第7話「監視報告 第三十二号:当班員への過分な評(熱がある)、ならびに図像の評判に関する件」
商売の偵察に出た。
自分の絵がいつの間にか聖歌隊から信心会まで歩き出してるという。そこまで広がったのなら、どんな顔で拝まれてるのかいっぺん見ておいたほうがいい。何を期待されてるかが分かれば、次の値付けがしやすい。
そう思って工房を出た。これは商売だ。信心の見物じゃない。念のため。
◇◇◇
聖歌隊の稽古は午後の早いうちにある。
歌の前に、御絵に挨拶すると出だしが揃う——という、例の言い伝えだ。誰かが勝手に言い出して勝手に広めた。手を離れた商品は買った者の都合でいくらでも化ける。
稽古場の戸口からそっと中を覗いた。
若い修道女が並んで、声を出してた。その澄んだ声の中に聞き覚えのある一人が混じってる。カンティアだ。献血の列で会った血の出のいい子。
歌はたしかに揃ってた。出だしがぴたっと。
入口の脇にあたしの板絵が一枚立ててある。布を半分めくって、立ち姿が見えるように。みんな歌う前にそっちへ会釈してた。あたしの絵にじゃない。絵の中の人にだ。
出だしが揃うのは、毎朝そろって稽古してるからだ。あの板は木に膠と顔料を塗っただけのただの絵だ。あたしが半刻で上げたいつもの型。
でも、まあ揃ってるならけっこうなことだ。商売に水は差さない。拝みたいだけ拝めばいい。
じゃあそこから先信心会まで誰が運んでるのか。声の道を辿れば、出どころが見える。それが知りたい。
◇◇◇
辿った先は隣の祭服工房だった。
聖歌隊と信心会のあいだをいちばん行き来してるのは祭服を縫う修道女たちらしい。法衣も祭壇布もここで作る。作りながら、館じゅうの話が集まる。布と一緒に噂も縫い込まれていく。
工房の戸口で見覚えのある若い子があたしを見つけて駆けてきた。あたしの聖画の取次をやってるあの子だ。すっかり顔が広くなってる。
アルデンティアさまがあなたに会いたいって
「誰?」
「祭服工房のいちばん古い方。御絵のこと聞きたいってずっと言ってて」
御絵のこと。めんどくさい予感がした。けど、評判の出どころに近そうな話でもある。商売の偵察だ。会っておこう。
取次の子が奥へ案内してくれた。布の山と糸の束と刺繍の枠が並ぶ薄暗い部屋だ。
その奥に一人の老修道女がいた。
◇◇◇
大きな布の前に座ってた。
あたしの背丈ほどもある馬鹿でかい一枚。それにびっしりと刺繍が入ってる。糸で聖人たちが描かれてる。何人も、何人も。布の端から端まで。
その手が休みなく動いてた。針が布に潜って出てまた潜る。あたしが部屋に入っても顔だけこっちへ向けて手は止めなかった。
「あなたが、あの御絵のひと」
しわがれてるけどよく通る声だった。
「ミニアです。工房棟の」
「アルデンティアよ。座って。お茶でも——いえ、手が離せないわね。ごめんなさいね」
針をすっと一目進めながら笑った。
「この子ったら、もう三十年も縫わせてくれないの」
布のことだ。三十年。
近くで見て、息を呑んだ。布の左の端はもう色が褪せて糸が古い。右の端はまだ真新しい。同じ一枚の布の中で、三十年ぶんの時間が左から右へ流れてる。左端の聖人はたぶんこの人が若い頃に縫った。右端のは今朝の続きだ。
「すごい、ですね」
ほかに言葉がなかった。商売柄、人の手仕事はだいたい値踏みできる。これはできなかった。完成しないものに値はつかない。
「いつ、出来上がるんですか」
「出来上がらないわ」
あっさり言われた。
「これはね、終わらないの。聖人さまは年々お増えになるでしょう。新しく敬うべき方が出てくるたびにお足ししなくちゃ。だから、わたしが死ぬまで終わらない。終わらないのがいいのよ」
終わらないのが、いい。
この人、たぶん一生かかっても終わらない大作に三十年つぎ込んでる。出来上がりを見届けるつもりもはなからない。
あたしの聖画は半刻で上がる。注文どおりに何枚でも。三日で納める。それが商売だ。この人のこれは商売の対極にあるものだった。
