第9話「監視報告 第三十四号:当班の報告物の決裁(三者三様)、ならびに班の体制に関する件」
朝いちばんに、報告書を書き上げた。
あたしの帳面仕事は、近ごろめっぽう早い。なにせ書くことがない。昨日の監視はこうだ。朝。持ち場に立った。昼あの人の出はなし。夕引き上げた。役所の手に直すと、行が三つで済む。
筆を持って十も数えないうちに終わった。
我ながらいい紙だ。字は揃ってる。行は曲がってない。絵の一枚も生えてない。禁止令このかた、あたしの報告書はうちの班でいちばん行儀がいい。
……行儀がよすぎてたまに自分の字じゃないみたいに見えるけど。
ま、いい。お役所の紙に味は要らない。出してくる。
◇◇◇
報告書は書いて終わりじゃない。出して、読まれて、直されて、綴じられて、それでようやく終わる。
出す先は書記室の提出の箱だ。班長の机の脇に据えてあるただの木箱。うちの班の紙はぜんぶ一度そこへ上がって、班長の朱を浴びて、それから上へ行ったり、綴りに行ったりする。
行ってみたら、先客がいた。
柱——じゃなくて、スティルラだ。文書院の数える人。箱の前に立って、布包みから紙を出して、納めるところだった。
「おはよう」
「……朝である」
挨拶が成立したのかしてないのか分からない返事が来た。本日も平常運転だ。
納められた紙がちらっと見えた。薄い。二枚あるかどうか。
おや、と思った。この人の紙といえば束で来るのが相場だ。本文一枚に、別紙が何枚も、欄外までびっしりの、字の塊。箱の中で一人だけ場所を取るやつ。それが今日は、この薄さ。
表書きも見えた。第三十三号。その下に括弧して——第十二号、再掲。
「再掲って何」
「昔の号を原文のままもう一度出すことである」
「なんでまた」
「点検である」
それ以上は言わなかった。聞きもしなかった。人の報告書ってやつは聞いていいことと悪いことの見分けが面倒だ。面倒は聞かないに限る。
と思ってたら、聞いてもいないのに向こうから言った。
「再掲の中身は対象の観察が一件。本官の点検が一件。以上である」
対象の観察。あの人の昔の記録ってことか。
「ふうん」
それだけにしておいた。昔のことを知ったところで、銀貨にはならない。
で、あたしの番だ。例の三行を箱に入れた。
入れたら、滑った。薄すぎて箱の隅へすうっと縦に落ちた。我ながら紙まで身軽だ。
スティルラの手が伸びて拾った。角を揃え、まっすぐに直して、自分の包みの上に重ねた。いちばん上に。
「重ねていいんだ」
「薄い紙は沈む。沈むと読まれるのが遅れる。上が良い」
それだけ言って、布を畳んで、行ってしまった。持ち場に戻るんだろう。北の回廊の、柱のとなりの、柱に。
……どうも、と言いそびれた。
早く読まれて得する中身でもなし。
本日の納品完了である。
——うつってる。やめだ。あの人の「である」は聞いてると指にうつる。筆まで四角くなる。
◇◇◇
帰ろうとしたら、入れ違いに班長が来た。
「ちょうどいい。そこにいろ」
なんでだ。提出は済んだ。あたしの本日のお役所仕事は、終わったはずだ。
「お前のをいま見る。質問があればその場で済む」
班長は箱ごと机に移していちばん上から取った。あたしの三行だ。
読んだ。息ひとつ分もかからなかった。
朱の筆を取って——止まった。
筆先が紙の上を一往復した。降りなかった。
「……以上か」
「以上です」
「直すところがない」
褒められた、と思うだろ。違うんだな、これが。あの人の口から出る「直すところがない」は合格って響きがしない。強いて言えば、勘定の合いすぎた帳簿を前にした顔だ。数字は合ってる。合ってるのが、おかしい。そういう顔。
「何かまずいです?」
「いや」
朱は一画も入らなかった。
「次」
次はスティルラの包みだった。
表書きを見て班長の眉がわずかに動いた。
「再掲」
一枚目をすっと。二枚目をすっと。読んでるのか、確かめてるのか、分からない速さだった。
隅に小さく。何と書いたかまでは見えなかった。
「再掲ってのは、ありなんですか」
「前例はない」
班長は紙を揃えながら言った。
「だが、禁じる規則もない。次から前例はある」
お役所が今日も一個育った。
その次は、箱の底の一枚だ。離れて見てても分かる行の三つしかない紙。厨房の分だろう。あの人の報告書はいつも三行きりだと聞いている。
班長はそれを見た。たぶん読んだ。朱を持ち直してそのまま置いた。かかった時間まばたき二回。
世の中には直しようのない紙が二種類あるらしい。足りてて直せないのと、減らしようがなくて直せないの。今朝並べて見てよく分かった。あたしのがどっちかは言わないでおく。
それから班長は空になった箱を見た。
見たまましばらく動かなかった。
