第8話「監視報告 第三十三号(第十二号 再掲):本官の任務適性に関する自己点検の件(注:記録保全のため原文のまま再掲する)」
朝の文書院で本官は写本を三件写し終えた。
誤字、なし。脱字、なし。行頭の高さ、揃っている。良い朝である。
本官スティルラ。文書院の写本係である。それとは別に、表の帳面に載らない職分が一つある。対象を観察し、記録する仕事である。誰が何のために。それは知らされていない。知る必要がある、とも規程には書いていない。書いていないことは、しなくてよい。規程とはそういう優しさである。
筆を置いたところで受付のほうから聞き捨てならない言葉が流れてきた。
「目隠しの聖人さまの御絵、見た?」
「工房棟の方が描いてるんだって。熱のある方だって、祭服工房のお年寄りが言ってた」
修練の子がふたり綴じ紙を抱えて通り過ぎていく。
本官は筆を取り直した。取り直してから書くものがないのに取り直したことに気づいて置いた。
図像の件は把握している。当班の管轄に隣接する案件である。没収は済み、禁止令は出て、以後の取引は正規の手続きに移った。規則の上では現在何も起きていない。
問題はそこではない。
熱、である。
「熱のある方」。評である。工房棟の規則に触れる常習のあの者への過分な評である。本官は壁に向かって論証を開始した。論証は朝の祈り一回分に及んだので、最良の行だけを記す。
——監視とは写すことである。写すとは足さず引かずそのまま移すことである。熱は足す。
ゆえに、監視の者に熱があってはならない。あってはならないものが評として当班の周辺を流通している。
新規則の要否を検討した。保留である。規則は事由が確定してから作るものである。事由は目下観察中である。
検討を終えてそれで済むはずだった。済まなかった。論証の最後の一行が壁からこちらへ折り返してきたからである。
わたしに熱はあるか。
言い直す。本官に熱はあるか。点検は公の語で行う。
班員の適性の点検は班長の管轄である。だが「本官に熱があるか点検されたし」と上申すれば、班の書面が一枚増える。書面をいたずらに増やすことは本官の本意ではない。
それに前例がある。自己の点検は自己で行える。本官は一度それをやっている。
第十二号である。
◇◇◇
保管庫は文書院の北の奥にある。当班の綴りは決裁を終えたのちここに納められる。
自分の書いた綴りである。読むのに申請が要る。
おかしい、と言う者がいる。本官はおかしいと思わない。書いたのは過去の本官であり、読むのは現在の本官である。別人である。別人が読むのだから、申請が要る。理屈は通っている。
それに申請はよい。型があり、欄があり、順がある。順のあるものの前に立つと、心が静かになる。
受付には保管庫の係がいる。年かさの声の乾いた修道女である。
「綴りの号数と、筆者」
「第十二号。筆者は本官である」
「事由」
事由。正確に述べるなら、こうである。当班の周辺において「熱」なる評の流通が確認され、本官は自己の任務適性につき点検の必要を認め、ついては過去に実施した同種の点検の記録を参照し、当時の結論の現在における妥当性を——
「欄、二行ですよ」
「……職務上の参照、である」
百三十一字を六字に削った。骨の折れる音がした。比喩である。
係は紙片に目を落としてそれから本官を見た。
「文書院の。閲覧今月二度目ですね」
「三度目である」
「……自分で増やします? それ」
「記録は、正確でなければならない」
係は何か言いかけ、やめ、奥へ消えた。待つあいだ本官は受付の机の木目を数えた。二十二本。先月と同じ数である。当然である。増えたら事件である。
綴りは、布に包まれて出てきた。
「閲覧は、その机で。持ち出し禁止。書き込み禁止」
「知っている。規則である」
「……ええ。規則です」
係の声がわずかに疲れていた。規則を告げる側が規則だと返される。この係の仕事も楽ではないらしい。
◇◇◇
第十二号は薄かった。
紙、一枚。別紙、なし。欄外注、なし。
無駄がない。惜しいとも言える。いまの本官ならこの十倍は書ける。当時の本官は書く力が足りなかったのである。精進の跡が一目でわかって感慨深い。
紙面の右肩に朱が入っている。四文字。
