第四話:神界盾《セイクリッド・アイギス》
門を飛び出した私は、街道を走りながら右手を前へ伸ばした。
「叡智魔眼!」
魔力が周囲へ広がる。草むらに潜む小動物。街を囲む石壁の上を走り回る兵士たち。
いくつもの気配が頭に浮かんだが、範囲の端は街道の途中で途切れていた。
「駄目。届かない!」
「馬を飛ばして十分ほど先だと言っていました! 先ほどの探知魔法では――」
「範囲を広げる!」
私は走る速度を落とし、魔力をさらに集めた。先ほど使った術名だけでは、これ以上遠くまで届かない。
詠唱を加えれば範囲を広げられる。そのためには、離れた場所まで見通す力に相応しい言葉が必要だった。
「また今考えるのですか!?」
「集中させて!」
千里を見通す目。あらゆる存在を捉え、隠れた者すら逃さない天上の視線。
「天上に座す星々よ、その輝きを我が瞳へ宿し、遥かなる地に蠢く万象を映し出せ――」
私の前に、青白い光の輪が広がった。
「千里天眼!」
放たれた魔力が、街道に沿って一気に駆け抜けた。魔力に触れたものの形と位置が、頭の中へ浮かび上がる。
「……いた」
街道上に二十近い反応が集まっている。
そのうち、動いている者は十数人。地面へ倒れたまま動かない者が三人いる。少し離れた場所には倒れた馬が二頭と、馬車らしき大きな影。
「どのくらい先ですか?」
「かなり遠い。相当無理させたっていうのは本当みたい」
「でしたら、まず門兵から馬を――」
「私乗れないし、間に合わない」
私は探知した気配へ意識を集中させた。細かな状況まではわからない。ただ、動いている者の一人が倒れ、その周囲を複数の反応が取り囲んだ。
門まで逃げてきた子供は、腹部に深い傷を負っていた。
母親たちの馬車が襲撃現場を離れてから、そこそこ時間が経っている。残された者たちが無傷で待っていると考えるほうが不自然だ。
「さっきの子、あと少し遅かったら危なかった」
私は立ち止まった。
「向こうにいる人たちにも、そんな余裕はないと思う」
「ですが、ここから走っても――」
「普通には走らない」
私は自分の体へ意識を向けた。筋肉を強化し、骨と腱の耐久力を上げる。心肺機能を高め、全身を巡る血流と魔力を加速させる。
使い方はわかる。これなら馬車よりずっと速く走れる。問題は、リゼットだった。
「リゼットも身体強化って使える?」
「初歩的なものなら。ただし、長時間走り続けられるほどの効果はありません」
「じゃあ決まり。そこに座って」
「え?」
リゼットは混乱しながらも素直に座る。素直すぎてちょっと不安になるけど、今はいいや。私はリゼットの横へ回り込んだ。
片腕を背中へ、もう片方を膝の裏へ入れる。
人一人を抱えて全速力で走る。
単純な筋力だけを上げれば、地面を蹴った瞬間に足を痛める。速度に体が耐えられなければ、自分もリゼットも無事では済まない。
全身を一つの術で強化し、さらにリゼットにも保護と風除けを広げる。
「我が身に宿れ、天を駆ける雷神の力――雷迅剛身! 風王障壁!」
詠唱が終わるとリゼットを勢いよく抱き上げた。いわゆる横抱きだった。
「な、何をしているのですか!?」
「抱き抱えて持っていく!」
「そういう意味ではありません! 下ろしてください!」
「走って私についてこられる?」
「それは……」
リゼットが言葉に詰まった。
「時間がない。ちょっと我慢して」
「ですが、この姿勢は!」
「お姫様みたいでかっこいいよ」
「私はそのようなことを気にしているのではありません!」
リゼットは真っ赤になって抗議したが、私はすでに集中していた。
体が軽い。リゼット一人を抱えているはずなのに、何も持っていないどころか、背中に翼でも生えたようだった。
「リゼット。しっかり掴まって」
「お待ちください。どの程度の速度を想定して――」
私は地面を蹴った。
「きゃああああっ!?」
景色が後方へ吹き飛んだ。
一歩ごとに数メートルを駆け抜ける。土が弾け、風が制服を激しく叩く。
「速っ!」
「なぜ術者であるマナが驚いているのですか!」
「使うの初めてだから!」
「先に言ってください!」
「言ったら乗ってくれなかったでしょ!」
「当然です!」
リゼットは私の首へ両腕を回し、必死にしがみついた。