◇◇◇
アルデンティアが針を止めずに聖人たちの話を始めた。
布の中の一人ひとりを指さしながら。
「この方はね、火の中を歩いても焦げなかった方。こっちのお優しい方は貧しい人に外套を半分お分けになって、それが翌朝丸ごと一着に戻っていた——なんて、ねえ、よくそんな作り話を信じたものだと笑ってしまうけれど」
聖人の逸話をまるで近所の知り合いの噂みたいに語る。火の中を歩いた人。外套を分けた人。隣の家のおばさんがこないだこんなことをしたくらいの調子で。
「お話は半分は作り事よ。みんな後から尾ひれがつくの。誰がいつ言い出したか分からない話がいちばんよく広まるわ」
それはあたしも知ってる。
「歌が揃うのも血の出がいいのもあたしの絵にお参りすると御利益があるってのも徳なんか描いてないのに勝手に効くことになってる」
つい言った。
「あら」
アルデンティアが初めて手を止めてこっちを見た。にっこりして。
「あなた、いいことを言うわね。勝手に効くことになってる。そうよ、そのとおり。でもね」
針がまた動き出した。
「貼り付けた話のほうが本物より長く生きるのよ。本物はいつか土に還る。お話は還らない。だから、お貼りなさいな。どんどん。あなたのその後から貼り付けるお手々で」
褒められてるのかけなされてるのか分からなかった。たぶん本気で褒めてる。あたしの「後付けの話を商売にする」やり口をこの人は敬虔の一種だと思ってる。
そういえば、と思い出した。
あたしが客に向かって言う商売用の軽口がある。「御利益は各自の信心しだい」とか、「祈りの効きは描いてない」とか。あれをいつからか聖歌隊の子たちがありがたい教えみたいに口写しにしてる。「効きは各自の信心しだい、ですって」と。
火元はこの人だ。
あたしの俗な口上を「新しい、つつましい敬虔ね」とかなんとか言って有り難がって隣近所に配って回ってる。善意で。
◇◇◇
アルデンティアが布の一点を針の先で示した。
「ねえ、見て。ここ」
聖人の一人の法衣の裾だ。糸が何本もの濃淡で影を作ってる。布が、ふくらんで、垂れて、半拍遅れて翻る——そういう、動きの影。
背筋を、細い針が一本、通った。
その影の入れ方をあたしは知ってた。
あたしの聖画の立ち姿の裾。あの影の落とし方と、寸分とは言わないが、ぎょっとするほど似てる。糸と顔料、布と板。道具も違えば、手も違う。なのに、影だけが同じ呼吸をしてる。
「この影だけは三十年やってて自分でも気に入ってるの。何度やり直したか」
「……何年、かけたんですか。その影に」
「さあ。十年は撫でていたかしらね」
十年。あたしが半刻で落とす影にこの人は十年かけた。手も道具も違うのに行き着く先が同じだった。
ぞっとしたのは、似てたからじゃない。
似てたことにいまあたしが気づいたってことにだ。
◇◇◇
あたしは贋作師だ。物を見る商売だった。
本物と偽物の差は誰も見ない場所に出る。だから、ずっとその隅っこを覗き込んで生きてきた。あたしが覗く側で覗かれるのは物のほう。回廊の敷石も、客の縫い目も、あの人の止まった一瞬も、ぜんぶあたしが片側から見てる獲物だった。そう思ってた。
違った。
この三十年の一針を縫った老女も、同じ影を見てた。同じ裾の、同じ翻り方を。あたしが見てる場所を、もう一人、ずっと前から見てた人がいた。
それだけじゃない。
あたしの絵はもう、この工房の布に、聖歌隊の喉に、信心会の口にすっかりまぎれ込んでる。あたしの後付けの軽口まで、敬虔の教えに化けて館じゅうに散ってる。あたしはとっくに、三十年の老女と見分けのつかない場所に立ってる。
ここではあたしの熱心さも、この人の三十年もまとめて「敬虔」の一語でくくられる。誰もあたしの手の素性を疑わない。盗み見る目が拝む目のふりをしてまんまと馴染んでる。
居心地がよかった。それがいちばん落ち着かなかった。
◇◇◇
「あなたには熱があるわ」
アルデンティアが針を進めながらぽつりと言った。