「あの」
「夜祷堂の分がない」
ああ、と思い当たった。夜番のウィジリアだ。会ったことは一度ある。敷石の夜だ。
「あの人、紙には書かないんでしたっけ」
「書かない」
班長は箱の縁を指で一度叩いた。
「書式を二度届けた。二度とも口で返ってきた」
「口で」
「来て、言って、帰る。こちらが筆を取る間もなくだ」
紙には書かない人。書くと残るから——って話を班長から聞いたのは、いつだったか。検閲する側に立って眺めるとなるほどこれは難物だ。
「で、その口頭のぶんはどうなるんです」
「私が書く」
「班長が?!」
声が裏返った。検閲する側の人が書く側に回ってる。
「書いたらそれ誰が直すんですか」
「直せない」
班長は朱の筆を置いた。本日いちばん置き方が重かった。
「自分の書いた紙に、自分で朱は入れられない。読む前から、中身を知っている」
検閲の総元締めが、たった一人の班員にだけ、検閲をやらせてもらえない。しかも向こうはたぶん、そのことに気づいてもいない。親切で言って、親切で帰ってるだけだ。
「箱は毎朝ここに出る。全員の分が揃ったことは、一度もない」
班長は箱を机の脇に戻した。
「以上だ。戻っていい」
それから片づけの途中で誰に言うでもなく付け足した。
「私は堕ちていない」
……何から、とは聞かなかった。聞いたら長くなる顔だった。それになんとなくだけど聞いたら負けな気もした。
◇◇◇
帰り道聖具室の前を通った。
扉が開いてた。
中で修道女がひとり燭台を磨いてた。手が規則正しく動いてる。布が金物にかかるたび、しゅ、しゅ、と乾いた音がする。
教育係のアンキラ。うちの班のいちばんの古株だ。顔は知ってる。話したことはない。配属の日に遠くから会釈をひとつ。それきりの人だ。
通り過ぎようとしたら、声が来た。
「工房棟の」
足が止まった。こっちを見もしないでよく分かるな。
「……どうも」
「お納めものは済みましたか」
納めもの。報告書のことか。今朝あたしが箱に紙を入れたことをこの人は知ってる。なんでだ。書記室からここまで廊下をいくつも曲がる。
「済みましたけど。……見てました?」
「いいえ」
布が、しゅ、と鳴った。
「磨いていただけですよ」
見てないって意味なのか、見てたって意味なのか。どっちなのかはたぶん一生分からない。そういう声をしてた。
ちょっとだけ探りを入れてみた。商売人の癖だ。値の分からないものを見ると、つつきたくなる。
「教育係って何を教える係なんですか。あたし教わった覚えがなくて」
「あら」
磨く手は、止まらない。
「覚えがないなら、上出来です。教えというものはね、教わったと気づかれないのが、いちばんよく効くんですよ」
……今、何か教わったのか? 教わってないのか?
全敗だった。質問は二つとも確かに入った気がしたのに手元に何も残ってない。
あたしは贋作師だ。人の顔も物と同じでだいたい値踏みはできる。塗りの新しい顔、下地の傷んだ顔、銘と中身の合ってない顔。本物の顔と贋物の顔なら、見分ける自信がある。
この人のは、できなかった。
本物にも贋物にも見えない。古すぎる聖具と同じだ。年代も、工房も、手がかりになる傷ひとつ、表に出てない。こういうのはうちの世界じゃ値がつかない。つかないから、誰も盗まない。盗まれないから、ずっとそこにある。
「お引き留めしましたね」
アンキラは燭台を置いて次の聖具を取った。
「お戻りなさい。手が空くと、ろくなことを考えないでしょう、あなた」
「……それ、誰に聞いたんですか」
「さあ」
布が、しゅ、と鳴った。
それきり、何も出てこなかった。あたしは礼だか降参だか分からない会釈をして退散した。
教育係。何を教える係なのかは結局分からずじまいだ。ただひとつだけ決めたことがある。あの人の前で嘘をつくのはやめておく。通るか通らないか以前に、通ったかどうかがこっちから分からない。商売人にとってあれほど怖い客はない。
◇◇◇
工房に戻って昼からは絵筆を持った。商売のほうの筆だ。
持ったら、朝の箱を思い出した。
厚いのが薄くなったやつ。短くて直せないやつ。最初から来ないやつ。うちの班の紙は、揃いも揃って、どこかしら妙だ。あの箱を毎朝開ける側の気持ちは今日ちょっとだけ分かった。開けるたびに揃ってない。
で、あたしの三行だ。
字は揃ってる。行も揃ってる。絵も生えてない。直すところがない、と検閲の本職にお墨付きまでもらった。朱の一画も入らないうちの班でいちばんまともな紙。これは確かだ。
……いちばん上手な贋物ってのがだいたいそういう顔をしてるんだけどさ。
ま、鑑定が出るまでは、本物ってことにしておく。
明日も三行きれいに書いて箱のいちばん上に乗せる。




