第一話:炎龍豪弾《ドラグニティ・ショット》
誰とも予定が合わなかった放課後の帰り道。私はコンビニに寄るかどうかで悩んでいた。
財布の中には五百円玉が一枚。今日発売の新作アイスを買えば、明日の昼休みにジュースを買う余裕はなくなる。
「……明日の私なら、水でもたぶん笑って許してくれる!」
明日の私に負債を押し付けた私は、意気揚々とコンビニの自動ドアをくぐり……
すかっ。
「えっ――」
そこにあるべき床がなかった。体が落ちる感覚は、ほんの一瞬。白い光が視界を塗り潰し、次の瞬間感じたのは、湿った土へ叩きつけられた鈍い痛みだった。
「いったぁ……!」
腰をさすりながら身を起こす。さっきまで夕方だったはずだが、やけに明るい。
都会ではあまり嗅ぐ機会のない土と、濃い草の匂い。
頭上を覆っているのは、夕暮れの空ではなく、幾重にも絡み合った枝と、光を透かす深緑の葉だった。
車の音も、人の声も聞こえない。
「……どこ、ここ」
立ち上がり、スカートについた土を払う。
反射的に取り出したスマートフォンは圏外。地図アプリも現在地を読み込まず、方位磁石のアプリもぐーるぐる。充電だけは無駄にたっぷりあった。
私は深く息を吸い、ゆっくり吐いた。
「よし。落ち着こう。こういうときは、まずお母さんに……圏外だった。じゃあ現在地の確認……わからない。さっきくぐったコンビニのドアは……ない」
振り返っても、そこにあるのは大きな木だけだった。
「落ち着ける要素が一個もない!」
叫び声が虚しく森に吸い込まれていく。
……そのとき、頭がキーンとなる。
「……っ何!?」
知らないはずの知識が、不意に頭の中へ流れ込んできた。
火を生み出す方法。水を集める方法。風を操り、土を隆起させ、傷を癒やし、物を浮かべ、遠くの音を拾う方法。
知識だけではない。
体の内側に満ちている力を、どう動かし、どう形に変えればよいのか。初めて手にした道具の説明書を読んだというより、ずっと昔から知っていた動作を思い出したように理解できた。
この力は魔力。私は魔法を使える。
火、水、風、土、雷、氷、光、闇。なんでもわかる。
「……異世界転移?」
自分で口にしてみると、あまりにも現実感がなかった。
問題は、魔法の発動方法だった。
私は自分の人差し指の先を見つめた。
小さな火を灯すだけなら簡単だ。魔力を指先へ集め、燃焼する現象を思い描き、それに名前を与える。
ただし、その発動には絶対に避けられない条件がある。
この世界で本来使われている魔法名では、発動しない。
自分で名付けた、勇壮で、神秘的で、できる限りかっこいい(?)魔法名を声に出さなければならないのだ。
使い方は、はっきりとわかっていた。わかっているからこそ、私は固まっていた。
「……いやいやいや」
勢いよく首を横に振る。
「ほかにあるでしょ。念じるとか、杖を振るとか、無詠唱とか。なんでよりによって?」
抗議しても誰も答えない。
試しに、指先へ魔力を集める。頭の中に小さな炎を思い描き、口を開く。
「――」
開いた口からは何も音が出なかった。私は周囲を見回した。誰もいない。それでも耐え難く恥ずかしい。
「……いいから燃えて」
何も起きなかった。
魔法の正式名称も頭に浮かんでいる。灯火。しかし、それを唱えても自分の魔力は反応しないことを、私はすでに知っていた。
それでも抗うように、小声で口にしてみる。
「灯火」
やはり何も起きない。
「知ってた! 知ってたけど、一回くらい融通利かせてくれてもよくない!?」
結局、自分で名付けるしかない。三年前、中学二年の頃の私だったらすごく喜んでいただろうな。あの頃は厨二病……この話はいいや。
しばらく悩んだ末、私は誰にも聞かれていないことを何度も確かめた。
「……明星吐息」
ぽっ、と指先に青白い火が灯った。
「出ちゃった……」
炎は熱を持ちながらも、私の指を焼かなかった。成功した。成功してしまった。
火を消した私は、両手で顔を覆ってしゃがみ込んだ。
「なんでこれで出るの……」
誰も見ていないのに、頬が熱い。
自分の名前の付け方にも納得できなかった。もう少し落ち着いたネーミングでも良かったのではないか。
なのに、いざ名付けようとすると、頭に浮かぶ候補はどれも無駄にかっこいいものばかりだった。
頭のどこかでワクワクしている。「私かっこいい!」と昔の私が叫んでいる。それが本当に恥ずかしかった。
魔法そのものはすごい。使ってみたいとも思う。
だが、そのたびにこれを口にしなければならないのなら、できるだけ人前では使いたくなかった。
……が。その固い決意は、わずか十秒後に破られた。
「きゃあっ!」
森の奥から、女の子の悲鳴が聞こえた。
