第二話:幻影隠界《ミラージュ・ヴェール》
「それで、マナはどこから来たのですか?」
街へ向かう森の中、先を歩くリゼットが尋ねた。
「日本」
「ニホン……」
「知らない?」
「少なくとも、この周辺の国ではありません」
「だよねえ……帰れるかなあ」
私は頭上を見上げた。太陽らしきものがあり、空の色も元の世界と変わらない。
それでも、この世界が地球ではないことはわかる。魔物がいて、杖から火球が飛び、自分まで魔法を使えたのだから。
「気づいたら、さっきの場所にいたんだよね。それまでは学校から家に帰る途中だった」
「学校……魔法学院ですか?」
「普通の……なんて言ったらいいんだろう、学問を学ぶ場所って言えばいいのかな。魔法は教えてないよ」
少し迷ってから、私は思っていたことを口にした。
「……たぶんだけど、私、この世界の人間じゃないと思う」
「この世界ではない……?」
「うん。私がいたところには、魔物もいないし、魔法もないの。空の色は同じなんだけどね」
リゼットは歩く速さを変えないまま、少しだけ考え込んだ。
「にわかには信じがたいお話です。……ですが、魔法のない世界というのは、興味深いですね」
信じてくれたのかどうか、よくわからない返事だった。でも、その目が少しだけ輝いた気がした。
「では、魔法のない世界から来たマナが、あの強力な魔法をどなたに習ったのですか?」
「それがねえ……」
私は歩きながら、自分の右手を握ったり開いたりした。
「ここに来た瞬間から、使い方が頭に入ってた」
火を生み出す方法も、防御手段もわかる。
魔力をどのように動かせば、どんな現象になるのか。魔法を使ったことなど一度もないのに、体はその感覚を知っている。
「使える種類も、たぶんすごく多い。というか、できそうなことを考えると、大体やり方が浮かんでくる」
歩いていたリゼットの足が止まった。
「大体とは、どの程度ですか?」
「例えば、攻撃はたぶん一通りできるし、怪我を治すなら治癒魔法。空を飛んだり、姿を消したり、離れた場所へ一瞬で移動したりも……たぶんできる」
「少々お待ちください」
リゼットがくらくらしたように額へ手を当てた。
「一つずつ確認しましょう。まず、使える属性は?」
「全部使えると思う」
「……全部」
「たぶん」
リゼットは黙り込んだ。冗談だと思われただろうか。私自身、口にするほど胡散臭く聞こえてくる。
「通常、魔法使いには適性があります。私には火、水、土の適性がありますが、他の属性はほとんど使えません」
「そうなの?」
「ええ。マナの魔法は、一体どのような理論で構築されているのでしょうか……」
リゼットは真剣な顔で考え込んでいるが、私自身うまく説明できないし、どうしようもない。
私は魔法を使う方法を具体的に知っている。だけど、私固有のこの魔法がどういう基準で「かっこいい」と判定しているのかまではわからない。
「そういえば、魔法の名前って決まってるんだよね?」
「魔法名は発動する現象を定義するものです。火球と唱えて氷が出ることはありません」
「その名前を変えたら?」
「発動しないか、術式が不安定になります。長年の研究によって定められた名称ですから、理由もなく変える者はいません」
「だよねえ……」
私は深く肩を落とした。
どうやらこの世界でも、私の魔法の仕様だけがおかしいらしい。
まあ、この話題はいくら考えたところで私自身がわからないのだ。私は空気を変えるように口を開いた。
「話は変わるけど、リゼットって冒険者になってまだ浅いの?」
「本日が冒険者として初めての依頼です」
「初日!?」
「薬草を採取するだけの予定でした。フォレストウルフが外縁部まで出てくるとは思わなかったのです」
慎重なのか無謀なのか、いまいち判別しにくい。
ただ、初めての実戦で巨大な獣を前にしながら、私を庇おうとしたのは事実だ。
「それで近づかないでって言ってくれたんだ」
「関係ない方を危険に巻き込むわけにはいきませんから」
「リゼット、いい人だね」
「当然のことです」
そう答えた横顔は平静だったが、耳が少し赤くなっていた。私は笑いながら、その隣へ並んで歩く。
「でも、おかげで助かった。あのまま一人だったら、たぶん何もわからず森を歩き回ってたし」
「私も助けられました。ですから街までは責任を持って案内します」
「ありがとう」
それから雑談を交えながらしばらく歩いていると、リゼットが急に手を上げた。
「止まってください」
私はすぐに足を止める。リゼットは地面へ膝をつき、湿った土を調べた。落ち葉の上に、小さなくぼみが続いている。
「何かいる?」
「角兎の足跡です。まだ新しい」
「ツノウサギ?」
「額に角を持つ魔物です。単体なら脅威ではありませんが、群れで襲われると危険です」
リゼットは険しい顔で周囲を見回した。
「遠回りしましょう」
「どこにいるか調べられるよ」
「探知魔法を使えるのですか?」
「使い方はわかる」
私は目を閉じた。自分を中心に魔力を薄く広げ、触れた生き物の形と位置を読み取る。あとは、この魔法に名前を与えればいい。
「…………」
私は口を閉ざした。
「どうしました?」
「名前を考えてる」
「術名を忘れたのですか?」
「忘れたんじゃなくて、今から作るの」
「今から?」
「静かにして。集中できない」
かっこいい探知魔法。すぐにいくつか思いついた。しかし、実際に声に出す自分を想像すると、どれも途端に耐え難くなる。