私は街道を走りながら、頭の中に残る反応を追う。目標までの距離が、猛烈な勢いで縮んでいった。
「速い! これならすぐ着く!」
「前を見てください! 前!」
街道の中央に、大きな窪みがあった。私はそれを飛び越える。
普段なら助走をつけても届かない距離を軽々と跳び、着地した勢いのまま走り続けた。
「今、何メートル跳びました!?」
「わかんない!」
「速度を落としてください! 足を滑らせれば二人とも大怪我をします!」
「だめ! 間に合わない」
「なら、もう少し安定して抱えてください。落ちそうです!」
「こう?」
私は腕に力を込め、リゼットを胸元へ引き寄せた。
「近いです!」
「落ちるよりいいでしょ!」
「限度というものがあります!」
「じゃあ、リゼットが私の首をしっかり掴んで!」
「この速度で走っている方の首を絞めるわけにはいきません!」
騒がしい会話とは裏腹に、街道沿いの景色は猛烈な速さで後ろへ消えていく。
地面を踏む場所を選び、障害物を避け、曲がり道では外側へ膨らまないよう重心を傾ける。
怖いほど速い。それなのに、不思議と体は思った通りに動いた。
「見えた!」
街道の先に、横倒しにされた大木があった。
その向こうに一台の馬車が止まっている。車輪が壊れ、荷台の覆いが切り裂かれていた。
剣を持った男たちが、その周囲を取り囲んでいる。私は速度を落とさず、探知魔法へ意識を戻した。
「十一人立ってる。倒れてる人が五人! 一人だけ、少し離れた斜面の上で倒れてる。それと、馬車の陰に二人隠れてる!」
「十一人のうち、護衛が何人かわかりますか?」
「わからない。でも、馬車のそばに三人固まってる。残りが囲んでる!」
「囲んでいる方が襲撃者でしょう。まず人質を結界で保護してください! 広範囲の攻撃魔法は禁止です!」
「うん!」
さらに近づく。金属同士がぶつかる音と、男たちの怒鳴り声が聞こえた。
馬車の前では、血を流した護衛たちが剣を構えていた。
その後ろ、馬車の陰に、中年の男と十歳ほどの少女が身を寄せ合っている。
護衛たちを囲んでいるのは、統一感のない革鎧をまとった者たちだった。
「剣を捨てろ!」
髭面の男が叫ぶ。
「荷と女を置いていけば、命だけは助けてやる!」
「貴様らの言葉など信じられるか……!」
先頭に立つ護衛の足元には、すでに血溜まりができていた。
剣を握る腕も震えている。髭面の男が苛立ったように顎を動かすと、別の男が背後から回り込んだ。
少女へ向けて、剣を振り上げる。
「マナ!」
「見えてる!」
私はリゼットを抱えたまま、街道脇の斜面を蹴った。私たちの体が高く宙へ舞う。
盗賊たちが一斉に空を見上げた。
「な――」
私は右手を少女へ向ける。
「神界盾!」
透明な盾が現れた。
振り下ろされた剣が盾に激突し、甲高い音を立てて弾かれる。
「ぐあっ!?」
盗賊が手首を押さえて後ずさった。その直後、私は街道の中央へ着地した。
身体強化された脚が衝撃を受け止め、地面へ蜘蛛の巣状の亀裂が走る。砂埃が舞い上がり、近くにいた男たちが慌てて距離を取った。
「……到着!」
「もう少し穏やかに着地できなかったのですか!?」
私は腕の中のリゼットを地面へ下ろした。
リゼットはふらつきながらも杖を構え、すぐに周囲を確認する。
「人質二名、生存! 護衛と思われる方が三名倒れています!」
「生きてる?」
「遠目ではわかりません!」
「私が治す!」
「その前に、この者たちを無力化します!」
私たちの会話を聞いていた髭面の男が、怒鳴り声を上げた。
「何者だ、てめえら!」
私は男たちを見回した。
八人。全員が剣や斧を持っている。少女へ剣を振り下ろした男も、すでに武器を拾い直そうとしていた。
「武器を捨てて、ここから離れて。そうすれば、追いかけない」
一瞬の沈黙のあと、男たちが笑い出した。
「聞いたか? お嬢ちゃんが俺たちを見逃してくださるそうだ!」
「妙な術を一つ使えるからって、調子に乗るなよ!」
髭面の男が剣を私へ向ける。
「二人とも生け捕りにしろ! 金になりそうだ!」
男たちが包囲を狭める。
リゼットが杖を構えたまま、私の隣へ並んだ。
「交渉は失敗ですね」
「うん」
「拘束魔法は使えますか?」
「使える。でも、まだ名前を考えてない」