私は反射的に走り出していた。
「今度は何!?」
枝を払い、木の根を飛び越える。
本当なら慎重に近づくべきだった。ここがどこかも、何がいるのかもわからないのだから。
しかし、女の子の悲鳴を聞いて足を止められる私ではなかった。
木々の間を抜けた先の開けた場所で、杖を構えた少女が後ずさっていた。
私と同じくらいの年頃だ。肩にかかる金色の髪を青い紐で束ね、白い外套の下に革製の胸当てを着けている。
その正面には、狼によく似た黒い獣がいた。
ただし、大きさは狼どころではない。少女の胸ほどの高さがあり、口の両端からは細長い牙が覗いていた。
獣が低く唸る。
少女は杖を向けたまま、横目で私を見た。
「そこの方、近づかないでください! フォレストウルフです!」
獣の耳が、こちらへ向く。注意が一瞬だけ逸れた隙に、少女が杖の先を振り上げた。
「火球!」
拳ほどの炎が飛ぶ。
だが、獣は軽く横へ跳び、それをかわした。火球は地面にぶつかり、湿った草を焦がして消える。少女は咄嗟に杖を横へ振った。
「土壁!」
地面が盛り上がり、土の壁がいくつか作られた。
だが、獣は勢いよく地を蹴り、壁を難なく飛び越える。距離がどんどん詰まっていく。
私の頭の中には、使える魔法がいくつも浮かんでいた。
やるべきことはわかるし、魔法名もどんどん思いついている。
ただし、言いたくない。……そんな場合じゃない、馬鹿!
「こんな状況で何を迷ってるの、私!」
私は少女の前に躍り出た。彼女が背後で何か言っているが無視する。
獣が、私へ向かって飛びかかってきた。
「神界盾!」
透明な盾が私の前に現れる。獣が激突し、硬い音が鳴る。
しかし、盾には傷一つついていない。
少女は目を見開いた。
「今のは……?」
「気にしないで!」
盾に弾かれた獣が後退し、明確な敵意を私へと向けた。
低い唸り声が響く。
「……あ」
助けに入った以上、当然そうなる。獣は私へ突進してきた。
「危ない!」
少女が火球を放つ。しかし狙いをつける余裕がなく、炎は獣の背中を掠めただけだった。
あの子が撃っている炎の魔法なら倒せるのかな。
もっと他の魔法もあるはずなのに、恐怖で頭が回らない。浮かんでくるのは、目の前の脅威を一撃で消し飛ばす極端な方法ばかりだった。
私は手のひらへ魔力を集めた。
「火球!」
何も起きない。わかっていた。
それでも、この状況なら見逃してくれるのではないかと期待してしまったのだ。
「なんでこんなときまで厳密なのよ!」
獣が地を蹴った。土壁のときと同じように、盾を飛び越えようとしている。
迫る獣の影。だが、私は目を閉じなかった。
さっき流れ込んできた知識には、続きがあった。発動前に仰々しい詠唱を加えると、その長さや内容に応じて威力と規模が増すらしい。
この一撃で決めたい。長期戦だけは絶対に避けたかった。私は、ありったけの厨二心を呼び覚ました。
「猛き炎よ、虚空を揺るがす紅き咆哮となれ! 紅蓮の龍となりて、立ち塞がる全てを喰らい尽くし、我が敵を穿て――炎龍豪弾!」
私の右手から、炎が爆発した。
渦を巻く炎が龍の頭のように顎を開き、飛びかかってきたフォレストウルフを丸ごと呑み込む。炎はそのまま地面を抉りながら一直線に突き進み、奥にあった大岩へ衝突した。
轟音。大岩が砕け、森全体が大きく揺れた。
吹き荒れる強烈な熱風は、さっき出した透明な盾が私たちの前で完全に防いでくれた。
「……え?」
地面には、黒く焦げた一直線の跡が残っている。その先にあった大岩の半分が消し飛び、断面が赤くドロドロに溶けていた。
獣の姿は、影すら残っていなかった。
唖然としていると、少女が我に返り、慌てて杖を掲げた。
「水弾!」
弱めの水弾が、燃えかけていた周囲の草木へ降り注ぐ。私も手伝おうとしたが、水の魔法につける名前が咄嗟に思いつかない。
「水、水……蒼海……えっと……!」
「あなたの魔法では威力が強すぎます! この程度でしたら私一人で十分なので結構です! そこを動かないでください!」
「はい!」
少女は何度か放水を繰り返し、延焼を食い止めた。
やがて、辺りには焦げ臭い白い湯気だけが漂う。
私は地面に座り込んだまま、自分の右手を見ていた。
手は焼けていない。痛みもない。それでも指先がガタガタと震えていた。
魔法を放った瞬間の感触が残っている。体の中から力が抜け、命中したところで何かが途切れた感覚。
さっきまで牙を剥き、自分を殺そうとしていた生き物が、跡形もない。
「……私が、殺したんだ」
声に出した途端、胃の奥がひっくり返りそうになった。
罪悪感なのか、恐怖感なのか、自分にもよくわからない感情が渦巻いていた。
しばらくすると、少女が私の前にしゃがみ込む。