「簡潔。良し」
班長の赤である。本官の綴りが受けた賞賛の記録である。本官はこの四文字をいまも誇りに思っている。
本文は二件で構成される。一件目、深夜の聖務記録域における対象の観察、一件。二件目、本官の任務適性に関する自己点検、一件。
読む前から全文を言える。本官の記憶は紙より確かである。それでも読むのは照合のためである。記憶と記録は別の棚に置くべきものである。
読んだ。一字も違わなかった。当然である。
そして当然のついでにあの夜が戻ってきた。
◇◇◇
配属されて間もない頃である。
夜半過ぎの文書院に本官はいた。いてはならない時刻である。居残りの許しは晩の鐘まで。本官はそれを写本一枚のために超過していた。書きかけを置いて帰ることは本官の規則が許さない。院の規則と本官の規則が衝突した場合これまでの実績では本官の規則が勝つ。
廊下に足音がした。
本官は灯を消した。条件反射である。超過の身で見つかれば、始末書が一枚増える。書くのは好きだが、始末書は別である。
扉が開いた。
蝶番が一度軋んだ。聖務記録域の扉は音を立てずには開けられない。古い扉である。
灯が一つ入ってきた。
白が見えた。
目隠しの白。手袋の白。法衣の紅は灯が一つきりだとほとんど黒に見える。
あの御方であった。
本官は——わたしは、息を止めた。
御方はお一人だった。供はなく、灯は手の内の一つきり。記録域の奥の定めの卓へまっすぐに歩かれた。扉から卓まで十三歩。本官は数えた。こういう時でも癖は止まらない。
卓に紙が置かれた。何の紙かはわからない。距離と灯の数がそれを許さなかった。見えたのは白い手袋が紙を繰るところ。印の匣の蓋が開くところ。
朱は練り直されなかった。
夜の朱は固い。練らずに使えば、含みが偏る。写本係なら誰でも知っている。誰でも知っていることを飛ばすのは急いでいる者である。
印が、押された。
背中だけが見えていた。灯の輪の中のまっすぐな背中である。それ以上の何かが見えた、とは書かない。見えなかったからである。
そこまでは写っている。
それから扉の閉まる音がした。
間に何があったか。紙はどうなったか。卓から扉まで帰りの十三歩はあったのか。
写っていない。
蝋の垂れが三筋であったことは写っている。入室の風で灯の揺れが二度大きくなったことも。本官の記憶はそういうものを一つも落とさない。落とさないはずのものがあの数十拍だけない。
その数十拍のあいだ本官が何を見ていたのかも写っていない。
本官は見つからなかった。少なくとも始末書は来なかった。
翌朝規程集に当たった。
認可の印は日のあるうちに定めの卓で定めの手順をもって押される。手順はそうある。では夜に押すことを禁ずる文言はあるか。
探した。三度探した。ない。
規程は夜の認可を禁じていない。想定していないだけである。想定の外は違反ではない。よって、報告すべき逸脱は存在しない。
付言する。本官も同じ寸法で逸脱である自分の逸脱を棚に上げて他者の逸脱を申告することは記録の公正を欠く。棚に上げる場合は両方を上げる。両方を上げれば申告は発生しない。
理屈は通っている。あの頃から本官の理屈は通っている。
観察そのものは書いた。一字も省かずに。省かないのは本官の取り柄である。
印影に気づいたのは数日のちである。
検めの当番が回ってきた。綴じ込みの前に印影を正規の見本と引き合わせる仕事である。中身は読まない。読むのは印の顔と日付だけである。
印影は顔である。本官は顔を覚える。
歪んでいた。
右の下が薄い。朱が掠れ、押しの力が紙の上で偏っている。寸が狂うほどではない。けれどまっすぐに見ればわかる。日付があの夜と同じであった。
外因の候補を三つ立てた。
一つ。朱。夜のは固い。練りを飛ばせば掠れる。
二つ。灯。一つきりの灯は卓の全部を照らさない。
三つ。急ぎ。誰でも知っていることを飛ばすほどの急ぎ。
三つともありうる。三つとも確かめようがない。以上は本官の説である。説は三つあり、事実は一つもない。
そしてどの説を採っても最初の欠けは埋まらない。
なぜ、朝を待たれなかったのか。
蝋の数は写せた。歩数も写せた。「なぜ」だけはどの紙にもどの記憶にも写らない。本官が写せるのは見えたものだけである。