「今からですか!?」
「今から!」
私は両手を前へ出した。まずは神界盾の範囲を広げないと……
覆うような結界……絶対に破れないようにちょっと豪華にしておこう。
「天壌を分かつ光の壁よ、遍く厄災を退ける白亜の城塞へと成れ! 祈りは地を覆い、慈愛は天を塞ぐ、聖なる翼にて包み護れ――神界盾!」
少女の前に出してあった盾が私たちの頭上に移動し、そこから光の歪みが広がり、馬車と倒れた護衛たちごと包み込む半球を描いた。
突進してきていた盗賊たちも激突し、顔を押さえている。
「なんだこりゃ!?」
盗賊たちが剣で切り付けたりしているが、無駄だった。
結界は一切傷付かず全てを拒んでいる。
諦めて逃げる前に捕まえないと……
人を殺さず、八人を同時に捕らえる魔法。鎖。牢獄。光の檻。周囲から迫る刃を見つめながら、私は必死に名前を考え始めた。私の頭に、必要な魔法の形が浮かぶ。
「マナ急いでください!」
「急かされるとかっこいいのが思いつかない!」
「命が懸かっている場面で、何の心配をしているのですか!?」
かっこよさが足りなければ発動しないのだから、仕方がない。八人を同時に縛るなら、それらしい詠唱も必要になる。
私は覚悟を決めた。
「逃げ惑う愚者どもを縫い留めよ、虚空に牢獄を成せ! 光の戒律にて、束縛せよ――」
盗賊たちの足元に、金色の魔法陣が次々と現れる。
大男が異変に気づき、斧を振り上げた。
「天鎖牢獄!」
地面から、光を放つ無数の鎖が飛び出した。
「なっ――」
大男の両腕へ鎖が巻きつき、振り上げた斧ごと背後へ引く。別の鎖が足首を絡め取り、その巨体を地面へ転がした。
周囲でも、男たちの悲鳴が上がる。
「何だ、これは!」
「外れねえ!」
「切れ! 鎖を切れ!」
剣を振り下ろしても、金色の鎖には傷一つつかなかった。
逃げようとすれば新たな鎖が伸び、腕や足だけでなく胴まで締め上げる。武器を手放して抵抗をやめた者だけ、呼吸を妨げない程度に拘束が緩んだ。
やがて、光の鎖は一つに収束し、男たちをまとめて閉じ込める巨大な檻となった。
ほんの数十秒で、街道にいた八人と、倒れていた盗賊一人が光の牢に閉じ込められた。
「ふう……」
終わった。そう思った瞬間、倒れている護衛たちの姿が目に入った。
早く治さないと。私は神界盾を解除し、駆け寄ろうとした。
「マナ! まだいます!」
リゼットが叫んだ。街道を見下ろす斜面の上。
木の陰に、弓を構えた男が立っていた。そうだ、地面へ伏せて動かなかった者はもう一人いた。
弓の弦が鳴る。黒い矢が、私へ飛んできた。
「危ない!」
リゼットが私を突き飛ばした。矢が肉を貫く音がした。
「――っ!」
リゼットの体が傾く。左肩の下、胸当ての隙間に矢が突き刺さっていた。
「リゼット!」
私は倒れかけた体を抱き止めた。リゼットの顔が苦痛に歪む。
傷口から流れる血が、白い外套を赤く染めていく。
「大丈夫、です……」
「今、治す!」
「先に……敵を……」
斜面の男は、すでに二本目の矢をつがえていた。
「やめて!」
私は右手を向けた。
怒りと恐怖のまま、頭に浮かんだ最も短い術名を叫ぶ。
「天雷槍!」
青白い雷が、私の手から放たれた。
光の槍は飛来する矢を空中で砕き、そのまま斜面に立つ男の胸を直撃した。
雷鳴が街道を揺らす。男の体が弾き飛ばされ、木の幹へぶつかった。
弓が手から落ちる。男はその場へ崩れ落ち、それきり動かなかった。
「リゼット!」
私はすぐに膝をつき、リゼットの体を地面へ横たえた。
「矢を抜くよ!」
「待って……返しが……」
「抜いてから全部治す!」
矢を掴み、一気に引き抜く。
リゼットが苦痛に息を詰まらせた。傷口から血が溢れ出す。
「彼方に満ちる聖なる光よ! 巡りし命の輪を手繰り寄せ、傷つきし者へ今一度、完全なる息吹を与えよ!」
私は震える手を傷口へ押し当てた。
「天命回帰!」
金色の光が、リゼットの体を包み込む。
「リゼット」
「……聞こえています」
「大丈夫? 苦しくない?」
リゼットはゆっくり息を吸い、吐いた。
「痛みはありません」
「よかった……」
安堵した瞬間、私の全身から力が抜けた。リゼットへ覆い被さるようにして、額をその胸元へ押しつける。
「ちょ、ちょっと、マナ」