「周辺探知ではいけないのですか?」
「それで使えたら苦労してない!」
「その場で術式を組み上げているのですね……」
リゼットの誤解はひとまず置いておくことにした。説明できるかわからないし……
普通の名前は発動条件を満たさない。自分の中にある妙な感覚が、もっとかっこつけろと要求してくる。私は何度も辺りを見回した。
ここにはリゼットしかいない。そのリゼットが、期待に満ちた目でこちらを見ている。
私は両手を胸の前で組み、蚊の鳴くような小声で唱えた。
「万象を映せ……叡智魔眼」
魔力が波紋のように広がった。草木に触れ、地面を這い、木々の間を抜けていく。視界には何も映っていないのに、生き物の位置が頭の中へ次々と浮かんだ。
ただ、小声だったせいか、思ったより範囲が狭かった。声の大きさも判定されるのか……だけど、今の状況なら十分だ。
「……すごい」
「何が見えますか?」
「右前に小さいのが七匹。たぶんそれが角兎。左の茂みに大きめの何かが一匹いるけど、寝てる。後ろには……」
私はサッと振り返った。
「私たちが来た方から、何か近づいてる」
「大きさは?」
「さっきの狼より小さい。四匹……いや、五匹」
リゼットの顔色が変わった。
「グレイドッグかもしれません」
「強い?」
「一体なら問題ありません。しかし五体同時となると、接近される前に全て倒すのは難しいです」
「じゃあ、気づかれなければいいかな。ついでに角兎もスルーできると思う」
「そのような魔法が?」
「あるよ」
私の頭には、すでに術式が浮かんでいた。相手へ危害を加えず、こちらの存在そのものを認識しにくくする魔法だ。
便利だ。とても便利なのだが、当然、名前が必要だった。
「……リゼット」
「はい」
「耳を塞いで」
「周囲に魔物がいる状況で、聴覚を塞ぐことはできません」
「正論が邪魔!」
近づいてくる獣たちの気配が、どんどん近くなっていく。
迷っている時間はない。私は覚悟を決め、両手を広げた。
「我らを覆え、不可知の帳――幻影隠界!」
透明な魔力の膜が私たちを包む。風も、景色も変わっていない。しかし、森のざわめきから私たちだけが切り離されたような、不思議な静けさが生まれた。
そのまま歩き続けると、やがて後ろから、犬に似た魔物が五匹現れた。私は息を呑んで身構えたが、魔物たちは私たちのすぐ近くを素通りしていく。一匹が鼻を動かして振り返ったものの、やはり気づかずに脇の茂みへ逸れていった。
「成功した……」
私は安堵して長く息を吐いた。
「すばらしい魔法です」
隣から感嘆の声が聞こえた。
「気配と匂いを同時に遮断し、視覚的な認識まで阻害しています。しかも移動中の術者と同行者へ効果を維持するとは……」
「詳しく分析しなくていいから」
「幻影隠界?」
「発音しなくていいから!」
抗議する私を見て、リゼットは優しく微笑んだ。
「ご安心ください。魔術師にとって、固有術式の秘匿は当然の権利です。無理に聞き出したりはしません」
「そういう配慮をされると、余計に辛い!」
***
一時間ほど歩くと森の木々がまばらになり、やがてその先に、高い石壁で囲まれた街が見えた。
「着きました。あれがリーヴェンの街です」
「おお……!」
畑の向こうに赤い屋根が並び、石壁の内側から何本もの煙が昇っている。門の前には荷馬車が並び、槍を持った兵士たちが出入りする人々を確認していた。
本当に異世界へ来たのだ。ようやく実感が湧き、私の胸が高鳴った。
「街だ……! すごい、中世みたい!」
私が駆け出そうとした瞬間、リゼットに腕を掴まれた。
「お待ちください」
「何?」
「街へ入るには、身分証が必要です」
私は立ち止まり、慌てて制服のポケットや鞄の中を探った。生徒手帳や図書館カードならあるが、当然この世界で通用するはずがない。
「持ってない」
「先ほどの話からするとそうでしょうね」
「どうしよう」
門前払いを食らって野宿する羽目になるのだろうか。不安になった私に、リゼットは落ち着いた声で告げた。
「私が事情を説明します。ただし、身元不明者として詰め所でいくつか質問を受けることになるでしょう。その際、魔法については慎重に話してください」
リゼットは周囲に誰もいないことを確認するように視線を巡らせ、声を落とした。
「全属性を扱えるなどと不用意に公言すれば、大変な騒ぎになります。歴史書にもそのような魔法使いは記録されていません」
「そんなにやばいんだ……じゃあ、一個か二個だけ使えることにした方がいい?」
「その方が安全です。今回は『火』と『光』の二系統ということにしましょう」
「了解」
リゼットが念を押すように私を真っ直ぐに見つめた。
「もし術名について尋ねられた場合は、故郷に伝わる古代魔術だと答えてください」
「それは嫌」
「なぜです?」
「嘘を重ねたら、あとで絶対ひどいことになる気がする」
「では、何と説明しますか?」
私は考えた。
自分でかっこいい名前を考え、口に出さなければ発動できない魔法です。長くかっこいい詠唱を付けるほど強くなります。
「……故郷に伝わる古代魔術でお願いします」
「承知しました」
リゼットは素直に頷いた。
こうして私、天崎麻奈は、異世界へ来てから二時間も経たないうちに、「古代魔術を継承する謎の魔法使い」という経歴を自ら選んだ。
この小さな嘘が、後にどれほど大きく育つのか。今の私には、知る由もなかった。