規程は認可を朝の側に置いている。あの夜御方は文言と趣旨のあいだをお一人で通られた。本官が知っているのはそこまでである。そこから先は写っていない。
その頃本官の綴じる手は遅くなっていたらしい。
灯と鍵の返納は聖具室の管轄である。返しに行くたび教育係のアンキラどのがいた。あの人はいつも何かを磨いている。
「文書院の。手が遅くなりましたね、このごろ」
「……記録に欠けがあるのです。埋め方を検討しています」
「お止めなさい」
磨く手は、止まらなかった。
「欠けは欠けのまま綴じなさい。埋めた欠けは嘘と同じ寸法になりますよ」
「……なぜ欠けがあると」
「祈っていると、いろいろ聞こえてくるものです」
何も答えていない。本官はもう一歩だけ踏み込んだ。
「教育係どのは、書けない夜を、お持ちになったことがありますか」
「さあ」
鍵束が軽く鳴った。
「私は、祈っていただけですよ」
これも何も答えていない。答えていないのに、それ以上は聞けない返事だった。アンキラどのの返事はいつもそうである。
本官は欠けを欠けのまま書いた。
観察、一件。蝋、三筋。往路、十三歩。復路、記録なし。事由は、不明、と書いた。
印影、同件に追補。歪み。外因の候補、三つ。確定、不能。
点検、一件。観察の最中に観察者の記録が欠けた。これは適性に係る事実である。よって本官は本官を点検した。目耳手数。道具は全部揃っていた。欠けの再発は以後確認されない。結論異常なし。
それが第十二号である。
◇◇◇
顔を上げると、保管庫の閲覧机だった。
窓の光が来た時よりも斜めになっている。記憶を読むのは紙を読むより時間を食う。
目の奥にまだ残っていた。灯一つぶんの白。ほとんど黒に見えた紅。十三歩。練られなかった朱。文言と、趣旨と、そのあいだ。
「……尊い」
声に、出ていた。
「何か言いました?」
受付から係の声がした。
「……規程の、確認である」
「はあ」
本官は手元の帳面に線を一本引いた。引く必要のない線だった。引かれた線は記録である。本官はその横に、無効、と書き添えた。記録はこうして増える。
綴りを布に包み直して返した。
「お早いですね」
「照合は済んだ。清書は原本がなくともできる」
「……それ、閲覧の意味あります?」
「ある。頭の中の原本に誤りがないことが確認できた」
係は本官を三拍ほど見て何も言わずに奥へ戻っていった。誰も彼も最後は何も言わなくなる。本官の会話の終わり方はたいていこれである。
◇◇◇
夕自分の机で第十二号を写した。
原文のまま、である。一字も足さず、一字も引かない。復路の欠けも欠けのまま。事由の不明も不明のまま。教わったとおりに。
朱も写した。四文字、一画も違えずに。記録保全とはそういう意味である。
再掲に引用では足りない理由を述べておく。引用は削る。削らない引用を再掲という。本官は削らない。
写し終えて新しい紙を出した。現在の点検を添えるためである。当時の結論が現在も立つか。照合のない結論は結論ではない。
論証は夕の祈り一回分を超えた。最良の行だけを記す。
——観察する者が対象を変えてしまうことを規程は警戒している。観察される者が観察する者を変えてしまうことについて規程は何も定めていない。
定めのない問いは点検の項目にない。項目にない問いには答えなくてよい。
(註。この理屈を本官は本日二度使っている。良い理屈は良い道具であり道具は二度使ってよい。規則と同じである。)
結論。本官の任務適性に異常はない。
当時の結論と一致した。二度数えて同じ数が出た。二度数えて同じなら、それは正しい数である。数えることについて本官が間違えたことは——
一度だけある。
復路の、十三歩。
あの欠けはいまも欠けのままである。欠けのまま綴じてあるから、嘘ではない。嘘でないものは異常ではない。論理に隙はない。
筆を置いた。
机の上で清書が乾いている。
二部、ある。文面は、同じ。
一部は明朝提出の箱へ上がる。もう一部は——
晩の鐘が鳴った。
本官は灯を引き寄せて机の上を定めの順に片づけた。明日は持ち場に戻る。数えるべきものを数え、写せるものを写す。
写せないものは、欠けのまま、綴じる。




