第3話 名前
それから数日、店のそばを通る配達のトラックを見るたびに、少しだけ意識してしまう自分に気づく。
別に、待っているわけじゃない。でも、台車の音がするたび、無意識に顔を上げていた。
かたん、かたん、という水たまりを避ける音を、耳が探している。
その日は、雲の間から晴れ間がのぞいていた。
常連の高橋さんが、豆を挽く音を聞きつけてふらりと顔を出す。
「今日はいい天気ねえ」
「そうですね。しばらく降りそうにないです」
高橋さんは、ふふと口元をゆるめた。
「この前の雨のとき、配達のお兄さんに傘貸したんだって?」
思わず手が止まった。
「え、なんで知ってるんですか」
「そりゃ、この商店街よ。八百屋のおばちゃんが見てたって」
高橋さんはコーヒーを受け取りながら、面白そうに笑った。
「あの子、感じいいわよねえ。うちの前を通るときも、必ず頭下げてくれるし」
そうですね、と曖昧に返しながら、こんな小さな街で何かを隠すことの難しさを改めて思う。
昼過ぎ、銀行に行くためにいったん店を閉めた。
なぜか窓口の列が長く、思ったより時間がかかってしまった。
帰り道、少し急ぎ足になる。店を長く空けるのは落ち着かない。
商店街に戻ると、下りたままのシャッターがいくつも目に入って、いつものように少し寂しくなった。
店の前まで来て、足が止まる。
ドアノブに、傘がかけられていた。
きちんと乾かされて、丁寧に折りたたまれている。
ドアには不在票が挟まっていた。隅に、短いメッセージ。
「傘、ありがとうございました」
担当者欄に「瀬尾」とある。
男性らしい角張った文字だが、どこか几帳面さを感じさせた。
きちんと雨よけのシートがかけられていた台車が頭をよぎった。
少し照れたような横顔も。
(瀬尾さんって言うんだ)
傘を店の中に運びながら、その名前を小さく口の中で転がしてみる。
瀬尾さん。
たった四文字なのに、なんだか急に、彼の輪郭がはっきりした気がした。