「ここに来る子はたいてい義務で来るの。お役目だから。決まりだから。でも、あなたのは違う。あなたは好きで描いてる。御絵に熱がこもってる。わたしには分かるのよ。三十年も針を持ってると」
熱。
あたしの胸の中でその一言が二つに割れて別々に鳴った。
片っぽはこの人が言ってる意味だ。敬虔の熱。好きで描いてる、心がこもってる、っていう温かいやつ。
もう片っぽはあたしが死んでも口に出せないやつだ。あたしがこの絵を描くのは、好きだからじゃない。任務だからだ。あたしの熱はもっと冷えてて用心深い本職の熱だ。
この老女はあたしの本職をこれっぽっちも知らない。知らないままあたしの本職の熱を敬虔と取り違えて褒めてくれてる。世界でいちばん安全な誤解だ。
「……どうも」
それしか言えなかった。
「いい子ね」
アルデンティアは満足そうに頷いて、また布に戻った。針が潜って出てまた潜る。三十年と同じ拍で。
◇◇◇
工房を出た。
廊下で取次の子が待ってた。
「どうでした、アルデンティアさま」
「いい人だった」
あの人はいい人だ。底抜けに。あの人がいる限りあたしみたいな熱の女が一人まぎれ込んでても誰も気にしない。みんな「熱心な子」で済む。あの人がいちばん熱いから。
つまり、あの人はあたしの盾だ。本人は針を縫ってるだけのつもりで。
アルデンティアさまの刺繍いつ完成するんですか? 一度ぜんぶ見てみたくて
子が目を輝かせて聞いてきた。
「完成しないってさ」
「ええっ」
「完成しないのが、いいんだとさ」
子はよく分からない顔をした。あたしも半分しか分かってない。けど、なんとなくあの布は完成しないほうがいいんだろうと思う。完成したら、ただの布になる。完成しないあいだは毎日誰かが針を入れる理由がそこにある。
◇◇◇
帰り道洗濯場の前を通ったらファーマが盥の前にいた。
「あら、ミニアちゃん。祭服工房に行ってたんですって?」
もう知ってる。早い。
「アルデンティアさまにつかまってたんでしょ。あの方御絵が好きだから。話が長いでしょう、あの方」
「長かった」
「館じゅうのことあたしは知ってるからね。誰がどこで何を縫って、誰がどこで油を売ってるかぜんぶ。あなたがいつどこの工房に何しに行ったかもね」
得意げに布を絞る。この人の網には館の何もかもが引っかかる。誰の縫い物が雑かも、台所の隠し甘味の在処も。あたしの今日の足取りまで。
ただ、一つだけ。
北の回廊の、昼前の、あの立ち止まり。あの人が何もない敷石の上でふっと足を止めたあの一瞬だけは——ファーマの口からも、誰の口からもついぞ出てこない。あれだけは館じゅうの噂の網にただの一度もかかったことがない。
うちの班は四百二十一回も数えてそのうち一回を見た。けど、それが何だったのかはいまだに分からない。何でも知ってるこの人にすら入ってこないことがこの世にひとつだけある。
「便利だね、ほんと」
あたしはそう言って、その先は言わなかった。
◇◇◇
工房に戻って、画板を片づけた。
商売の偵察。収穫はあった。あたしの絵がどこまで歩いたかよく分かった。聖歌隊から祭服工房を通って信心会まで。盾の生態系の真ん中をあたしの後付けの聖人さまがすいすい泳いでる。
評判が立つのは悪くない。銀貨が増える。
ただ、ここまで広がるとそろそろ別の連中の耳にも入る。信心会には絵の見方にうるさい手合いがいる。誰がどう描いたか何を描いてないかいちいち言うめんどくさい連中だ。あの手合いに目をつけられたら、商売の偵察じゃ済まなくなる。
それと——文書院だ。
あの数える人の耳にもいずれ評判は届く。届いたら、また帳面に何か書かれる。三歩以内に近づくなの次は何が来るやら。
明日は絵の口上を一つ引っ込めておこう。広げすぎた風呂敷はときどき畳むに限る。商売は足し算ばかりじゃ続かない。
あの三十年の布を見たあとだと半刻で上げる自分の絵がやけに薄っぺらに思えてそれはそれで業腹だった。