「少しだけ。このままでいさせて」
生きている。胸に耳を当てると、鼓動が聞こえた。
それを確かめていなければ、立っていられなかった。
「私を庇ったりするから……」
「咄嗟に体が動きました」
「私なら結界で防げたかもしれないのに」
「間に合った保証はありません。それに、助けに来た方へ矢が飛んできたら、庇うのは当然です」
「当然じゃないよ」
「マナも、同じことをしたでしょう」
私は何も言い返せなかった。しばらくして顔を上げる。
視界の端に、斜面の木が見えた。その根元で、男が倒れている。
私はゆっくりと立ち上がった。
「どこへ?」
「確認しないと」
近づきたくなかった。
それでも、曖昧なまま逃げることはできなかった。
斜面を登り、倒れた男のそばへしゃがむ。
私は首筋へ指を当てる。……かすかに、脈があった。
詠唱をしていなかった。名前だけの、一番短い魔法だった。
もし、あのとき何か一言でも付け足していたら。
背後から足音が近づいてくる。リゼットは隣へ立つと、私の背中へそっと手を添えた。
「……マナ」
「生きてる」
声が震えた。
「詠唱を足してたら、たぶん殺してた」
リゼットは何も言わず、背中に置いた手に少しだけ力を込めた。
私は深く息を吸い、男の胸へ手をかざした。
「この人も治す」
「敵まで治すのですか」
「死なせたくない」
それだけは、はっきり言えた。
リゼットは少しだけ目を伏せ、それから頷いた。
「わかりました。ただ、厳しいことを言うようですが、今はこの方の優先順位は高くありません。命を繋ぐ程度の治療にとどめて、拘束したら護衛の方々のところへ戻りましょう」
「……うん」
男の傷を最低限だけ塞ぎ、先ほどの魔法で檻に一人追加する。それから、私たちは馬車の方へ歩き出した。
「私の力……強すぎるみたい」
ぽつりとこぼれた言葉に、隣を歩くリゼットがこちらを見た。
「傷つけたくないのに、必要以上に傷つけちゃう。でも、リゼットや、他の人たちは護りたい」
「では、その加減は一緒に考えましょう」
「リゼットも?」
「あなた一人へ全てを背負わせるつもりはありません。私は慎重ですから」
「自分で言う?」
「少なくとも、走りながら作戦を聞く方よりは慎重です」
少しだけ、頬が緩んだ。
光の檻の中の盗賊たちは、わけがわからないといった様子で、怯えた顔をして私たちを見つめていた。
少し離れた場所では、助けられた父親が娘を抱き締めている。
「ありがとうございます……」
男は傷ついた体を引きずりながら、私たちへ頭を下げた。
「あなた方が来てくださらなければ、私も娘も殺されていました」
「もう大丈夫です」
私は親子のもとへ向かった。
「傷を見せてください。倒れている人たちも、まだ助けられるか確認します」
「しかし、あなたも顔色が……」
「私は平気」
本当は平気ではない。それでも今は、治せる命を先に救いたかった。
倒れていた護衛三人のうち、二人にはまだ息があった。
私は二人へ治癒魔法を使い、立っていた護衛たちと父親の傷も治した。残る一人は、私たちが到着する前にすでに亡くなっていた。
治癒魔法でも、死者を蘇らせることはできなかった。
やがて街道の向こうから、馬の蹄と車輪の音が聞こえてきた。
門兵と冒険者たちを乗せた二台の馬車が、こちらへ向かってくる。
「救援隊です」
リゼットが安堵の息を吐いた。
「これで盗賊たちの引き渡しと、負傷者の搬送ができます」
「よかった」
「街へ戻りましょう。今度こそ、正式に街へ入る手続きを行わなくては」
「そういえば私、まだ街に入れてなかった」
異世界へ来て、フォレストウルフを倒し、瀕死の子供を治し、盗賊団を捕らえた。
それなのに身分上は、いまだ街に入れない審査中の不審者である。
「帰りも私が運ぼうか?」
「お断りします」
リゼットは即答した。
「でも歩くより速いよ」
「絶対に嫌です」
「今度はもっと優しく走るから」
「最初からそうしてください!」
救援隊が到着するまでの間、私は何度もリゼットを説得した。
結局、「私たちは馬車の護衛です。先に帰るわけにはいきません」とリゼットに諭されて、私が折れた。
馬車は怪我人と荷物でいっぱいで、私たちは歩いて帰ることになった。




