を引きずり出す。
鱗。
暗い光。
長い首。
蛇だ。
だが、普通の蛇じゃない。
太さが人間の胴体ほどある。
頭が、二つ。
〈でた〉
〈双頭蛇〉
〈こいつやばい〉
〈第十九層のボス前モンスター〉
〈初見だ〉
「……なるほど」
俺は剣を抜いた。
カシャン。
金属音が、狭い空間に響く。
蛇の二つの頭が、こちらを見た。
同時に。
ゆっくりと。
〈視聴者64000〉
〈増えてる〉
〈やべえ〉
俺はチャットを見て、言った。
「いいか」
「今から一つ、実験する」
沈黙。
蛇が身体を持ち上げる。
ズル……
巨大な胴体が岩を擦る。
「観測者が増えると」
俺は、淡々と言った。
「ダンジョンの難易度が上がる」
〈そういう説〉
〈公式は否定してる〉
〈でも絶対ある〉
「だから」
俺は剣を肩に担ぐ。
「試す」
〈え?〉
〈まさか〉
〈おい〉
俺は配信カメラを指差した。
「今から」
一拍。
「視聴者を増やす」
チャットが爆発した。
〈!?!?!?〉
〈ばかだろ〉
〈おい待て〉
〈死ぬぞ〉
〈この層でそれやるのか〉
「問題ない」
俺はゆっくり言った。
「死ぬのは」
蛇が飛びかかる。
ドン!!
岩が砕けた。
俺は横に跳ぶ。
ガン!!
牙が床に刺さる。
「——俺じゃない」
剣を振る。
ザン!!
一つの頭が、半分裂けた。
黒い液体が飛び散る。
〈つよ〉
〈やばい〉
〈でも二つあるぞ〉
もう一つの頭が襲う。
ヒュン!!
空気が裂ける。
俺は身体を沈める。
その瞬間。
視界の端で、チャットが動いた。
〈視聴者70000〉
〈増えた〉
〈やばい〉
蛇が、止まった。
一瞬。
動きが、変わる。
筋肉が膨らむ。
鱗が黒く硬くなる。
〈……あれ〉
〈強化された?〉
〈嘘だろ〉
俺は笑った。
「やっぱりな」
蛇が咆哮する。
ギャァァァァ!!
空気が震える。
さっきより、明らかに速い。
ガン!!
岩壁が砕ける。
「いいぞ」
俺は剣を構えた。
「もっと増やせ」
チャットが凍る。
〈え?〉
〈いや無理〉
〈何言ってる〉
「いいから」
俺は言う。
「拡散しろ」
「この配信を、広げろ」
沈黙。
そのあと。
チャットが一斉に動いた。
〈拡散した〉
〈SNS貼った〉
〈今から増える〉
〈正気か〉
数字が動く。
72000
75000
81000
蛇の身体が膨れ上がる。
鱗が変色する。
牙が伸びる。
〈おい〉
〈これまずい〉
〈完全に変異してる〉
俺は言った。
「これが」
蛇が飛ぶ。
空間が裂ける速度。
俺は剣を振る。
火花。
衝撃。
骨が軋む。
「観測だ」
チャットが、静まる。
俺は言った。
「見られるほど」
蛇が再び襲う。
俺は踏み込む。
剣が走る。
「世界は」
斬撃。
血。
「濃くなる」
ザン。
二つの首が落ちた。
沈黙。
蛇の身体が、ゆっくり崩れる。
ドサ……
チャットが動く。
〈……〉
〈……え?〉
〈倒した?〉
〈まじ?〉
俺は剣を振って血を払った。
「次だ」
〈次?〉
〈いや今の何?〉
俺はカメラを見る。
「理解した」
数字はまだ増えている。
92000。
俺は言った。
「ダンジョンは」
「観測者に反応する」
一拍。
「つまり」
俺は、静かに笑った。
「視聴者を操れば、ダンジョンも操れる」
チャットが止まる。
〈……〉
〈まて〉
〈それって〉
俺は通路の奥を見る。
暗闇。
さらに深い階層。
「この配信は」
俺は言った。
「ここからが本番だ」
カメラの向こう。
視聴者数。
100000
その瞬間。
ダンジョンが、揺れた。
ゴゴゴゴゴ……
通路の奥から。
巨大な何かが、目を開いた。
〈……え?〉
〈今の何?〉
〈ボス?〉
俺は、呟いた。
「来たか」
「観測者の椅子」
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