「あれは、人を襲う魔物です」
「……うん」
「あなたが魔法を使わなければ、私か、あなたが死んでいました」
「それも、わかる」
逃げ場はなかった。助けなければ、少女は爪に引き裂かれていたかもしれない。私も。
何も間違っていない。そう思おうとしても、震えは止まらなかった。
「ごめん。ちょっとだけ……待って」
「はい」
少女は急かさなかった。背中を撫でることも、軽々しく慰めることもしない。ただ、何かあればすぐに支えられる距離で、静かに座っていてくれた。
私は何度か深呼吸をした。湿った土の匂いに、焦げ臭さが混じっている。
怖かった。殺されるのも怖かったし、自分が何かを殺せる力を持っていることも怖い。
それでも、あの瞬間に戻ったとして、何もしないという選択はできないと思った。
「……次は、もっと加減できる魔法にする」
顔を上げて呟くと、少女は少しだけ表情を緩めた。
「それがよいと思います。先ほどの威力は、フォレストウルフ一体へ向けるものではありませんでしたから」
「詠唱、足しすぎたかな……」
「足しすぎた?」
しまった、と思い私は口を閉じた。
少女の視線が、急に研究者のように鋭くなる。
「先ほどの術について、お聞きしても?」
「できれば聞かないでほしい」
「神界盾とおっしゃいましたね?」
「復唱しないで!」
私は震えが残っているのも忘れて、少女の肩をガシッと掴んだ。
「お願いだから忘れて! 少なくとも人前では絶対に言わないで!」
「秘匿された術なのですね」
「そういうかっこいい理由じゃない!」
少女は戸惑った顔で、私と焦げた地面を見比べた。
「見たことのない術式でした。魔法陣も杖も使わず、聞いたことのない言葉で、あれほどの火力を……古代呪文の一種でしょうか」
「違うから」
「では、失われた魔法体系?」
「そんな由緒あるものでもないから!」
まさか、自分で考えた名前を叫ばなければ魔法が出ないとは言えない。
言えば、少女はきっと先ほどの詠唱を最初から思い返す。すでに十分恥ずかしいのに、感想まで述べられたら立ち直れそうになかった。
少女はまだ聞きたそうだったが、私の顔を見て一度引き下がってくれた。
「申し遅れました。私はリゼット・アルノーと申します。近くの街で、冒険者見習いをしています」
「リゼットが名前でアルノーが家名……で合ってる?」
「ええ、リゼットと呼んでください」
丁寧な言葉遣いと凛とした態度に、私も慌てて姿勢を正した。
「私は天崎麻奈。天崎が家名に当たる。呼び方はマナでいいよ」
「わかりました。よろしくお願いします、マナ」
「うん。よろしく、リゼット」
リゼットは杖を持ったまま、深く頭を下げた。
「改めて、助けていただきありがとうございます、マナ」
「私も一人だったら、たぶん何をすればいいかわからなかったし。火も消してもらったから、お互いさまってことで」
「それでもです。ありがとうございます」
真っ直ぐに正面から礼を言われ、私は照れ臭くなって頬を掻いた。
「どういたしまして」
リゼットは顔を上げ、周囲の森を警戒するように見回した。
「ここに長居はできません。別の魔物が寄ってくる可能性があります」
「まだいるの?」
「ここは魔物の多い森です。お一人で入ってきたのですか?」
「入ってきたというか……気づいたらいた」
「気づいたら?」
リゼットが訝しげな表情を浮かべる。異世界転移と言って信じてもらえるだろうか。
私自身、まだ信じ切れていない。というか何もわかっていないのだ。
「歩きながら話してもいい? 私も聞きたいことが山ほどある」
「わかりました。街までは一時間ほどです。ただし、私から離れないでください」
「リゼットこそ、さっき一人で危なかったじゃん」
「あれはフォレストウルフが一体だけだと判断したためです。火球が命中していれば問題ありませんでした」
「避けられてたけど」
「……今後の反省点です」
真面目な顔のまま答えたリゼットがおかしくて、私は少しだけ笑った。
すると、張り詰めていた胸の奥がわずかに緩んだ。怖さは完全に消えたわけではない。
灰すら残らなかったフォレストウルフの姿も、しばらく頭から離れそうになかった。
それでも今は、この森を出なければならない。生きて街へ着き、自分がどこへ来たのかを知る必要がある。
私はリゼットと並んで歩き出した。
数歩進んだところで、リゼットが口を開く。
「あの、マナ」
「なに?」
「先ほど、術名の前に唱えていた長い言葉ですが」
「忘れてって言ったよね!?」
「あれはどちらの言語でしょうか。音の並びに規則性があるように聞こえました」
「分析を始めないで!」
静かだった森に、私の声が虚しく響き渡った。




